Ep.10 モットダイタンニ
その日、私は人生で初めて、心臓がドキドキと高鳴るような大胆な行動に出た。教室に漂う少しばかりの緊張と気だるさが混じった空気を破るように、担任の市山先生が朗らかな声で言った。
「よぉし、それじゃあくじ引き始めるぞ。まず一人目……」
先生の大きな手が、教卓に無造作に散らばる、小さく折り畳まれた紙の束から一つを選び取った。四つ折りの紙を丁寧に開き、少しばかり目を細めた後、先生はゆっくりとその名前を読み上げた。
「一人目は……、伊沢渚だな。じゃあ、次決めるぞぉ」
誰もが避けたがる学体委員。各クラスからたった二人だけが選ばれる、何となく面倒で、でもやらなければならない役割。伊沢くんの名前が呼ばれた瞬間私の胸の中で今まで感じたことのない衝動が、まるで炭酸が弾けるように湧き上がってきた。
「――あ、あの!」
勢いよく手を上げた私に、クラスメイトたちの視線が一斉に集まる。頬が熱くなるのを感じながら、悟られないようにいつもの少しばかりお調子者のトーンで明るく声を張り上げた。
「私、やっぱり学体委員やってみたいかなぁって思いました!」
教室の中が、小さな波紋が広がるように、ざわつき始めた。予想外の言葉に市山先生は目を丸くし、驚きと戸惑いが混じったような曖昧な表情で私に問いかけた。
「なんだ、飯澤? さっきまで立候補するなんて言わなかったじゃないか。本当にやる気があるのか?」
心臓はまだドキドキしているけれど、もう後には引けない。私は少しだけ声を潜め、でも先生に聞こえるようにわざとらしく理由を付け加えた。
「いやっ、たった今、思ったんです! それに……、学体委員って内申上がるって先輩が言ってたの思い出して……。それって本当なんですよね?」
教室のあちこちから、堪えきれないといった様子の小さな笑い声が聞こえてくる。少し離れた席にいる友人たちが、面白がるように何か茶化すような言葉を投げかけているのが、横目で分かった。それでも、私は顔を赤らめながら、先生の返事を待った。
「今って、お前なぁ……、内申目当てでやってもいいが、責任持ってちゃんとやれるのかぁ?」
「は、はい! たぶん……」
承諾を得られた安堵と、これから始まるかもしれない特別な関係への期待が入り混じり、私の頬は熱を持った。クラスメイトの温かい拍手が、まだ耳の奥で響いているようだ。
「まぁ、いいか。クラスの同意ならお前に任せる。おい、伊沢もいいよな?」
担任の市山先生の声が、少し遠くに聞こえた。先生の視線の先では、伊沢くんが机に突っ伏したまま動かない。何度か名前を呼ばれて、ようやくゆっくりと顔を上げた彼は、まだ眠たそうに首を傾げている。周囲の喧騒とは別世界のようだ。
その時、教室に響き渡った終鈴の音。待ちかねたように、クラスメイトたちは一斉に立ち上がり、それぞれの帰路へと急ぎ足で向かっていく。さっきまでの大胆な行動が、私の胸にまだ熱い興奮を残していた。心臓が少し早鐘のようにドキドキしている。
「ねえ」
勇気を出して、彼の肩にそっと触れた。すると、彼は予想以上にびくりと体を震わせ、大きく身を引いた。その過剰な反応に、私の顔が一瞬で赤くなる。しまった、驚かせちゃった。慌てて前髪を指で弄び、ばつの悪さを隠そうとした。
(言うんだ、絶対、今しかない!)
心の中で何度も叫んだ。これは、勇気を振り絞って掴んだ、またとないチャンスなのだから。
平静を装いながら、どうでもいい愚痴をいくつか話してみる。その会話の流れに、本当に伝えたい言葉をそっと織り交ぜた。彼は、私のそんな小さな策略には全く気づいていない様子で、あっさりと願いを聞き入れてくれた。初めて、自分の名字に感謝した瞬間だった。
「オッケー。よろしくね、渚くん。私の事も名前で呼んでいいから」
ごく自然に出たその一言に、後からじわじわと恥ずかしさがこみ上げてくる。
しまった、言いすぎたかな。でも、彼の反応は意外なものだった。彼は、私の言葉をじっくりと噛み締めているかのように、固まったまま動かない。正直、助かった。もし彼が真面目に何か返してきていたら、どう応えていいか分からなかっただろうから。彼の静かな横顔を見つめながら、私の心は期待と不安がないまぜになっていた。
『――おーい、美波~』
友達の呼ぶ声に席をたつと、またねと手を振ってその場を離れた。
◆
その日の夜、家のドアを開けても、私の胸に残るドキドキは鎮火してくれなかった。初めて、ほんの数時間前に呼んだばかりの彼の名前を、薄暗い自室の天井へ向けてそっと呟いてみる。
「渚くん……」
声に出した途端、その音はまるでシャボン玉のようにフワリと漂い、少し遅れて私の耳へと優しく帰ってくる。その反響が、まだ熱い私の頬をくすぐるみたいだった。
「……やっぱり、送ってみよう」
心の中で一度芽生えた小さな願望は、ダムの決壊みたいに、もう誰にも止められない勢いで溢れ出してきた。左手に握りしめたスマートフォンを、まるで宝物でも扱うようにそっとスリープから呼び起こす。淡い光を放つ画面には、さっきまで開いていたメッセージチャットが、まるで時間が止まったかのように静かに表示されていた。
(なんて送ればいいのかな……? こんな時間に急に送ったら、変に思われちゃうかな?)
両手にスマートフォンを包み込むように握りしめて、頭の中で何度も言葉を紡いでは消していった。書いては消して、結局は挨拶程度の当たり障りのない言葉を繰り返してしまう。そのうちに、さっきまでのドキドキはどこへやら、どんどん自信という名の小さな炎が消えかかっていく。
長い時間悩んだ末、結局、なんの目的かも分からないようなありきたりな文章を打ち込んで、震える指で送信ボタンをそっと押した。
「あ……、これだけじゃ、誰だかわからないかも!」
慌てて自分の名前を続けて送ると、なんだか事務的で素っ気ない印象を与えてしまったような気がした。
(スタンプも……、送っちゃえ!)
数あるスタンプの中から、大きなハートを両手で抱えた、少し照れた表情のパンダのキャラクターを選んだ。送信ボタンに指をかけたその瞬間、やっぱり急に恥ずかしくなって、指先がほんの少しだけ躊躇する。そして、意図せず押してしまったのは、その隣にあった、疲れたように手を振るのパンダのスタンプだった。
「だ、大丈夫だよね、こんなスタンプでも、変に思われたりしないよね……?」
彼からの返信を今か今かと待ちわびながらも、心臓がドキドキしすぎて、まともに画面を見ていられない。私はスマートフォンの告げる未来から逃げ出すみたいに、机の端へとそっと置いた。あとは彼からの小さな光が届くのを、ただひたすらに待つばかりだった。




