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短編

神回避できたのはヘタレだったからです

作者: 猫宮蒼



「この度は婚約破棄……じゃなかった、婚約の解消おめでとうございますイリーシャ様」

「ありがとう。本当に良かったわ。もうどうにもならないんじゃないかと内心密かに焦っておりましたの」


 うふふ、おほほと軽やかな笑い声が聞こえて、リュートは思わず足を止めて声がした方を見た。


 ホルミス家の中庭、花咲き乱れる美しいそこにはガゼボがある。

 そこにリュートの妹であるミーシャと、妹にイリーシャと呼ばれた令嬢がそれはもう楽し気に笑いあっている。

 用意されたお茶と茶菓子からして、まだ話は始まったばかりのようではあるが、何となくリュートは建物と中庭を繋いでいる通路にただ立っているのも気まずさを感じて、これまた何となく近くの柱に身を隠した。


 ホルミス家は代々というわけではないが、とりわけ多くの宰相を出している家だ。

 今の宰相はリュートの父で、父のようになりたいと自分も宰相を幼い頃より目指していた。

 その結果、彼は見事に次の宰相はお前だろうと父からも太鼓判を押されていたのだけれども。


 最近正直悩んでいたのだ。


 本当に、宰相が自分に務まるだろうか……と。


 いや、流石に重要なものはまだ任されていないけれど、それでも色々な仕事の手伝いをし父からも手ほどきされているので、務まらないという事はないと思っている。

 いる、のだが。


 最近ちょっと周囲の人間関係が変わりすぎてしまって、どうしていいのか悩んでいたのである。

 今まで自分の周囲にいた人物を軽く振り返ってみると……


 まず王子。

 決して無能というわけではないのだが、いかんせん下半身がだらしない。

 もう女と見れば鼻の下伸ばす。

 ダントツのお気に入りはリュナ男爵令嬢で、多分身体の関係も持っている。多分、とはっきりしないのは、あくまで噂しかリュートは聞いていないからである。

 いやあれはもうヤってるだろ、と次期騎士団長も夢ではないと囁かれていたゴードンは言うけれど、悲しい事にリュートはそういった男女の機微とかわからなかったのである。


 え、マジでわかんねぇの? これだから童貞は。


 とかゴードンに言われたのは一応当分根に持つ予定だ。


 そしてリュナ男爵令嬢。

 彼女はそもそも王子と知り合えるようなコネなどなかったはずだが、何か知らんうちに王子に近づいていた。

 いやまぁ、王子がそもそも女にだらしないので、リュートの知らぬ場所で知り合って王子とくっついたとしてもそこまでおかしくはない……と思う。

 生憎とリュートは王子の側近というわけでもないので四六時中一緒にいるわけでもない。なので気付いたら何かいた、という認識でしかなかったのだ。いや、側近なのかな……? でも王子、女ならともかく男は近くに置きたがらないから……将来的に王子を支える一人、くらいの認識だけどリュートには側近という自覚は無かった、というのが正しいかもしれない。


 他にも宮廷魔術師長の息子だとか、宮廷医の息子だとか。

 とりあえず次代を担うだろう面々は、将来的にリュートの同僚といっても過言ではなかった。国の、という意味でのあまりにも広義な範囲になるが。


 直接的にリュートに危害を加えてくるとかではないのだが、王子の女癖の悪さは間違いなく面倒事をもたらすのは言うまでもないし、リュナ男爵令嬢は王子と甘ったるい雰囲気になるだけならいいが、それ以外の男にまで言い寄っている始末。


 正直、やめてほしい。

 リュナ男爵令嬢は困った事にリュートにも言い寄ってきた事があるのだ。

 確かに見た目は愛らしい。だからこそ女性の扱いに慣れているとは言い難いリュートは普段は愛らしく思えるリュナが突然女の色気を纏って自分に言い寄るその瞬間、ドキドキしたしなんだか甘い匂いもしてクラクラもしていた。あの時、もし咄嗟に用事を思い出していなければあの場でずるずるとリュナ男爵令嬢の思い通りの展開になっていた事だろう。


 リュートには婚約者がいるので、もしそんな事になっていたら彼女を裏切るところであった。

 王子がいる時は王子だけに目を向けているが、王子がいない時は他の男に言い寄るとか見た目に反しすぎていて、リュートは危うく女性不信に陥るところだったのだ。

 あんな可憐な見た目して、好きな人だけを見ているみたいな一途さ装ってしかし実際は……貴族に限らず人間なんて見た目と中身が一致していないなんてよくある話のはずなのに、それでもリュートはリュナは可憐で誠実な人間だと思っていただけに、言い寄られた時の衝撃はとんでもなかったのだ。


 そんなリュナ男爵令嬢は王子の一番のお気に入りだったので、しょっちゅう一緒。

 令嬢から侍る事もあれば王子がわざわざ呼び寄せて、なんてこともあってかすっかり周囲ではあの二人は相思相愛だとかの噂が広まっていた。王子には婚約者がいるというのに。


 けれどもその王子が最近その婚約者に婚約破棄を言いつけたのである。

 それが、今妹とお茶を飲みつつ和やかムードで会話をしているイリーシャだ。


 あの時の事は思い出しても頭が痛くなるとしか言いようがない。

 何せリュナ男爵令嬢を虐めた罪だとかで断罪までしようとしていたのだ。

 まぁそれに関してはロクな証拠もなければ正論としか言いようのないイリーシャの反論で論破されていたけれども。

 王子が次期王になる可能性が高かったのは言うまでもなくイリーシャが婚約者となっていたからだ。彼女の実家の後ろ盾あってこそ。

 しかしそこをこれっぽっちも理解できていなかったか、はたまた忘れてしまったか。王子は自らの立場を壊し、そうして王位継承権も剥奪されてしまったのである。


 なおイリーシャがリュナ男爵令嬢を虐めたという王子の発言は全て嘘なのは言うまでもない。

 彼女は仮にも自分の婚約者に接近し仲睦まじい様子を見せつけていたリュナ男爵令嬢に、婚約者がいる異性に必要以上に近づいてはならないだとかの、貴族社会では一般常識としか言いようのない事しか言っていない。

 それをリュナ男爵令嬢が酷い事を言われたと脳内変換して王子に泣きついただけである。


 それ以外の虐めに関しては自作自演であった。しかもやり方が結構ずさん。あれで騙されるのは同レベルの馬鹿しかいない。実際あれでいけると思っていたのは王子とリュナ男爵令嬢だけだった。

 他の王子の取り巻きにしてリュナ男爵令嬢の色仕掛けにコロッとやられた連中もか。以前だったらあんな稚拙な罠とも言えないものに引っかかるなどあり得ないはずだったのに……恋に狂うと人って知性も低下するんだなぁ……とリュートは自分は気をつけようと戒めたばかりである。まぁ、戒めるも何も……という話でもあるのだが。


 王位継承権を失った王子がそれでもまだマトモであったなら良かったのだけれど、まぁ当然そんなはずもなく。

 いっそ北の塔にでも幽閉して、病気で臥せっている事にして、次の国王の後継ぎが生まれなかった場合の子作り要員として残しておくのだろうか、とリュートは思っていたのだが、しかしそうはならなかった。

 子を作れないように断種処置をした後で、王子は――いやもう元なのだけれど――リュナ男爵令嬢の婿となる事が決まってしまった。

 王命である。

 更には何があっても離縁は認められないとまで王に宣言されてしまった。


 思うところはあるけれど、リュートとしてはあの王子が王にならなくて良かったんじゃないかな、国のためを思うなら。としか思えなかった。

 なのでまぁ、婚約破棄、それも王家の有責でとなったイリーシャは瑕疵もつかず現在は様々なところから婚約の打診を受けているという話が聞こえている。

 まぁそうだろうな、とリュートは頷いていた。


 そしてそんなイリーシャは現在ミーシャと肩の荷が下りたとでも言わんばかりに会話に興じている。


 聞こえてくるのはあの一件に関する話だ。

 婚約が解消されておめでとうというのもどうだろうと思えるものではあるけれど、しかし相手はあの王子だったケダモノだ。マトモな相手ならそりゃ祝福するだろう。何より妹のミーシャはイリーシャの事をお姉さまと呼び慕っている。血縁関係ではない。そして本人にお姉さまと言った事もない。ミーシャが一方的に憧れているだけだ。


 そしてそんな妹はイリーシャとこうして二人きりで茶飲み話ができる程度にはイリーシャと親交を深めていたようだ。まさかイリーシャが来ているとは思っていなかったリュートはそのせいでついビックリしてしまって、こうして疚しい事があるわけでもないのに今二人の話を盗み聞くように柱の陰に隠れてしまっている。おかげでとても気まずい。



「本当に向こうから婚約破棄なんてものを突き付けてくれて助かったわ。それもないまま結婚して初夜を迎えるなんて事になったらと思ったらあまりにもおぞましくて」

「ですよねぇ。私だったらなんやかんや理由をつけて先延ばしにしますもん初夜」

「先延ばしにしたところで恐らく次の機会なんて永遠にやってこないと思いますけれど」

「それもそうですね。あのケダモノの下半身がおとなしくならない限りは無理でしょうねぇ……」

「仮にも元王子なのだから、ケダモノは流石に失礼でしょう」

「そうですね、本来の畜生に失礼でした」


 うわ。

 リュートが声を出さなかったのはある意味で褒めてもらっていい事だと思うくらいに、聞こえてきた会話は容赦もなければ慎みもなかった。


「でも本当の地獄はこれからでしょうね」

「あぁ……王子のお気に入りだったル……リュ? まぁいいです男爵令嬢も相当の阿婆擦れと噂されていましたものね」

「マイナス同士を掛け合わせても決してプラスにはならない。プラスになる数学の世界ってなんて素晴らしいのかしらね」

「マイナス同士を掛け合わせていけばプラスになりますからね。数学だと。そんな世界ならいずれマイナスは駆逐されるというのに現実はこれだから……」


 嘆き方が何かおかしい。

 一体何の話だ? と思っていたリュートはこんな盗み聞きするような真似はいけないと思いながらも、その場を中々動けなかった。

 地獄がこれから、とは一体どういう意味だろうか。


「王子と例の男爵令嬢同士だけでくっついていれば問題はなかったのかもしれませんけれど。あのご令嬢、王子の周辺にいた側近候補の皆さまにも手を出していたのでしょう?」

「そのようですね。あ、でもうちの兄は違いますよ。なんか色仕掛けされてたらしいけど、誘惑を振り切ったそうです」

「まぁ、あの方中々精神がお強いのね」

「婚約者もいますからね。もし他の女に手を出した事がバレたらカルミラお姉さまがタダでいるはずがありませんもの」

「それもそうですわね。ヘタレと名高いなどと周囲に言われていたけれど、今回はそのヘタレ具合で助かったと言えるのかしら」


 王子の話をしていたはずだと思っていたが、突然自分に飛び火した。


 ヘタレって……いや確かに陰でコソコソ言われていたのは知ってるけれど。気弱そうだとか度胸がないだとか、見た目も確かにそういう感じだから余計にそう思われてたのかもしれないけど。

 あと自分の婚約者でもあるカルミラは確かに怒ったら怖いなんてものじゃないけど、怒られるのが怖いからリュナ男爵令嬢の誘いに乗らなかったわけじゃない。そこだけは声を大にして違うと訂正したかった。でも出ていったら盗み聞きしてるのがバレるので出るに出られない。

 カルミラの事を愛しているからこそ、不誠実な真似はできないという気持ちもあったのに何かヘタレだったから、で回避できたと思われるのは癪であった。

 リュートは気付いていない。

 堂々と出ていって否定すればいいだけの話なのに、盗み聞きがどうこうと考えて出て行かない時点で充分にヘタレであるという事を。



「でも、リュート様がヘタレであったからこそ、他の家の方々に示しがついたとも言えるのですよね……」

「まぁ、兄のヘタレ具合でもお役に立つ事があるのですね」


 ボロクソである。

 ヘタレヘタレと何度も繰り返さなくてよろしい。


「そうね……リュート様が魔の手に落ちなかったからこそ、堕ちてしまった方々とそうでなかった人との判別がよりわかりやすくなったと言うか……」

「堕ちた人たちの言い訳はこれでより通じなくなったとも言えますね」

「……でもそれって」

「お兄様、間違いなくその手の人たちから逆恨みされてそうですわね。あらヤだ怖い。私お兄様の妹というだけで逆恨みの矛先になったりするのかしら」

「当分護衛と常に行動しなければなりませんわね」

「まぁ普段から割と一緒なんで構わないんですけどね」


 うふふ、あははと軽やかな笑い声がする。


 いや、そんな会話軽やかにしないでほしいな……とリュートは思った。


「まぁでも、逆恨みしている方々が元気にお外を歩けるかどうか、なんですよね」

「比較的軽症の方は……うーん、マトモな神経してたらまず治す方に意識向けるかも……?

 治ってから改めてこちらに手を出すにしても、そうなると醜聞がより広まるかもしれませんね……」

「軽度の症状しか出ないのであれば、まず無関係を装ってそのことも秘密裏にしたい気持ちはあるでしょうから、余程の考えなしでなければ問題はないと思いたいですわね」

「本当に。それにしても王子も男爵令嬢も、どうしようもありませんね……男爵家が責任を持って二人を屋敷の地下に閉じ込めて監視してくれるとはいえ」


 えっ? 何それ知らないぞ!?


 とリュートは思わず声を上げそうになった。


 いや、確かにあんな事をしでかした王子とリュナ男爵令嬢がただで済むはずがない、とわかってはいた。

 実際王子は王位継承権を剥奪されて挙句王命でリュナ男爵令嬢の婿となってしまったわけだ。そこはリュートも知っている。

 けれども男爵家の地下? そこに閉じ込める?

 知らない。聞いていないぞそんな事。


「まぁ、やむなし、と言ったところでしょうか。彼女が王子をそそのかした、と言い切れるものでもありませんからね」

「王子が下半身無節操だったのも原因でしょうね。間違いなく」

「彼女が王子をそそのかして王子が騙されただけ、であればまだ楽だったんですけどねぇ……」

「割れ鍋に綴じ蓋、とはよく言ったものですけれどあれをそのままお外に出してはより被害が広まる恐れがありますからね。

 かといって下手に周知させてしまうと間違いなくあの二人、殺されますし」

「えぇ、そうなると殺してしまった相手も罪に問われてしまいますものね」


 えっ、何それ物騒。確かに王子とリュナ男爵令嬢はやらかしたと言えるけれど、しかし外を歩くだけで殺されるとは物騒な。いやまぁ確かに蔑まれるような事をしたかもしれないけれど、それにしたって殺されるとは穏やかではない……



「まぁ、でも、男爵にとっては良かったんじゃないでしょうか。男爵令嬢のやらかしの責任を取るとなれば最悪お家もとり潰しになって挙句莫大な慰謝料だとか賠償金の請求だとかが来たでしょうし。そうなれば間違いなく男爵も貴族から一転労働奴隷になっていたかも」


 何それ何それ、とリュートの頭の中を疑問が広がっていく。

 王子は王位継承権を剥奪。かろうじて王族という立場ではあるけれど、しかしもう誰も彼を王族だとは思わないだろう。何らかの事情があって王位継承の順位が低くなってしまった、くらいならまだ王族としての使い道もあったかもしれない。けれども王命でリュナ男爵令嬢と結婚した以上、彼はもう王族を名乗ったところで何の権威もないのだ。


 名ばかりの王族。


 王族であるはずなのに王族としてマトモな扱いをされる事はない。

 今までは王子という立場も存分に利用して色々な女性と関係を持っていたようだけれど、リュナ男爵令嬢と結婚した後はもう王子という肩書も使えないだろうし、そうなれば身分だけで近づいた女性はもう近づかないだろう。甘い汁を啜る事すらできないのだから。

 それ以前に、地下に閉じ込められているらしいので他の女性と知り合う事もないか。


 リュナ男爵令嬢に関してはどうだろう? とリュートは思案する。

 やらかした事を考えると、彼女も充分に罰を受ける事になるわけだが。

 王子と結婚して離縁も認められずそのまま実家の地下に閉じ込められている……となると、なんだか王子よりも軽い罰しか受けていないように思える。


 リュナ男爵令嬢が王子の妻となり王妃の地位を分不相応に望んでいたのであれば、王位継承権を失った王子との結婚は何の意味もないだろう。

 けれどももし、まだかろうじて王子に愛情が残っているのなら。

 この結婚は彼女にとっては罰ではないのではないか。


 外に出る事を禁じられたとしても、それでも幸せになれるのではないか。


 けれども本当にそうか? と考えて、そう思えなかった。

 あの王が、それで済ませるはずがない。


 なんだ、一体何があったんだ……?

 自分の知らない何かが確実にある。

 いっそ、今ここから出て二人に聞いてみるべきか……?


 などと悩んで考えているうちに、イリーシャとミーシャの話はぽんぽんと進んでいく。リュートが聞いている事など知った事ではないとばかりに。実際知らないのだろうから、リュートに何の配慮もされていないのは当然の事だった。



「お兄様はこれから大変でしょうねぇ。何せ今まで関わっていた方々はすっかりいなくなってしまって、周囲の人間関係というか顔ぶれががらりと変わってしまったのですから」

「けれど、新たに次期王として後継者に指名された第二王子とその側近候補の方々からは比較的友好的にされてるのでしょう?」

「まぁ、あの男爵令嬢の誘惑に引っかからなかった、という部分はありますからね。一応能力的にも使えない事はないだろうから、残されていても毒にも害にもならない、と判断されての事でしょうし……」


「あの馬鹿王子の尻拭いをしなければならない、という点でこれから大変でしょうけれど、頑張ってほしいですわね。わたくしも微力ながらお力添えを、とは思っておりますが……」

「まぁ、大元とも言えるお二人は閉じ込められてもう二度と日を見る事もないでしょうからね。脱走なんかしたら今度こそあの男爵家終わってしまうでしょうし男爵も絶対に外には出さないでしょう」


 そこまで言うと二人の令嬢はほぼ同時に紅茶に手をつけて、こくりと一口。

 そうしてカップを置いて「はぁ~~~~」とこれまた大きなため息をほぼ同時に吐いていた。


「まったく……今回の件で王家はどれだけの賠償をする事になるのかしらね……」

「片方は王子様だった人ですからね。そんなのが病気を媒介していたとなれば……」

「元は王子も被害者だったはずですが、いえ、婚約者がいるのにそもそも色々な女性に声をかけたのみならず、身体の関係を結んだ時点で被害者も何も、という話ですけれど。

 きちんとした娼館ならまだしも、自分の資産からあまり散財はしたくないだとかで変なところでケチった結果粗悪な環境で病気を持った娼婦との行為、結果そこから病気に感染……」

「あまつさえ他の女性にそれらを広めたも同然ですからね……いえ、身持ちがしっかりしている女性は引っかかったりはしていないようでしたけれど」

「それでも、王子の愛人という立場を魅力的に感じて身体を許した女性はいたのでしょう?」

「まぁ、平民がほとんどでしたけどね……あとは一部の低位貴族のご令嬢が」


「本当に王子が媒介したという証明もできない相手にまで広まった可能性があるから個人への賠償とはならないようですが、専門の医師はこれからが大変でしょうね」

「ですよねぇ、男爵令嬢の方でもせっせと身体の関係を結んで広めてしまったわけですから……男女一定数が性病に罹ってしまったわけでしょう?

 貞操観念がしっかりしている方は大丈夫だったようですが」


「医療費に関しては国が受け持つという事であの二人と無関係の人も医者に罹るかしら……」

「どうでしょう? そういうとこだけ恥ずかしがって行かない可能性はありますね……」

「今まで散々恥ずかしい事をしておいて?」

「基準、価値観は人それぞれなので。私たちが恥だと思う行為でも、それをそうと思わない人種はいますもの。たとえば、元王子と男爵令嬢さんだとか」

「あぁ、そうでしたわね。あのお二人は幽閉されてもう外に出られないのでしょう?

 病気は果たして治るのかしら? 医師は派遣されるのでしたっけ?」

「いえ、診せたところで無駄だろうと。だって下半身の欲望だけで行動なさるお二人ですよ? 病気の治療でしばらくはそういった行為をやめるようにと言われたところで、果たして自制できるかどうか……」

「つまり、あのお二人はお互いにしか相手がいない状況で閉じ込められて、お互いがお互いに病気を感染うつしあいながら朽ちていくわけですか……陛下も罰を与えるにしても一思いにしてさしあげればよかったでしょうに……」

「まぁ、大々的にできていればそうしていたとは思いますよ?」

「それもそうですわね」



 うえぇええ!?


 といった声をリュートが出さなかったのは、何かもう衝撃が大きかったからである。


 性病。


 言葉はわかっている。問題ない。

 だがしかし、あの二人の口から出てくる言葉だとはとてもじゃないが思えなかった。

 そりゃあ貴族だもの。綺麗ごとだけを口にしているわけでもないし、綺麗なものだけ見て生きてきたわけでもない。リュートは男だからわからないけれど、女の世界は意外とドロドロしているとも聞くし、きっと自分には知らない事であっても妹は知っていて当たり前、なんてものもあるのだろうとは思っていた。

 それを無理にでも暴いて知りたいと思った事はない。勿論知らなければならないものであれば知るための努力はするけれど、知らない方がいいものであればそのままにしておいた方が人間関係は上手くいくとも聞かされていたので。


 だがしかし、ここにきてようやくリュートのそれなりに優秀な頭脳は理解したのだ。


 王子とリュナ男爵令嬢がやらかした事で確かにあの二人はもうマトモに社交の場にも出てこれなくなってしまった。それに伴って王子と少し年の離れた弟の第二王子が次期王となる事を国王が宣言したのも事実。王子の側近だった者たちがその任を外され、第二王子の側近が確定している者、まだ候補の段階である者。

 リュートだけは相変わらずの立ち位置にいたとはいえ、それ以外ががらりと変わってしまって戸惑っていたのもそうだ。


 仕方ないのかもしれないな……と内心で思っていたけれど、ここにきてようやく、周囲の人材が一新された原因を把握できた。


 人の事を童貞だからと揶揄っていたゴードンもそういやすっかり顔を見なくなっていたけれど、てっきり騎士団の方が忙しくなったからだとばかり思っていた。

 けれどもそうではない。

 あの男もリュナ男爵令嬢と関係を持っていたのだから。リュートに対して童貞である事を散々揶揄い、ハッキリとリュナ男爵令嬢と関係を持ったとは言わなかったが匂わせる発言はたっぷりあった。

 直接的に言えば王子との関係に亀裂が生じるし、公然の秘密といった感じだったのだろう。


 そう、他にもいた面々も……


 二人に見つからないように低姿勢のままリュートはカサカサとまるで何かの虫のように移動して、そうして建物の中へ戻れば真っ先に父の部屋へと向かった。

 王城の執務室ではないので今回の件に関する詳細が記された書類だとかはないだろうけれど、それでも何かはあるだろうと思って。

 今更彼らに対して何かをしようとは思っていない。

 ただ、将来宰相となるだろう自分がそこら辺蚊帳の外状態だったという事実が許せなかったのである。



 父がよくいる書斎には、まるで予想していたとばかりにその一件に関しての書類が置かれていた。

 リュートに読めとばかりに置かれているように思ったのは決して気のせいなのではないのだろう。

 父は一体どこまで予想していたのだろうか。


 まだまだ自分は父にはかなわないな……と思いながらも書類を手にリュートはその内容に目を通していく。


 内容としては酷い有様だったとしか言いようがない。


 純情可憐に見えていたリュナ男爵令嬢は、しかし王子以外の相手にも関係を持っていたし、王子は元々下半身がだらしなかったのはわかりきっていた。何度か諫めた事もあるけど全部聞き流されてたんだなぁ、としみじみ思う。


 二人がお互いに関係を持った時点でそれ以外の相手との関係を切っていたなら被害はもうちょっと抑えられていたかもしれないが、リュナ男爵令嬢は王子の側近たちと――王子は相も変わらず娼館だとか断らなさそう――というか断れなさそう――な平民相手と。


 リュナ男爵令嬢と関係を持った令息たちが婚約者と婚姻前の関係を、としてはいなかったからこそ高位貴族の令嬢たちに被害は及んでいないけれど、王子が手を出した平民の女は他の男とも関係を持ち、そしてその男が他の女と、なんて感じであったのか、ざっと調べた限りでは性病の被害に遭っているのは平民が圧倒的に多かった。勿論無事な者もいるけれど、男女満遍なく性病の疑いがあるのは平民に多い。それ以外にリュナ男爵令嬢経由で性病に感染した令息がそういった欲を吐き出すべくその手の施設を利用したりもしていたので、被害人数は果たして如何ほどか……考えるだけでも頭痛がしてくる。

 貴族に関してはリュナ男爵令嬢が手を出した令息たちくらいなもので、令嬢に被害はないのが救いだった。

 とはいえ、王子が低位貴族の令嬢数名を毒牙にかけてしまったようだが。身分がある以上、そりゃ王子に簡単に逆らえるものではなかった、とはわかる。

 もしかしたら王子の愛妾あたりを狙ってのものもあるかもしれないが、今となっては……といったところか。



 性病に関する治療に関しては当分国が治療費を持つというのと、薬代も勿論そうだった。

 一体どれくらいの費用がかかるのか……大まかな予算として計算されている金額を見るも、きっとそれ以上にかかるだろうと思われる。医者も当分は大忙しだろう。


 ちなみに。


 比較的軽度の症状しか出なかった者たちがほとんどではあるけれど、そもそも強い感染源扱いでもある王子とリュナ男爵令嬢に関しては――


「うわぁ」


 と思わずリュートが顔のパーツを中心に寄せるくらいしわっとさせるくらい酷いものだった。

 王子が手を出していた平民たちは大抵一度か二度、そういった行為をしただけで感染してもそこまで酷い症状になる前にどうにか対処が可能であった。

 だがしかし、そういった欲を発散させ続け行為を止めなかった王子とリュナ男爵令嬢に関しては、お互いがお互いに常に性病を与え合うかのような状態。性行為を一切しないで治療に専念していけばそのうち治るかもしれないが、書類に書かれていた二人の症状を見る限り治るまでの予想期間がかなり長い。


 これは……無理だろうなぁ、とリュートは察した。


 そもそも下半身事情がとてもだらしのない王子とリュナ男爵令嬢は今男爵家の地下にて閉じ込められているわけで。

 そんな状態で王子が禁欲生活などできるだろうか。欲を発散したい、けれど相手は限られている。となれば、恐らくはまぁ、我慢せずにリュナ男爵令嬢に手を出すだろう。

 彼女が王子を拒むにしろ受け入れるにしろ、どちらにしても地獄である。

 嫌がろうとも恐らく王子は力尽くか言葉で言いくるめるかしてちょっとでも相手の雰囲気から押せばいけると判断すればすぐさま実行するだろうし、そうなればリュナ男爵令嬢がいくら拒んだとしてもその抵抗はほとんど無いようなものだろう。


 相手を殺してでも抵抗する、それくらいの気概がなければ到底無理だと思われる。


 恐らく二人の病気は完治しない。

 書類に記された二人の状態を見る限り、こんなのリュートじゃなくたって誰だってそう判断する。

 地下に閉じ込めるだけではなく二人をベッドに縛り付けておくでもしなければ到底無理だろう。


「……平民だってもっとマシな死に方するだろうに……最悪じゃないか……」


 平民の中でもとりわけ罪を犯した者なら惨たらしい死に方をさせて見せしめにする、なんて事もあるけれど。二人の場合は見せしめなどではない。ただの晒しものである。


 勿論その様子を逐一伝えられるわけではないけれど。

 それでもこれから先それぞれの貴族たちの間で語り継がれていくのだろうな……とリュートは遠い目をしてしまった。悪い意味での教材扱い。二人の名が果たしていつまで伝わるかはわからないが、遠い遠い未来の先まできっと教訓として語り継がれるのは間違いなかった。


 ふ、と息を吐いてリュートは書類をそっと机の上に戻す。


「よし、父上に進言しよう。僕に宰相とか無理だ」


 ははっ、と軽やかに、それでいて乾いた笑いが漏れる。

 まだ経験が足りていないだけで、いずれはきっと……と思っていたけれど、そもそもこんな大きな事件とも言うべき一件に、王子の割と近くにいた自分が蚊帳の外で全くわかっていなかったという事実。

 当事者の一人というか、性病を感染させられた哀れな男として名を連ねる事だけは回避できたとはいえ、自分は本当に何も知らなかったのだ。

 そりゃあこれだけの人間が関わってたら周囲の人事も一変されるわ。大丈夫かなこの国……いやまぁ、膿を出したと思えば……うん。なんて思わないととてもじゃないがやってられない。


 ともあれ、こんな案件を近くにいながら無関係状態だった自分が宰相とか無理だ。

 宰相を目指していたけれど自分は多分宰相補佐とかそこら辺どまりがいいところではないだろうか。


 うん、今まで上を勿論目指していたけれど、なんていうかこう……自分には過ぎたものなのではないかな、と思えてきてどうしようもない。

 場合によっては婚約者との婚約も無かったことにしてもらって、どこかの家に婿入りするとかした方がいいんじゃないかな……とさえ思えてきた。


 そうだ自分にカルミラは勿体ない。あんな素敵な女性だもの。彼女の事はとても好きで愛しているけれども、なんていうか自分には過ぎた相手ではないだろうか。

 もし、自分があの渦中にいながらリュナ男爵令嬢の色仕掛けに動じる事なくやり過ごして、周囲で何が起きていたかもわかっていたならまた考えは違ったかもしれない。

 知った上で状況を見定め、そうして正しい行いをしていればこんな結論にはならなかっただろう。


 だが実際は、自分だけが蚊帳の外。仲間外れ。

 王子とその仲間たちの中にいたはずなのに、自分だけがぼっちであったのだ。

 いや今回はそれで助かったわけなんだけど。

 けどなんというか、わかった上で孤立していたのと知らずぼっちだったのとでは意味合いが大分違ってくる。


 国の中で何か怪しい事があったとして、自分はそれに気付かず後手に回るような事をいずれやらかしてしまうのではないか、と今回の件でより思ってしまうわけで。

 そんなのが宰相とかちょっとそれはどうなの? と自分でも思ってしまうわけで。


 それ故にリュートは何かを吹っ切ったような笑顔を浮かべたまま書斎を後にした。




 ――ちなみに。

 リュートの願いは最初の方で若干渋られはしたものの、最終的に宰相補佐の地位に落ち着く事で決着がついた。だがしかしカルミラとの婚約は継続。ホルミス家の後継ぎはリュートのままとなったのであった。

 リュートとしては妹のミーシャに婿を迎えてもらってそっちに家督を譲るつもりですらいたのだけれど、それについては両親と妹のみならず、婚約者にまで反対されてしまったので。


 今までは考えないようにしていたけれど、リュートはやはりどちらかと言えば人の上に立つよりも人のサポートに回る方が得意であったらしく。


 仕事も家の事も基本的にそういう立ち位置を選んだ事で、なんだかんだストレスだのプレッシャーだのを感じる事も少なくなり。


 晩年に寝たきりになるまで穏やかに過ごせる事となったのだが。


 まだまだ先の遠い未来の話は今はまだ、リュートには知る由もなかったのである。

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― 新着の感想 ―
[一言] 身分が下の子は断れない上に、一回逃げれたとしても親に相談したら、家の為に我慢して受け入れてくれって頼まれかねないからなぁ… しかもそれなりに可愛い子が狙われるだろうし。 狙われるのを避ける…
[一言] 梅毒のような毒性の強いものでなかったのが、不幸中の幸いというか何と言うかねぇ。 もっとも、その梅毒患者が五桁位に今の日本にもいる事実からすれば、あまり彼らを笑えないのですけどね。
[良い点] トップに立つよりサポートした方がいい人って確かにいるよね~!と思いつつ、早めに気が付けたのはよかったのでは?? 家庭のことも優秀な奥様が舵取りをしてそれのサポートしてたようですし。家庭は基…
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