観覧車の幸せ
私が住む街に、新しい遊園地ができた。
一際目立つのは、大きな観覧車。
遊園地に向かう人は、あの観覧車を目印にするし、そうでない人も、近くを通ると立ち止まったり、横目で観覧車を見ながら通り過ぎていく。
電車や、バス、車に乗っている人たちだって、例外ではない。新しい遊園地ができてからというもの、私を含めた街の皆は、その観覧車に夢中だ。
ふと、考えてみた。あの観覧車は、そんなこの街をどう思っているのだろうかと。
鬱陶しい? それとも注目されて嬉しい?
観覧車に自我はないと分かっているけれど、こう思わずにはいられない。
私を含めた街のみんなが、大好きなあの観覧車。私たちの事も大好きだと思ってくれていると嬉しいな。と。
仕事を終えて、疲れきって帰ってきた私。人としての記憶はそこで途切れ、なんとただ今、観覧車として生活していることに気が付きました。
しかも、この観覧車。私が住んでいる街の、あの観覧車ではありませんか。私は観覧車の自我になったということでいいのかな? 観覧車に自我はないと考えていた私よ。前言撤回しましょう。観覧車には自我があります。さて、観覧車はこの街をどう思っているのかな。
観覧車として、日々を過ごしてみた私。
早朝は静まり返っている遊園地と街。その静けさが心地よい。
街のみんなが動き出す朝。遊園地に遊びに来る人々や、通勤、通学のために通り過ぎて行く人たち。目を輝かせて私を見る。少し気恥しい。
忙しなさが通り過ぎた昼間。私に乗って街の風景を楽しむ人。真剣な話をする人。告白に成功する人や、逆に喧嘩をしてしまう人。それぞれの人生の一端が垣間見えて、気まずいやら、応援したいという気持ちになる。
遊園地が閉園する夜。街の灯りが煌めいて、この街で生活している人々の輝きのように見え、美しい。
いま私は自信を持って、過去の自分の疑問に答えられる。
観覧車はこの街が大好きで、人々の営みを感じられることが、大いに幸せであると!
お読みいただきありがとうございました!