Ep.1 ナギサノユメ
『――将来の夢。五年……組……、ミナミ……』
木製の床が軋む微かな音。窓から差し込む夕焼けが、教室の埃をオレンジ色に染め上げ、かすかに甘いような、どこか懐かしい匂いが漂う。一番後ろの席で、その子は小さな身体でゆっくりと立ち上がった。手に持った少し皺の寄った作文用紙が、夕日に照らされて温かそうだ。自信に満ちた、けれど少し緊張した面持ちで、彼女は広げた作文をゆっくりと読み始めた。
『私の夢は、カミサマを作ることです』
静まり返っていた教室の空気が一瞬にして凍りつき、その一言をきっかけに、堰を切ったように嘲笑の声が溢れ出した。乾いた笑い声、鼻をすする音、堪えきれずに吹き出す声。それぞれの笑い方が、教室の隅々まで響き渡る。
『カミサマは何でも作れます。私はそんな存在にずっと憧れています』
笑い声は次第に大きくなり、まるで教室全体を揺るがすようだ。机や椅子の小さな振動が、足の裏にまで伝わってくる。担任の先生は、教壇の前で苦笑いを浮かべ、時折喉を詰まらせるような音を立てながら、彼女を見ていた。その表情は、面白がっているようにも、困っているようにも見えた。
『カミサマは……』
何だよ。 何で、皆、笑っているんだよ。
胸の奥に、じりじりとした熱いものが込み上げてくる。彼女は、降り注ぐ嘲笑をまるで気にも留めない様子で、小さな声ながらも懸命に作文を読み続けている。嘲笑は、もはや遠慮のないものとなり、あちこちから遠慮なく聞こえてくる。誰かがわざとらしく大きな声で笑い、それに釣られてさらに笑いが広がる。
『だから、そんなすごいカミサマを私は作りたいです』
ようやく最後の言葉を読み終えた瞬間、教室には一段と大きく、意地の悪い響きの笑い声が満ちた。堪えきれないような、鉛色の重たい感情が胸いっぱいに広がる。喉の奥が締め付けられ、唾を飲み込むことすら難しい。
笑うな……、笑うなよッ!
拳を強く握りしめ、意を決して立ち上がると、嘲笑うクラスメイトに向けて、張り裂けるような叫び声を上げていた。
あの時、小さくて何もできなかった自分にはできなかった事を……
◆
――ザワ……、沢……、伊沢!
「は、はいっ!」
名前を呼ばれ、慌てて顔を上げる。小さな笑いが巻き起こっているのが聞こえた。
いつの間にか寝てしまって、変な夢を見たな。何かの映画か物語か……?
「まったく、ちゃんと聞いてるのか? くじ引きで決まった。これでいいな」
担任の市山が有無を言わさぬ低い声でそう言い放つ。よく理解も出来ないまま、反射的に返事を返してしまう。
「よし、これで全部決まりだ。おっ、丁度いい時間だな。週末だからって遊び過ぎるなよ」
終鈴の音が聞こえると、生徒達は立ち上がり適当な礼をする。市山が教室を出ていくと、一斉に話し声がざわめいた。
何か……、決まった……?
ぼんやりする目を擦り顔を上げる。黒板に書かれた自分の名前を見て首を傾げた。
『伊沢渚』と書かれた横に何か書いてあるが、集団で固まる女子生徒達の影に隠れてよく見えない。顔を動かし何とかそれを覗こうとしてみる。
「ねえ」
ふいに優しい声が鼓膜を震わせた。同時に、トン、と背中に軽い衝撃。振り返ると、すぐ後ろの席の飯澤さんが身を乗り出している。天井のベースライトの光を浴びてふわりと揺れる、パーマのかかった短い茶髪。その奥にはいたずらっぽくも見える、きらきらとした大きな瞳がこちらを見つめている。思わず見入ってしまうほど、丁寧に整えられた短い前髪が、彼女の可愛らしい顔立ちを一層際立たせていた。どこか春の野に咲く小さな花のような甘く懐かしい香りが鼻をかすめ、どぎまぎしながらも渚は少しだけ身を引いた。視線に気が付いたのか、飯沢は前髪をおさえるように片手をあてて見つめている。
「え、なっ、なに?」
クラスは同じだけれど、特別親しいわけじゃない。廊下ですれ違う時に挨拶を交わす程度で、こうしてまともに顔を合わせたのは初めてかもしれない。
「何って、さっき決まった委員会の話だよ。これから一緒に頑張ろーって、言おうと思って」
「い、委員会……?」
再び黒板に顔を向ける。さっきまで溜まっていた生徒達は既にいなくなっている。隠れていた部分を見て、俺は思わず渋い顔で悲鳴のような声を漏らしてしまった。
「あー、くじ引きとは言えやっぱり嫌だよね。私も正直荷が重すぎるよ」
【学体委員会】と書かれた横には伊沢と飯澤の名前が書かれていた。よりにもよって一番嫌な役があてがわれていたのだ。
「運動部だけ除外とか、マジでズルくない? 部活入っていない人なんて、クラスの半分もいないのにさぁ」
学体委員会、それは学園祭と体育祭を担う委員だった。我が校ではその二つを二日間で同時に行い、古くからの伝統として大掛かりな規模で毎年開催されている。毎年各学年のクラスごとにその役割が当てがわれるのだ。
去年は運良くスルーできたが、今年はまんまと掴まってしまうとは……。
つくづく運のない自分と、油断して居眠りをしていた事に情けなくなる。
「まぁでもさ、決まっちゃったからには仕方ない。秋まで一緒に頑張ろうね」
「確かに、今から断りを入れてもクラス全員から猛抗議されそうだし……」
観念したように溜め息を溢す。わざとらしい溜め息を飯澤も繰り返した。
「ところで、イザワくんだと自分の名字と似ていて変な感じだからさ、名前で呼んでいい?」
「え、ああ、いいけど」
「オッケー。よろしくね、渚くん。私の事も名前で呼んでいいから」
女子から名前で呼ばれるなんて、小学生以来じゃないか?
積極的な彼女の態度に必死に動揺を隠していた。平気なフリをして名前を呼ぼうとして止まる。
あれ、飯澤さんて、名前……、なんだっけ……?
苦し紛れに笑ってみせると、見透かしたように彼女は眉を寄せていた。
「もしかして、私の名前覚えてないの? うわっ、酷っ、ちょっと本気でショックなんだけど。去年も同じクラスだったじゃん!」
「え? い、いや、ごめん」
正直に謝ると、彼女はまたわざとらしく溜め息をつく。
「はぁー……、美しい波で美波。飯澤美波です、どうぞ今後はくれぐれもお忘れなく。はい、復唱っ」
飯澤美波は嫌味のように笑うと片手をマイクのように真似て付き出した。
「ごめん、飯澤、美波……さん」
「よろしい!」
飯澤美波は屈託なく笑うと、教室の扉の方から彼女の名を呼ぶ声が聞こえた。どうやら友達が呼んでいるようだ。
「じゃあ、来週から今年の活動始まるみたいだから宜しくね」
「ああ、うん」
片手を軽く振ると彼女は席を立つ。駆けていく彼女の後ろ姿をぼんやりと見ながら、俺はさっきの微睡みを思い出していた。
「ミナミ……、か」
忘れかけていた夢をぼんやりと記憶が辿っていた。