第三十一回:秘密の言葉
ここで、しばらくの「間」が発生する。悠介からも返す言葉が見つからなくなったのである。数十秒の沈黙のあと修牧師が話し出す。
「相川君にね、背徳感のなくなる『秘密の言葉』を伝授いたしましょう」
「秘密の言葉、ですか?」
「まぁ、ちょっとした言葉のあやですけどね。神さまとの対話の方法ですよ。我々はふつうこれを『お祈り』といいます。それをするためにはまず、神さまと私たちの仲立ちとしてイエスさまという存在を信じます。ここで、イエスさまはいわば橋みたいなものですよ。神さまが川の向こうに居られる。でも、橋がないと川を渡れないので神さまのところに行けない。そういうイメージを持っていただければ」
修牧師は言葉を続ける。
「そしてですね。例えば……。
『天のお父さま感謝します。僕は今日こうこう、こういう罪を犯してしまいました。どうかそのことについておゆるしください。イエスさまの御名によって祈ります。アーメン』
こういうふうにお祈りします。あくまでも『イエスさまの御名によって』というところがポイントなのでここさえ押さえてもらえれば、祈り方はある程度自由で構わないので。とにかく祈ること、つまりイエスさまを通して神さまとお話しすることを習慣化していただきたいと思います」
続けて修牧師が。
「教会ってね、基本的に『癒やしの場所』であるべきだと私は思っているんですよ。このことについてたまに他の牧師とか信徒の方とかと対立することもあるんですけどね。この教会でも教会員の皆さんの一部の方に有志でお仕事をお願いしていたりもします。しかし、普段の仕事などで疲れているのに、教会のためにさらにエネルギーを費やして、そしてさらに疲れてしまうのはあまりよくないことだとは思います。むしろ、教会は、車にとってガソリンスタンド、携帯電話にとって充電器のような、ね、そんな存在であるべきと思っていますよ。平日に働いたぶん、お休みの日曜日は教会で『充電』して『心を満タン』にしてもらいたいなと、私は思っています」
そのことばを聞きながら青年会のメンバーのことを思う。もうすぐ名字が変わるはずの胎内さんも保育士、見附さんは高校の先生、柏崎さんは英会話講師として仕事をもっておられるにもかからわらず、教会での仕事もこなしておられる。悠介はそのことに尊敬をおぼえつつも、よくそんな体力あるなぁとも思う。自分にはとてもできそうにない。ニートの今ですらいろいろ手一杯に感じているのだから。
そんな悠介の心の中を読み取ったかのように修牧師が言う。
「相川君は今、自分は何もしていないということで自分を責めておられませんか。それなのに心身が疲れてしまうなんておかしいとか思っておられませんか。私の考えとしては、とくに何もすることがなくても、ないからこそ、溜まるストレスってものもあるもんだと思いますよ。世間の人にはなかなか理解してもらえないところのものかもしれませんがね」
「はぁ……」
「今日はせっかく教会にいらっしゃったのですから、私の私見だけではなく、聖書の言葉、つまりはみことばも紹介させていただきます。とくに今回は初回ということで私がもっとも大事だと思っているところのひとつを、です。新約聖書のマタイの福音書十一章二十八節からですね。ちょっと失礼……」
修牧師がここで名刺入れから名刺を一枚取り出し、悠介に渡す。
「あいさつ遅れて申し訳ありません。ワタクシこういう者です……」
修牧師の顔写真付きで「世田谷小羊キリスト教会 牧師 湯沢 修」と書かれている、その裏に聖書の言葉、今修牧師がおっしゃった箇所の「みことば」がプリントしてある。
――すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
確か、これは。悠介が初めて教会に来た日に牧師先生が話された箇所では。悠介はそれを思い出したのだった。
祈るときもイエスさまを通じて、というところが大切なのです。
また、教会は癒やしの場所という考え方。牧師でもないような一クリスチャンとしての所見ですが、まず先に、教会とはそういう場所であるべきだと思っています。




