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マリナ先生の目覚め

 小屋に戻って日が沈み、そして日が昇っても先生は目を覚まさなかった。先生が目覚める様子はまったくない。フィリスからは安静にしていれば大丈夫と聞いていたものの、不安はどうしようもなく拭いきれなかった。


「マリナ先生」


 呼びかけても返事はない。微かに浅い呼吸で繋いでいる様はまるで冬眠しているかのようだ。夢でも見ているのか、閉じた(まぶた)は時折ピクピクと震えている。


 先生はフェンリルや黒狼について何か知っているようだった。目覚めたらあれらは何だったのか尋ねてみたい。でも、それは俺が踏み込んでいい領域なんだろうか。正直に言うと、迷う。


「一体、先生は……」


 もしかすると先生は、俺やフィリスの身の安全のために、自分が抱えていることを敢えて教えようとしないかもしれない。もしそうなら少し寂しい。目を閉じこんこんと眠る先生の寝顔を俺はじっと見つめた。


 先生が黒狼と戦う時に持ち出した赤い宝石のついたペンダントは、慎重に取り外しておいた。慎重に、というか、おっかなびっくりと言ったほうが正確かもしれない。絶対に宝石に触れないよう、チェーンをつまむようにして恐る恐る先生の部屋の机に置いたからだ。以前ちらっと見た時はただ不思議な印象を持った真紅の宝石が、黒狼との戦いを経てからは恐ろしい物のように思えてならなかった。


 ──あれも何だったんだろう?


 あれが何だったのか尋ねたとして、先生は教えてくれるだろうか。わからない。いやそれ以上に俺は、きっともっと根源的なことを単刀直入に尋ねたいんだ。「先生、あなたは何者なんですか」と──


 ぼんやりと考え事をしているうちに睡魔が寄ってきて、気がつけば椅子の背に身を預けて俺は眠っていた。


* * * * *


 「ルイ、起きて」


 先生の声がして、一瞬で目が覚めた。


「先生! もう大丈夫なの!?」


 ガバっと椅子から立ち上がり大声を出した俺に、先生は「大丈夫だから落ち着いて」と両手を広げた。もう外は明るい。いつの間にか朝になっていたらしい。


「ごめん。ああでも、良かった」


 気が抜けて、俺は情けなく息を漏らしながら椅子に座り直した。


「本当に、よかった」


「ペンダントはルイが外してくれたの?」


「ああ、うん。あと、ごめん。雨に濡れてたし汚れていたしで、上着を替えたよ」


「あ──うん」


「その、あんまり見ないようにしたから。勝手にごめん」


「ううん、ありがとう」


 先生は俺の言葉よりも机の上で煌々としているペンダントが気になるようで、それをじっと観察しているようだった。少し間を置いてふっと息を吐くと栗色の髪をかきあげ緊張を解いた。どうやら問題はなかったようだ。


「心配かけてごめんね」


「何言ってるんだよ。先生のおかげで、俺もフィリスもケイコ先生も、みんな助かったんだよ」


「うん……」


 上半身をベッドから起こした先生は、首を傾けて部屋の窓から外を見ていた。きっとまた、色々考えているんだろう。


「マリナ先生」


 姿勢を正して先生に呼びかけると、色々尋ねたい言葉を飲み込んで、感謝の言葉を告げた。


「本当にありがとう。俺が今こうしていられるのは、先生があの黒狼と戦ってくれたおかげだ。俺たちだけではどうしようもなかった」


 こちらを向いた先生は少し表情の沈んだ、複雑な表情をしていた。


「……フィリスたちはちゃんと無事なの?」


「ああ。フィリスはケイコ先生を担いでルーシュに行ったよ。街の人たちにも『もう大丈夫だ』って教えないといけないしね」


 そう言いつつ、俺は席を立った。安心したら今度は急激にお腹が空いてきた感じだ。


「先生、とりあえず何か朝食を作ってくるよ。ご希望は?」


「ありがとう。パパッと作れるやつでいいから」


 先生も安心したのだろう。はにかんで、「わたしもお腹ペコペコみたい」とぎこちなく笑った。


* * * * *


 床下の冷暗所に転がっていた卵とトマトを適当に炒めて、皿に分けると先生のベッドへと運んだ。野菜と鶏肉もあったので、フィリスが持ち込んできた香辛料を少量加え、煮込んでスープにしている。これは後で取り分けよう。とにかくまずは何か口に入れたい気分だ。


 先生は先程と同じように、ベッドから上半身を起こした姿勢のままで待っていた。まだ本調子ではなく、ベッドから立ち上がり歩き回る体力は戻ってきていないらしい。


「早かったね」


「ああ、うん。俺もお腹減ってたし。まずは一口だけでも何か食べようかなって。今スープを煮込んでいるから、またあとで持ってくるよ」


「ありがとうね」


 トレイをベッドに乗せて、先生はまずコップの水を口に含んだ。


「まさか自分が魔力切れになるなんて、思ってもなかった」


「すごい魔法を連発してたもんね。フィリスも驚いていたよ」


 実際、先生の魔法は凄まじいものだった。『増魔の角アンプリファイ・フォーン』と呼ばれていた角を使ってケイコ先生やフィリスができることを、マリナ先生は片手間でやってしまえるようですらあった。


「ああいうの、俺もできるようになりたいなあ。ドガーッと」


「……一朝一夕じゃ無理よ」


 俺の軽口に応じて、先生は小さく笑った。


「ルイはまず、フィリスを目標にしなさい。あの子はとても優秀な学生だと思うし、ルイが見習うところは多々あるはずよ」


「うん、まあそうなんだろうけどさ」


「それに──」


「うん?」


「ルイが魔法を学びたいのは、戦うためじゃないでしょ」


「覚えててくれたんだ。……ありがとう」


 俺自身、昨日何度も「俺が魔法を使えることができたら」と考えた。必要であれば戦う力はいるだろう。でも、俺が魔法を学ぶ本来の目的はそうじゃない。


 でも、先生の言い方は、まるで俺を突き放すような言い方だった。「もうこれ以上自分のことに関わらせたくない、戦いの場にいてほしくない」とでも言いたげな様子だった。


 あの時、黒狼は「釣り」と言った。ルーシュの街を破壊したことも俺たちをだらだらと襲ったことも、すべてマリナ先生をおびき出す──いや、あの紅い宝石のペンダント引っ張り出させるためにやったことなのだろう。きっと先生もおそらく俺と同じ考えのはずだ。先ほど俺が感謝の言葉を述べた時に複雑な表情を見せたのは、今回の事態は自分のせいだという罪悪感を持っているからかもしれない。マリナ先生は、俺から視線を逸らすと窓の外を見ているふりをしている。


「幸い、今回のことでフィリスの先生──ケイコ先生と知り合いになれたでしょ? だから彼女に頼み込んでみれば……」


「安全だって?」


「……」


 返答はなかった。先生の胸の内で抱える重荷となっているものを、俺やフィリスがどれほど一緒に支えられるかわからない。黒狼の時のように、足手まといにしかならないかもしれない。けれど、だからといって、先生に突き放されるまま安全地帯へと逃げていいわけがない。


「たしかに先生の言う通り、俺は強くなるためにここへ来たんじゃないよ。でもさ、いくら目的が違うからといって、そんな不安そうな顔をしてる先生を放ってはおくわけにはいかないだろ。俺だけじゃない、きっとフィリスも同じ気持ちのはずだよ」


「でも……わかったでしょう? わたしのそばにいれば、危険な目に会うんだよ? 今回はたまたま誰も死ななかっただけ。次も助かるなんて保証、わたしにはできない」


「そうかもね」


「だったら……!」


「だからこそ、だよマリナ先生。助ける、なんておこがましいかもしれない。でも俺は先生の助けになりたいんだ。先生がこの小屋を飛び出して俺たちを助けに来てくれたように、俺も先生のために何かしてあげたいんだよ」


 差し出した俺の手に少し逡巡した後、先生は手を重ねてきた。


「……ごめん。ううん、ありがとう」


* * * * *


 「湿っぽいのは終わりにしようか。それにほら。俺、魔法を少し使えるようになったし。先生も見たろ? こう、バーンって俺がフェンリルを弾き飛ばしたの」


「ああ……あれ、本当にルイの力だったの?」


「そうそう、そうなんだよ。だから先生、早く魔法を学ばせてほしい。もうなんだってできるかも」


「もう、すぐ調子に乗るんだから」


 少し先生の雰囲気が和らいだ。そして「少し静かにしてね」と言って両手を俺の手に添え細い指先でそっと包むと、目を閉じた。


「ルイ。あの時の感覚覚えてる?」


「うん」


 あの時感じたひんやりとした感触は忘れない。今こうしている時にも体の奥ではずっと感じている。


「ちょっと試してみようか。手のひらに意識を集中してみて」


 俺も目を閉じ、先生に言われた通り手のひらに意識を集中させてみた。


「それでね、体の奥にある魔力を、肩から腕そして手首へと、すーっと流すような感覚で」


「血の巡り、みたいな?」


「何でもいいよ、というかそこは人それぞれ。川の流れを想像する人もいるし、吹き抜ける風を思う人もいる」


 今はまだ俺の中で「これだ」という感覚が掴めない。でもフェンリルを弾き飛ばしたあの時は何も考えずにできたのだから、今回だってできるはず。それにあの時はがむしゃらに全身に力を込めていたけれど、今回は手のひらに一点集中するだけだ。先生の言葉を意識し体内にある魔力を押し流す想像で、手のひらに力を込めようとした俺を、先生がすぐさま制止した。


「あ、もういいよ」


「あれ、もう?」


 (いささ)か拍子抜けした思いで、肩の力が抜けた。


「うん。ちゃんと魔力が流れてるし、指向性もあった。十分よ」


 言葉は平静を装っているけれど、先生は目をぱちくりとさせ驚いた顔をしている。思わず「驚いた?」と尋ねてしまった。


「うん。本当にすごい。よくあの時魔力を使えるようになったね」


「いや、それがさ。フェンリルの分厚い毛並みに覆われて熱い熱いと思っていたら、なんだかひんやりとした感触が体の中から感じられて。それで気がついた……のかなあ。うん、多分そんな感じ」


「怪我の功名ってやつ? フェンリルの魔力が強力だから、それに呼応するようにルイの魔力も……? うーん……」


「フェンリルはこうなることをわかってやったのかな」


「んー……」


「黒狼との関係もわからないし」


「んー……」


「先生」


「んー……」


 先生は俺の手のひらをその小さな手で掴み、まるで手相でも見るようにしげしげと眺めたまま考え事に没頭している。仕方ないので、俺はしばらく先生が満足するまで手のひらを差し出したままでいることにした。先生が中々手を離さないものだから、おちおち食事もできない。スープが焦げつかなければいいけど。


* * * * *


 「それじゃあ、ルイはフィリスを迎えに行くのね?」


 我に返った先生と状況を確認しながら食事を終え、ようやくひと心地着いた。フィリスも同じようにルーシュの街で落ち着いている頃合いだろうか。


「うん。ただ、すぐには出発できないかも。俺もちょっと疲れてるし」


「ふーん? あのね、もし、私を一人残していくことを心配しているのだったら、その点は大丈夫よ。むしろ、ルイには多少体に無理をしてでも早く動いてもらった方がいいかも」


「何かあるの?」 


「念のため、といったところね。あの時ルイも言っていたけど、魔狼(ファング)を模した何かだったアレは、おそらく完全には倒せていないはず。でも相応の深手を負わせたことは間違いない……ううん、そう思いたいところね。いずれにせよ、時間をかければかけるだけ向こうもまた万全の状態になるだろうから、行動はなるべく早めに起こした方がいいと思うの」


「うーん、わかった……けど、万全な状態じゃないのは、マリナ先生も一緒なんじゃ」


 食い下がる俺にビシッと指を突きつけて、マリナ先生は決心を固めた眼差しで告げた。


「それにね、これはわたしのわがままでもあるのだけれど、ルイとフィリスには、わたしのことをちゃんと話しておく必要があると思ってる。だから、二人にはできるだけ早く揃ってほしい」


「……いいの?」


「わたしの事情に、もう巻き込んでしまったから。それを聞いた上で、二人にはどうするか判断してほしいの。わたしも覚悟を決めることにしたわ」


「わかった」


「ああでも、フィリスを連れてくるのはケイコ先生が落ち着いてからでいいからね? きっと二人で話したいこともあるだろうし」


「久しぶりに二人でゆっくりできる時間だろうしね。じゃあ待つ間、ルーシュで街の再興を手伝っておこうかな」


「あとね、自分で伝えられないのは申し訳ないのだけれど、フィリスとケイコ先生に『迷惑をかけてごめんなさい』と伝えてほしいの。狙われているのはわたしだということも、ちゃんと教えてあげて。本当は街の人たちにも謝罪するべきなんでしょうけど……」


「マリナ先生、本当にあまり気に病むことはないと思うよ? 悪いのは先生じゃないだろ」


「最低限のけじめよ」


「そういうなら……わかった、二人には伝えるよ」


「お願いね」


「ああ。いってきます」


 フィリスの見立てではケイコ先生よりマリナ先生の方が重い状況だと言っていた。それなら、ケイコ先生ももう目覚めているだろう。急いで支度を済ませると、俺は駆け足でルーシュの街へと向かった。

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