第十回:ニート生活
それから二年半の歳月が流れた。
悠介は二十一歳、引きこもりがちのいわゆる「ニート」になってしまっていた。
佐渡工業所でのわずか一週間の「職業経験」。悠介はあの解雇以来どこに勤めるわけでもなく、いたずらに二年半のときを過ごしてしまった。
「働いたら負けかなと思っている」わけではないけれど、働くのは自分にとっては難しい。悠介はそう思い込んでいた。高校を卒業してから三年目の秋である。
厳しかった恵介も、既に自分の息子・悠介に対しての望みをすっかり失っていた。悠介の大学受験のときには、妻の優子が提案したように、万引き事件のことは水に流してあげて、入れそうな大学にでも入れてやればよかった、などとは感じていた。ただ、製造物責任法というわけではないが、悠介は自分の息子なのだから、本人が自覚して、なんとか社会と接点ができるまでは家に置いてやって見守ってやるべきなのか、と。恵介はこの、ある意味、憐れみとしての思いを昼夜逆転で怠惰な生活を日々送っている息子・悠介に対して抱いていた。
職場でのエリートコースへの第一線からはすっかり外れてしまった恵介。今ではむしろ窓際に追いやられようとされつつある。それでも、青年問題や児童福祉に関する委員会にも仕事として一応は携わっている関係上のこともあって、引きこもりの当事者であるかもしれない己の息子に対しては、ただできるだけ寛容でいようと努めていたのであった。ついこないだも官庁OBが引きこもりの息子の将来を悲観して、息子を刺し殺したといった事件が話題になった。腫れ物に触るように、とはならずとも、付かず離れずで悠介の将来を気長に見守ってやりたい。恵介も、また優子も、そういった同じような思いを抱きながら、悠介に接していた。
さて、引きこもり当事者であるはずの悠介。
彼自身はというと、もはや危機感などをとくに感じることもなく、牧歌的というかのんびりマイペースで毎日を過ごしていた。両親の心配もさておいて、である。もっとも、親に暴力を振るったりするなどの異常行動までは見られずで、傍から見れば問題を抱えている家庭には見えない相川家であった。優子も悠介に家事などをしてもらうことを条件に、そのたびごとに五百円だの千円だのと、小遣いを与えていた。
家にいる時間が長いけれど、外に出ることも珍しくはない。悠介はそういったパターンの「引きこもり」生活であった。
一昨年、佐渡工業所をクビになった翌月の給与支給日。ATMへ給与の振り込みの確認へ行ったときのことである。最寄り駅の近くにある銀行のATMコーナーにて、二万円ほどの入金を確認した悠介。無職である悠介にとっては貴重な、まとまった収入ではあった。悠介の人生において初めて自分が労して稼いだお金。大事に使おうと決意しつつ、建物の外に出た。それから家へ帰ろうとする道で、偶然、「工場の先輩」であったサンドラと駅の近くで再会したのであった。そのときに言葉を掛けられた。
「ユウスケ! ユウスケどうしてるのかワタシ気になってた! ワタシも工場辞めてクニ帰るの!」
いくつか言葉を交わしていくうちに、サンドラはフィリピン出身で、日本に出稼ぎに来ていたということを悠介に明かした。
「神さま、ユウスケのことも愛してくれているから」
なんだ、またシューキョーの話かと、そのときは受け流そうとした悠介。しかし、職場で宗教の勧誘ってどうなのだろう。確かにあのときは終業後ではあったからセーフなのかもしれないが。だけれども、雇用契約のときにも宗教の勧誘などは禁止ですといわれたような。社則も守らず宗教の勧誘ばかりしているからあの専務に目をつけられてクビになったんじゃねーの。一週間でクビになった自分のことを棚に上げて、自分の仕事を手伝ってくれたサンドラに対してまでそう思う、悠介であった。
この辺にも二〇一九年頃のご時世が反映されていますね。確かにあういう事件はありましたし。心配する家族をさしおいて、悠介自身はのほほんとしているというのも。