戦いを終えて
「はぁっ……! はぁっ……!」
おそらく残された魔力をすべて使った、全身全霊の一撃だったのだろう。先生はそのまま崩れ落ちるように跪くと胸元を苦しそうにおさえ呼吸をしている。
「先生っ!」
駆け寄ろうとして俺はぎょっとして足を止めた。首を落とされた黒狼の胴体は、それにも関わらずまるで何事もなかったかのように地面に悠然と立っている。血の一滴も断面からは出ておらず、赤みのある肉も見えない。ただ、表面と変わらない暗黒の部分だけが見えていた。
殴った時の違和感は間違いじゃなかった。こいつは、ファングとして──生物として──基本的な構造をしていないんだ。
「一体どういう……」
急いで斬り落とされた首の方をみると、黒狼は首だけになってもまだぎょろぎょろと目玉を動かせ、俺や先生の様子を窺っていた。俺と目が合うとぐにゃりと顔を歪ませる。まるでいたずらがバレた子どものように。だがその表情は子どものそれじゃない。悪意。憎悪。侮蔑。邪気。害意。醜悪な感情を滲ませ、黒狼は首を斬り落とされても痛くも痒くもないと言わんばかりに、せせら笑った。
「先生っ! こいつまだ──」
「離れてっ!!」
「生きている」と言おうとした次の瞬間、先生が魔法を放ち黒狼の胴体と生首に火がついた。慌てて離れると瞬時にそれは大きな火柱となる。赤い焔がチラチラと昇り、その舌先からは黒狼がそのまま煙になったかのような黒煙が空に昇っていく。
「これで……やっと……」
息も絶え絶えに先生は杖を突き出していた。
「先生! あまり無茶は──先生っ!」
体を折るように激しく咳き込みをし始めた先生のそばにかけより体を支えた。先生の肉体はぶるぶると痙攣し、額からは脂汗が滝のように流れ出ている。何よりも、敵を追い詰めたとは思えないほど、先生の表情は固く青ざめていた。
「ハッハハッハハハハッ、ハッハッ──」
まるで何をしても無駄だと言わんばかりに、炎の中から黒狼の忌々しい笑い声が上がった。首を切断され熾烈な火炎に呑まれても尚、黒狼は生きている。俺たちを嘲笑している。
「黙れっっっ!!」
先生が更に杖を強く握りしめると同時に、火柱の勢いが増加した。途端に炎の内側で何かが派手に爆ぜるような音がする。
「燃えろっ……! 燃えろ……! 燃え尽きてしまえっ……!」
だがそれでも黒狼の笑い声は収まらず、ただ火柱と黒煙だけが空へ昇り続けた。まるでその黒煙が雨雲を招き寄せたかのように、空は段々と暗くなっていく。先生の炎が激しい熱を放射しているにも関わらず、暗雲は近づいてきていた。
* * * * *
気がつけば、笑い声は聞こえなくなりメラメラと燃焼する音だけがしていた。それでも先生はしばらくの間、火柱を睨むように杖を持った腕を突き出し続けていた。
「終わった……?」
やがて雨がぽつりぽつりと降りだすとようやく、先生は安堵したようにぽろりと杖を取り落とすとその場に崩れ落ちた。
「先生っ!?」
「だ、大丈夫だから……ちょっと、しんどくなっただけ……」
「魔法を使いすぎたんだろう? 無茶しすぎだよ……」
薄暗い空の下、先生のつけているネックレスからは衰えることを知らない紅い光が放たれていた。なんだか見てはいけない物のような気がして、目を逸らしてしまう。
「心配かけて、ごめんね」
「何言ってるんだよ、先生。助けてくれてありがとう。ほら、いいから動かないで」
だが先生はぐぐぐと身を起こし、先ほどから俺たちの様子を黙って見守っているフェンリルに顔を向けると問いただした。
「あれは、何。あんなのファング……ううん、まっとうな生き物ですら、ないでしょう」
「我がそれに答えることはない。これ以上の関与は中立を是とする我らの立場に反する」
「何が中立──」
文句を言おうとした先生がごほごほと咳き込む。フェンリルは黙って首を横に降った。雨がいよいよ本降りとなり、俺たちを濡らしていく。焦げた臭いも雨に濡れ、あちこちに染み込んでいくようだった。
「我は貴様らにもあの者にも与しない。だがそうだな、我が眷属がこの地より離れることは伝えておく。また操られては敵わないのでな」
「『また』!? どういうことだ!」
先生の限界が近い。すぐに言葉を口にすることもできないほど震えている先生を支えながら、俺はフェンリルに向かい吠えていた。
「……繰り返すが、我は中立でありただの観測者だ。貴様らの求めに答える義務はない。ただ、同族の疑いだけは晴らしておこうと思っただけだ。そこの契約者の言う通り、あれは我が眷属ではない」
「あれが──黒狼がまた来るのか!?」
「さあな」
我関せずといった調子でぶっきらぼうに返事をし、フェンリルは俺の横で苦しそうに呼吸をしている先生を見やった。
「契約者よ。情を優先し使命を疎かにしたこと、後悔しても遅いぞ」
「後悔……なんて、しない……っ」
「そうか」
「──」
まだ何か言おうとしていたマリナ先生だったが、とうとう限界を迎えた。ぷっつりと緊張の糸が切れたように、俺の腕の中でがくりと気を失った。
「先生っ!」
「重度の魔力切れだ。看護をしてやれば死ぬことはあるまい。……だがこの雨は冷える。我が名を記憶する懐かしき者よ。古き民よ。疾くと行くがよい」
待て、と言おうとした時にはもうフェンリルの姿はなく、バラバラと降っている大粒の雨が俺たちの体を濡らしていた。
* * * * *
それから俺は気絶していたフィリスを揺り起こすと、二手に別れることにした。俺はマリナ先生を家まで運び、フィリスはケイコ先生をルーシュの街まで運ぶ。そういう段取りになった。
「ケイコ先生もマリナ先生の家まで運んでいいだろうけど」
「いいよ。家主のマリナは気を失ってるし、いくらケイコ先生でも勝手に連れ込むのはね。それに、先生と二人だけで話したいこともあるから」
「後でゆっくり話しましょう」というフィリスと手を振って別れると、俺は雨の中先生を背負って家へ向かい、歩いた。先生には頭から俺の上着をかけていたけれど、雨は容赦なく空から落ちてきて俺たちを打ちつけた。先生の細い体は雨に体温を奪われどんどん冷たくなっていく。声をかけ励ましながら歩いていても、その言葉は不安な自分に「大丈夫だ」と繰り返し言っているような気がした。
家にたどり着くと、俺は先生をベッドに寝かせた。フィリスからは滋養のあるものを食べさせて安静にしておけばいいと言われている。だが先生が気を失っている今、できることといったらびしょ濡れになった服を着替えさせ体が冷えないように寝具をしっかりとかけてあげることだけだった。
「おかあ……さん……」
辛そうに呻きベッドから腕を突き出し何かを掴もうとしていた先生の冷たく小さな手を握った。なんとなく魔力のようなものを感じ取れるようにはなったけど、今のところ俺にできることといえばこれくらいしかない。そんな思いを抱えて。




