幕間・ケイコの目覚め
ケイコ・リーが目覚めたのは、見知らぬベッドの上だった。そこは質素な一室で、ベッドは固い。部屋の壁には大きな穴があり、布があてがわれている。壁には穴だけでなく傷も複数あった。魔狼のつけた痕だろう。彼女はすぐに自身がルーシュの街にいることを察した。何より、傍らにはフィリスの寝顔がある。床の上に座り、腕枕をしてケイコのベッドに上半身を預けフィリスは寝息を立てていた。
「フィリスさん」
そっとささやいたが、フィリスは完全に寝入っているようですうすうと穏やかに寝息を立てるばかりだった。安らかに眠る教え子の顔を見て、ケイコは危機を脱したと察するとほーっと長く息を吐いた。黒狼に向けて全力で魔法を放ったとき、命中こそしたもののそれを倒した手応えは得られなかった。それなのに今ここにいるということは、自分ではない誰かがあの状況から助けてくれたということだろう。
──とにかく無事でよかった。よく頑張りましたね。
眠るフィリスの背中をぽんぽんと撫でていると、フィリスが目を覚ました。
「ん……あっ! 先生! 起きたんですね!」
「ええ」
「よかった……」
はぁー、と大きく息を吐き安堵の表情を浮かべ、フィリスは「本当によかった……」と繰り返した。
「あれからどうなったのですか? 黒狼やファングたちは?」
「はい。……ええと、あのあと、わたしとルイとで協力して──」
「フィリスさん」
「はい」
「ルイくんが言っていた、『先生』に助けられたんですね」
「……はい」
ケイコはふぅと息を吐くと、気まずそうにうつむいているフィリスを見つめた。
──この期に及んでもまだ、あなたはその人物のことをわたしに隠したいんですね。
フィリスはケイコの視線から逃れるようにうつむき、二人はしばらく沈黙した。
──ただ、本当に危険な人ではないのでしょう。
魔力切れこそ起こしたものの、それ以外は何も体に問題はなかった。もしその先生とやらが悪意のある人物ならば、自分たちが今こうして安穏としていられるわけがない。そう考えたケイコが「わかりました」と言いかけたその時、フィリスが言葉を選びながら語りだした。
「先生。その……先生の立場はわたし、わかっているつもりです。でも彼女は見逃してもらえませんか」
彼女、ね。とケイコは黙したままちらりと首をかしげた。知人に限らず名前だけ知っている人物に範囲を広げても、「彼女」に該当し得る人物は相当少ない。在野に下り隠居しているとすると、高齢の方なのでしょうか、とケイコは想像を膨らませていた。
「彼女は悪人ではありません。わたしやルイを騙そうと企む人ではありませんし、もちろん、この国に害を為そうとしている人間でもありません。ですから──」
「……わかりました。わたしたちが今こうして穏やかに会話ができているのも、その人のおかげなのでしょうし……多くは問いません。貴女の意思の固さも承知しているつもりですしね」
しかしそれでも、ケイコは改めてフィリスに問わなければならなかった。
「そして貴女は、その人のもとに留まるつもりなのですね?」
返事を聞く前に、ケイコには答えがわかっていた。魔法を学びたいという強い意志を持った彼女の選択など、決まっている。山の中でこそこそと独学するよりも、誰かに師事した方がいいのはわかりきっている話だった。それでもあえて言葉にしたのは、教え子が自分の手から離れていくような、寂しさとも未練とも言える感情を彼女が抱いたせいかもしれない。
「はい」
力強く頷き、フィリスはケイコを見つめ返した。
「どうせしばらくは学園に戻れそうにありませんし、彼女のもとで魔法を学ぼうと思います」
「それがいいかもしれません」
ケイコはベッドから見える窓の外の風景へと視線を移すと、「むしろその方が安心します」と少し寂しげに呟いた。
窓の外ではルーシュの街の住民たちが意気揚々と破壊された街の立て直しをしている。彼らはフィリスから魔狼たちを退けたと告げられており、陽気に掛け声をだし、小気味よく大工道具や建築材を打ち鳴らし復興作業を行っていた。屋外から聞こえてくる賑やかに奏でられる音の粒たちをしばらくケイコは黙って聞いていた。
「そうだ。先生、お腹空いてませんか? 食べ物をもらってきますね」
「あ、私も」
おもむろにベッドから起き上がろうとしたケイコをフィリスが「先生はまだ安静にしていてください」と押し留める。
「ええ、ごめんなさい……あ、待って、フィリスさん。最後に一つだけ。その方はどのような人物か教えてもらえませんか? もしかすると、心当たりのある人物かもしれませんし」
「ええっと……そうですね、わたしより一つ年上の、可愛い女の子です」
「は……へぇっ!?」
てっきりそれなりの、少なくとも自分よりは年長者だと思っていたケイコは、ぽかんと口を開けフィリスを見やることしかできなかった。何か言おうとしても口が空回りするように、言葉を上手く紡げないでいる。
「そ、それは……ええっ……?」
「驚きですよね。どうしてそんなに魔法が使えるのかわからないけれど……でも、すてきな子なんです」
にこっと微笑むと、フィリスは部屋を出て行った。一人残されたケイコはすっかり戸惑い驚嘆し、フィリスが戻ってくるまでのしばらくの間、身動き一つせずに硬直していた。
「嘘でしょぉ……?」




