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第五回:勤務初日

 決して、新しい建物とはいえない、どちらかといえば古い建物である。いくつかの作業場が迷路のように複雑に繋がっているこの工場。間取りを覚えるのにも少々の時間は必要であろう。五月の初めの太陽はすっかり高くなりつつあった。今日はこの時期にしては暑い日となりそうだ。


 従業員の休憩室や更衣室の手前にあるタイムレコーダーの前に来ると、専務は壁にかかっていたカード入れから一枚を取り出し、悠介に見せて渡す。

「相川君。出勤したらこれを押すのをお忘れなく、な」

 受け取った悠介はタイムレコーダーにカードを差し込む。「相川悠介」と氏名欄にと書かれた真新しいタイムカードの今日の日付の出勤時刻のところに「八時四十二分」の時刻が刻まれる。

「こいつは初日から遅刻か……。まぁ、今日のところは今日のところで。また明日から忘れぬように。退勤時にもちゃんと押していくんだよ」

 タイムレコーダーを使うのも悠介にとって人生で初めてである。社会人らしいことをまた初体験したのか、と悠介は思った。


 悠介は専務と一緒に更衣室の中に入っていく。「男性更衣室」とプレートに書かれた部屋の前に来ると、専務は照明のスイッチを入れ、悠介にも入るように促す。「相川」と名前が書かれたロッカーをひとつ充てがわれた。その中に真新しい作業服が入っている。採用が決まったときに服のサイズを聞かれたので注文していたのだろう。

 その作業服に着替える悠介。これで悠介も工場の従業員らしく、社会人デビューであろうか。


「更衣室から出るときには、部屋に誰もいなかったら必ず電気を消してね」

 専務がスイッチを切る。更衣室を出て、また専務についていく悠介。渡り廊下を渡り、別の作業場に入る。ベルトコンベアが動いていて何人かの従業員が流れ作業でいそいそと作業をしている。悠介は専務に連れられその隅の方に向かう。

「じゃあ、相川君。ベルトコンベアで流れてくる最後の段階、商品の箱詰めをやってもらおうか」

 専務からそういう指示を受けた悠介。さらに指示を続ける専務。

「箱に入れる数は決まっているので、不足や過剰がないようにじゅうぶん気をつけてね。縦横に詰める数、段数、そして商品の向き、指示書に書いてあるとおりだ。新しい段になるときは必ずパッドを敷くのを忘れずにね」


 早速、作業を進めるように促されてそれを始める悠介。初めてなのでそうスピードは速くない、むしろかなりゆっくりである。五分ほどは専務の目が光る中で作業を進めさせられる。まぁ、最初だからこんなもんでしょう、と言葉を残し、専務はとりあえず悠介の側から去っていった。悠介は間違えたりしないように気を配りながら懸命に作業を進める。それでも、パートのおばちゃんの一人から発破をかける声がかかる。

「新人のお兄さん、もう少しさっさと作業をできないのかしら?」

 そう言われても困るんだけどと、懸命に作業をしているはずの悠介は焦り出す。五月にしてはとくに気温の高い今日、作業服の下から汗がしみ始める。

 そこで従業員の中でもリーダーらしきおばちゃんが外国人らしい女性従業員に指示を出す。

「サンドラ、新人さんのところに行ってあげて。箱詰め手伝ってあげてちょうだい」

 サンドラと呼ばれたその女性。悠介より少し年上だろうか。顔の彫りが深く、とくに瞳がはっきりしていて、色が少し黒い。東南アジア系だろうか。

 サンドラと一緒に作業を進めていく悠介。お互い言葉を交わすことはとくにしなかったが、悠介がパッドを敷き忘れそうになるなど、あわや失敗をしてしまいそうになったときにも、サンドラはさりげなくサポートしてくれた。


 十二時。工場内に鐘が鳴り響き、昼休憩の始まりを告げる。

 悠介の人生において初めての労働、半日がようやく終わった。もうお腹はペコペコである。早く優子の作ってくれた「愛母弁当」で腹を満たしたい、そう悠介は思う。


「やだー、駐車場に停めてあるあの自転車に蟻が集ってるわ。見覚えないけど誰のかしら」

 カバンを取りに更衣室に向かう途中、パートのおばちゃんのひとりの話し声が聴こえてきた。悠介はふと自分の自転車では、と思い出す。そしてようやく気がついた。そう、優子から預かった「挨拶用」の菓子折りを自転車のカゴに置きっぱなしにしてしまっていたのだ。

 急いで、自分の自転車に向かう悠介。やはり、その予感は的中していた。せっかくの銀座の銘店の菓子折りも蟻の餌食となってしまっていた。こりゃもう捨てるしかないか、と悠介は思う。事務所内に居た事務員のおばちゃんに、挨拶として菓子折りを持ってきたけれど、自転車のカゴの中に忘れて蟻の餌食とさせてしまったことを正直に告げる。事務員さんは苦笑しつつも、自転車の周りに除虫剤を撒いて、菓子折りを処分するのを手伝ってくれた。事務員さんが一言漏らす。

「あら、まぁ、これ、高かったでしょ」

「えぇ、まぁ、母親が持たせてくれましたので……」

 悠介は苦し紛れにそう答えた。続けてまた事務員さんが言う。

「挨拶はもうこれでいいから。ちゃんと働いてくださいね」

「はい……」


 午後一時から、また仕事が始まる。昼休みが短くなってしまった分急いで弁当を食べる悠介。なんとか時間ギリギリには持ち場に戻ることができた。

 午後からもまた、サンドラと一緒に箱詰めをひたすら行う悠介。どのくらい時間が経っただろうか。専務が再び巡回しにきた。サンドラとふたりで箱詰め作業をしている悠介の作業の様子に、一分かそこらのあいだ目を配ると、とくに言葉を発することもなく専務はその場をあとにした。しかし、悠介にとっては専務に見られていると、余計に気が張ってしまう。


 午後四時。ようやく長かった一日の終わりを知らせる鐘の音が工場内に響き渡る。悠介に課せられた今日のノルマはなんとか達成できた。ボーダーラインとしての最低ラインをなんとかクリアできたといったところであれども。これもサンドラが手伝ってくれたからこそ、であった。


 更衣室で作業着を脱ぎ、退勤時のタイムカードを押す悠介。とりあえず、初日の労働を終えてほっとしたところではある。もちろん、また明日からも仕事は続くのだが。工場内に互いに労をねぎらう声が響き合う。

「お疲れさまでしたぁ!」

 パート従業員の多くが帰っていく。まだこのあとも仕事が残っている社員もいるが。

 悠介も自転車にまたがり、帰途に着くのであった。

 工場勤務初日からヘマをやってしまった悠介。社会というのはなかなか厳しいものなのでしょうか。とりあえずはお疲れさま、なのです。

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