Ep.11 キミハオセッカイ
「ねぇ、飯澤さんって可愛いね」
クラスの女子の鈴が鳴るような無邪気な声が私の耳に心地よく響いたのは、高校に入学して間もない、まだ肌寒い春の日のことだった。その瞬間、私の胸には温かい光が差し込んだような、柔らかな喜びがじわりと広がった。
中学の頃の私は、まるで日陰に咲く花のように、ひっそりと目立たないように生きていた。誰かに何かを言われたわけでもないのに、いつも人の目を気にして、身を潜めるように地味な学校生活を選んだ。いじめられたことも、陰口を叩かれたことも一度もない。ただ、私は自分自身に、拭い去れない自信のなさを抱えていたのだ。
それでも、この卑屈な自分をどうにかして変えたい。そんな強い願いが、私の心の奥底に燃え盛っていた。だから、高校生になったら、絶対に変わるんだと固く誓った。これは、私にとっての「高校デビュー」。過去の私を誰も知らない新しい環境で、私はまるで生まれ変わったかのように、明るく、そして積極的に振る舞うことに決めたのだ。
「バスケ部のマネージャー、やってみない?」
ある日、クラスの女の子から誘われたバスケ部のマネージャーという言葉に、私の心は弾んだ。その誘いに、私は二つ返事で飛びついた。それは、まさに私が思い描いていた「青春」の始まり。放課後、汗と青春の匂いが混じり合う体育館で、部員たちの練習風景を眺める日々。私の高校生活は、間違いなく大成功のスタートを切ったのだ。おしゃれなカフェに部活帰りに寄り道して、インスタグラムで見た憧れのスイーツを友達とシェアする。男友達もたくさんできて、他愛もないことで笑い合う時間が、何よりも愛おしかった。
そんな充実した日々を送っていたある日、さらなる奇跡が、突然私の目の前に舞い降りた。
「美波ちゃん。良かったら、俺と連絡先交換しない?」
バスケ部で一番目を引く存在。すらりとした長身に、整った顔立ち。いつもクールな表情なのに、時折見せる笑顔が眩しい、二年生の桐生先輩が、まさか私に声をかけてくれるなんて。私の心臓は、驚きと喜びで激しく高鳴った。大勢の一年生女子たちから、憧れの眼差しを一身に集める彼が、私に、この私に、声をかけてくれたのだ。私は震える手でスマートフォンを取り出し、喜んで彼からのメッセージを受け入れた。
それから、先輩は毎日のようにメッセージをくれた。他愛もない日常の話から、バスケ部のこと、時には私の今日の出来事まで、まるで恋人のように優しい言葉が並んだ。もしかして、これが「恋」なのかもしれない。淡い期待と、少しの戸惑い。私の毎日は、先輩からのメッセージを受け取るたびに、まるで色鮮やかな光を放つように輝いていた。
◆
夏が終わりを告げ、セミの声も遠くなった頃、私たちの学校では最大のイベント、学園総合文化体育祭、通称「学体祭」が目前に迫っていた。校内は浮足立ち、準備に追われる生徒たちの熱気が充満している。
そして迎えた学体祭当日。メインイベントのダンスパフォーマンスに後ろ髪を引かれつつも、私は桐生先輩に呼び出され、約束の特別校舎裏へと向かった。胸の奥が、期待と少しの不安でちくりと痛む。
先に到着していた先輩は、いつものように爽やかな笑顔で私を迎えてくれた。その眩しさに、私は思わず顔を背けてしまう。先輩は、私の逃げ出した視線の先へと回り込み、まっすぐに私を見つめた。そして、少しだけ間を置いて、まるで決意を固めるように一言、紡ぎ出した。
「俺さ、やっぱり美波ちゃんが気になってる。こんな言い方失礼かもしれないけど、試しでもいいから、付き合わない?」
初めて、告白された瞬間だった。
その言葉は、まるで熱い稲妻のように私の全身を駆け巡り、顔が焼けるほど熱くなるのを感じた。あまりの恥ずかしさに、私は両手で顔を覆い隠す。先輩は、普段の自信に満ちた声とは違う、どこか気弱な声色で「ダメかな?」と小さく呟いていた。
ダメなわけがない。
まだ本当に「好き」という感情がはっきりしているわけではないけれど、こんな奇跡のような出来事は、もう一生巡ってこないかもしれない。私は顔を覆ったまま、何度も何度も頷いた。私の心臓は、嬉しい驚きと戸惑いで激しく脈打っている。先輩の、安堵と喜びが滲む声が、耳の奥まで温かく響き渡ったのを今でもはっきり覚えてる。
◆◆
学体祭から数日が経ち、桐生先輩からの告白を受け入れた私は、これまでになく毎日が輝いて見えた。まだ一度もデートはしていないけれど、先輩との初デートを想像するだけで、つい顔がにやけてしまう。そんな浮き立つ心で満たされていた。
放課後、いつものように部活へ向かう途中、教室に忘れ物をしてしまったことに気づく。急いで来た道を戻り、教室の前にたどり着いた。扉に手をかけたその瞬間、中から同じクラスのバスケ部員の話し声が聞こえてきた。普段からよく話す男友達の声だ。
扉を開けて声をかけようとした時、思いもよらない会話が耳に飛び込んできた。
「てかさぁ。桐生先輩マジでヤバイよなぁ」
先輩の話をしている? 私は思わず、聞き耳を立ててしまった。
「あー、イケメンならなんでも許されるから仕方なくね?」
教室には複数人が雑談に興じているようだ。その声で、すぐに誰が話しているのかわかった。良く話す男友達だ。
「正直驚いたけどさ。学体祭の最中に、女子マネの飯澤のこと口説いて成功するなんて」
え……、なんで、そんなこと知っているの? 胸がざわつく。
「だけどさあの人、言ってること、まじで鬼畜じゃね。『身体は貧相で幼稚だけど、顔はいいから試しにヤってみる』とか、マジでチャラいよな?」
男子生徒たちの言葉が、突然、鋭い刃となって私の胸を貫いた。熱かった顔から、血の気が引いていく。
「まぁでも、何も知らずに喜んでる飯澤も大概だよな。先輩が飽きてふったら、今度は俺が告白してみようかな? 案外、すぐヤれるかも」
「はぁ? お前、それズルいって。俺がさきだよ!」
「ハハハ……、ハハハ……」
男子たちの下卑た笑い声が、教室に響き渡る。その残響が、私の鼓動をどんどん早くする。
なにそれ……、気持ち悪い。
自分に向けられた、あまりにも歪んだ感情に吐き気がこみ上げる。嗚咽しそうな声を必死に堪えながら、私はその場に崩れ落ちるようにしゃがみこんでしまった。
気持ち悪い、みんな、そして、浮かれていた自分も……。
一度溢れ出した涙は、もう止まらなかった。結局、私は昔から何一つ変わっていない。やっぱり私は、誰かの悪意が怖くて仕方がないんだ。
教室から聞こえる笑い声がいっそう大きくなる。その楽しそうな声が耳に届くたびに、強い吐き気が襲ってきた。聞きたくない、もう何も信じられない。
顔を伏せていた私の横を、誰かが通り過ぎる気配がした。勢いよく開かれる教室の扉に、私は思わず身を隠した。
「……そこ、俺の席だからいい?」
思わず息を潜めた私の耳に、静かだが芯のある声が届いた。恐る恐る、隠れながら廊下から教室を覗き込む。そこには、見慣れた男子生徒が三人組の前に立っていた。逆光になった彼の表情は読み取れないが、その場の空気は一瞬にして張り詰めたように感じられた。
「ああ、ごめんごめん。えっと……」
座っていた一人の男子がバツが悪そうに立ち上がり、曖昧な笑みを浮かべた。その顔には、明らかに動揺の色が浮かんでいる。
「バカ、同じクラスの伊沢くんだろ? コイツめっちゃ失礼でごめんな」
別の男子が慌てて割って入り、頭を下げた。彼らの焦りが、教室の静寂に溶け込んでいく。
「インフルで休んでたんだよな。もう学校きて平気なの?」
三人組の一人が、まるで気遣うかのように尋ねる。しかし、その言葉にはどこか探るような響きがあった。伊沢くんは、その問いかけに対し、ただ短い言葉で返していた。その声には、感情の起伏がほとんど感じられない。
伊沢くん――私の前の席の男子。何度か朝の挨拶を交わしたことはあるけれど、いつもどこか影を纏っているような、掴みどころのない印象の彼を、私はよく知らない。
「さっきの会話、廊下まで響いてた。同じクラスの女子が騒いでたけど、大丈夫?」
彼は静かに、しかし有無を言わさぬ口調で呟いた。その言葉が放たれた瞬間、三人組の男子は途端に顔色を変え、まるで罪を見咎められた子供のように固まっていた。
廊下には私の他に女子なんて見当たらない。彼は陰口が私の事だとわかっててあんな嘘を言ってくれた?
教室に漂う緊張感が、私の心臓をドクドクと震わせる。
男子生徒達は言い訳がましい事を吐き出すと、そそくさと教室を後にした。私はまた身を隠しながら、教室の中を覗いた。伊沢くんは一人、自分の席について何かをしきりに書いている。
涙で赤くなった両目を押さえて、私は平静を装って中へ入った。彼はこちらを見ることもなく、黙々と机に向かっている。
「忘れ物しちゃったぁ……。あれ、伊沢くん、何してるの?」
わざとらしく思われないように、私は彼に声をかけていた。さっきの事、それとなく感謝を伝えたい。
「学体祭、インフルエンザで休んじゃったから。補修の感想文書いてる」
「感想文って……、参加してないのに、いったい何を書くの?」
思わず聞いてしまう。彼は一瞬真顔になると、唸るように首を傾げていた。
「たしかに……、さっきからいくら考えみても、何も書けないな」
真剣に悩む彼の表情に私は吹き出してしまう。さっきまでズタズタに引き裂かれた私の心は、温かな何かに満たされたのだった。
◆◆◆
あの熱狂が嘘のように、私はすぐにバスケ部のマネージャーを辞めた。桐生先輩からのメッセージは、読むたびに胸が締め付けられるようで、適当な理由をつけて返信もしないまま、放置している。誰かの噂話が耳に入ってきた。どうやら桐生先輩の中では、私の存在はもう自然消滅という形で片付いているらしい。それでいい。
私にはもう、浮かれた気持ちになることはないと思っていた。だけど、気づけば私の心は、ある一人の人物に惹きつけられていた。彼は誰に対しても物怖じせず、それでいてどこか不器用なところが、私にはたまらなく魅力的に映る。
彼はそんな性格からか、結局、学体祭の委員長まで引き受けてしまった。きっと、周りの誰かが困っているのを見過ごせない性分なのだろう。でも、そこが彼の良いところだと、私は知っている。
もっと彼のことが知りたくて、授業中もついつい後ろの席からこっそり彼を盗み見てしまう。彼が暇な時に夢中になって読んでいるWeb小説。その書籍版を本屋で見かけた時は、吸い寄せられるように手に取り、すぐに購入してしまった。
つい先日、その小説の新刊が出たらしい。帰り道、思い切って彼を誘ってみようか。そんな期待が胸に膨らんだ、その矢先のことだった。
……私の胸に、チクリと棘が刺さった。
今まで見たこともない、心底楽しそうに笑う渚くん。そして、彼と同じくらい生き生きとした表情で、凛とした顔を崩して笑う四十沢さん。書店のガラス越しに二人の姿を目にした時、私の中で、今まで感じたことのない複雑な感情が渦巻いた気がしたんだ。