第十五回:求道者として
悠介たちが会堂に入る。時刻はちょうど十時になったところだ。礼拝の開始まで三十分ある。
「いつも十時を過ぎてから皆さん集まり出すんだよ。ここの教会員は七十人ほど居るんだけど、毎週集うのはそのうち平均して四十人くらいかな。最近は求道者が多くって、これまた平均して二十人ぐらい通ってきているから、合わせて六十人くらいが礼拝の場に出席するんだ」
見附さんがわざわざ解説してくれた。悠介は質問を投げる。
「求道者って何ですか?」
「うん、今の相川君みたいに、洗礼はまだ受けていないけど、いずれは洗礼を受けたいと思って教会に通っている立場の人のことだよ」
「洗礼、ですか。それって正式にクリスチャンになることですか?」
「まぁ、そうともいえるかもね。あくまでも儀式だけれど」
「僕も洗礼を受けられるようになれますか」
悠介が更なる質問を投げると、今度は側に来ていた博子先生が答える。
「そうねぇ。せめて二、三年くらいは教会に通ってもらって、聖書のこととかもある程度知ってもらって、更に何より私は神さまを受け入れます、と告白してから、ね。相川君はまだ若いし、教会は初めてらしいから、まだまだこれからよ」
続いて見附さんが言う。
「洗礼のときは多摩川に沈められるよ。男手三、四人ぐらいでね」
多摩川に沈められるなんて、溺れちゃったらどうするの、とちょっと不安になる悠介。それを察したかのように博子先生が言う。
「イエスさまも水によって洗礼を受けられたのよ。私たちの誰よりも先にね」
「えっ? イエスさまってキリスト教の教祖なのに、ですか?」
「イエスさまは教祖というのとは違うわ。私たちもイエスさまに倣って水によって洗礼を受けるのよ」
まだまだ聖書について、キリスト教について、わからないことだらけの悠介である。今日初めて教会という場に来たのだから。悠介が更に質問を投げる。
「僕はプロテスタントとカトリックの違いというのすらもよくわからないんです。ルターの宗教改革とか中学のときに勉強した記憶はありますが」
「宗派は違っても、イエスさまを救い主として信じるのはおんなじよ。こちらはプロテスタント系ですけどね」
博子先生は更に続ける。
「そろそろ礼拝の時間が近づいてきたので、私は失礼するわ。今日は緊張をほぐして礼拝に臨んでくださいね」
時刻は十時十五分を過ぎた。そろそろ会堂にわらわらと人が集まり始める頃のようだ。老若男女いろいろと。どちらかといえば女性の方が多いようだ。年齢層も平均すれば世間一般より高めと思われるけれど、若い人も少なくはない。
また、大人の礼拝に先行して行われている、子どもたちの礼拝、つまりは教会学校も終わったところで、教会に子どもを連れて来たであろう、お父さんお母さんと思われる人もちらほらと。そのほとんどが新顔である悠介の姿を見ても、とくに不思議に思ったりはしないらしい。
「結構、一見さんってのも多いからね。とくに最近は。やっぱりツイッター効果でさ」
見附さんが苦笑を交えつつ言った。見附さんは会堂の長椅子の中でも一番前に座った悠介のとなりに座ってくれた。
会堂は長椅子が通路を中央に左右に何列かに並んでいて、その前方に牧師が説教をするであろう台がある。キリスト教のシンボルともいえる十字架が説教台の正面に彫られており、大判の聖書、そしてマイクなどが説教台の上に備えてある。牧師から見ると左側、聴衆から見ると右側には立派なオルガンがある。
牧師夫人の博子先生が悠介のところへ分厚い本とプリントを持ってきてくれた。
「聖書に週報、そして今日の礼拝のレジュメのプリントをどうぞ。聖書は礼拝の際に必ず手元に用意してくださいね。もちろん聖書は教会でも貸し出しますが、今後も通い続けるのであれば。自分用の聖書を一冊購入するといいですよ。週報を入り口で受け取るのもお忘れなく、ね」
「はい、ありがとうございます」
悠介がそうお礼の言葉を述べると、アナウンスの声が聞こえはじめた。
雑居ビルに入居しているといえど、礼拝堂の中は日本でも一般的なキリスト教会の図に近いのではないでしょうか。