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マリナの力

 俺たちをかばうように立ちふさがったマリナ先生を、黒狼は上から下まで舐め回すようにじっくりと視線を走らせた。そして露骨に鼻を引くつかせると「ああ……」と声を漏らし天を見上げた。その様は恍惚としており、陶酔にも近い声色をしていた。


「ああ、ああ……芳しき香りだ。お懐かしい……だがそれ以上に臭うな。その魔力は──」


「……」


 マリナ先生が黙ったまま軽く杖を振ると、先ほどケイコ先生が放ったものよりも太い雷撃が瞬時に黒狼の肉体を貫いた。


「ハハハ! 貴様がそうなのだな! 退屈な狩りをした甲斐があるというものだ!」


 そんな雷撃を与えられても平然として跳躍しつつ、黒狼はまだ顔を歪ませ、どこか陶酔したような表情をしている。嫌な予感と共に寒気が背筋をゾクゾクとさせ、怖気が走る。たまらず俺はマリナ先生に叫んでいた。


「先生っ! そいつ、ただのファングじゃない!」


「わかってる! 離れてて!」


 「わかった」と返事をする間もない。その次の瞬間には黒狼が先生に向かって飛びかかっていた。だがその牙や爪が先生に届くことはなく、黒狼は不自然に宙で一時停止するとそのまま巨体は弧を描き、あらぬ方向へと弾かれた。


 木をなぎ倒しながら地面に叩きつけられた黒狼に向け先生が杖を振ると、地面や木から伸びてきた蔦が黒狼の脚に絡み付く。その身動きを封じた一瞬で青白い炎を纏った炎弾をいくつも黒狼に向け放ち、絡み付いた蔦ごと魔獣は炎に包まれた。


 俺とフィリスは気を失ったケイコ先生を離れた木陰に運びつつ、ぽかんとしながらマリナ先生が魔法を次々と黒狼に叩き込み続ける光景を見ていた。


「何あれ……圧倒的じゃない……」


 例の角を持ったケイコ先生やフィリスよりも圧倒的に強力な魔法を、マリナ先生は途切れること無く黒狼へ放っている。素人の俺でも先生の魔法が強すぎることが手に取るようにわかった。


 周囲にいた普通のファングたちはマリナ先生がすでに蹴散らしていたらしい。帽子を揺らし杖を振るい戦うマリナ先生を、俺たちはただ見守ることしかできなかった。


「ハハハ! その程度か?」


 雷に貫かれ火焔に身を焼かれても尚、黒狼は深手を負っておらず、先生を挑発する余裕を持っていた。


「所詮は人間! 矮小な魔力など無いも同じ!」


 先生の脇を通り過ぎ、疾風の如く黒狼は俺たちの方へ突進してこようとした。しかし先生がすんでのところで杖を振り、再び蔦が黒狼の体に纏わりつき動きを止める。


「あんたの相手は、わたしよ!」


 杖を地面に突き立てると、黒狼に絡みついていた蔦を引き裂き地面が勢いよく隆起した。だが大剣のように巨大で鋭利になった岩盤が黒狼に刺さることはなく、黒狼は後方に跳ね飛びその太く黒い前足を振るうと周囲の木々をなぎ倒し派手な音を立て着地した。


「この程度で? 笑わせるな! それに、もう貴様にはわかっているはずだが」


「何を──」


「強がっていても貴様は理解しているはずだ。今のままでは攻め手に欠け、我には及ばないことをな。だが……貴様が使える(・・・)力はまだ他にあるのだろう?」


「……」


 俺には、黒狼が何を言わんとしているのか理解できなかった。でも使える力、と聞いて地面に転がったままのガリムゴートの角のことを思い出す。閃いたと同時に、俺は角に向け駆けだしていた。


「ルイ!?」


 背後でフィリスが驚いた声を上げているけれど、説明している暇はない。魔法の威力を増幅させるというあの角を先生に渡せばそれでいい。きっと先生なら今よりももっとすごい魔法を使ってあれを倒せるはず。そう考えて、地面の角へと手を伸ばした瞬間。


「それは駄目だ」


 突如として俺の正面に黒狼にも負けない巨体を持つ銀色の毛並みの(ファング)が現れ、俺の手が届くよりも先にガリムゴートの角を咥えていた。


 その狼は黒狼と同じく人語を操り、俺を見ている。マリナ先生と黒狼が争っている最中ということも忘れて、俺は目の前に突如現れた銀狼に呆然としてしまっていた。その姿はまさに、故郷のネヴトコ村に古くから伝わる、伝説上の狼──


「フェンリル……?」


「人間からその名で呼ばれるのは久しいな」


 フェンリルはそう言うと、突如前足を上げ俺を押し倒し、のしかかってきた。


「ぐあっ……!」


「ルイっ!」


「おやおや……これはこれはフェンリル殿」


 黒狼はマリナ先生から視線を逸らしこちらを向くと、わざとらしい恭しさを見せて頭を下げた。


「貴方は中立の者だと聞いておりましたが? 何故このような所に?」


「我が眷属を玩具のように従えるとはどのような者かと思い見物に出向いただけだ。貴様が眷属にした行いは苛立たしいが、それもまた運命なのだろう。我はこれ以上関与せぬ。それに、貴様が人間に何をしようと興味はない。好きにするが良い」


「それを聞いて安心しました……さて。だ、そうだぞ、 女。お前はどうする? これ以上出し惜しみをすると言うのなら、貴様がその気になるまで他の者を殺すだけだが」


「っ……! やってやるわよ……!」


「先生、駄目だっ! こいつら、何か企んでいるっ!」


 だが先生は両腕を曲げ水平に構えると、広げた両手をまっすぐに見つめた。一瞬風が止む。次の瞬間、先生の手のひらを中心として渦を巻くように風が吹き出した。バチバチと火花が弾けるような音が手のひらをかざした空間からしていたかと思うと、その空間が徐々に裂け始めた。裂け目の向こうは暗く歪んだ空間が広がっている。先生が更に手のひらに力を込める気配がしたかと思うと、やがてそこから、少しずつペンダントが顔を覗かせだした。あれは、マレイェンの街へ行く前に見た、真紅のペンダントだ。


「物質転送……? そんなの、いくら魔力があっても足りないって……うそ……」


 フィリスが驚きの声を上げている。先生は完全に姿を見せたペンダントを掴むとガクリと姿勢を崩し、それと同時に空間の裂け目も閉じた。


「そう、それだ」


 黒狼は今まで以上に妖しげに顔を歪め笑った。


「それを寄越せ。貴様が持っていて良い物ではな──」


 ニヤつきながら語りだした黒狼とその周囲が爆ぜた。その威力は今までの先生の魔法すら上回り凄まじく、黒狼の足元を大きく吹き飛ばした。周囲の草木は一瞬にして灰。その上爆発は一度ではなく、先生は間髪入れずに次々と同規模の爆発を黒狼に浴びせている。フェンリルの下敷きにされ顔だけが出ているような状態で、俺は爆発で生じた熱風を土埃と共に浴びた。熱い。顔だけではなく、フェンリルにのしかかられている身体全体が、熱い。


「ハハハハ! 素晴らしい! それでこそ! そうではなくては!」


 爆炎から黒狼は飛び上がると、空中を蹴り先生に直接飛びかかった。だが先生が杖を向けると、黒狼は先程のように瞬時にびたりと空中で停止する。そこから更に先生の攻撃が繰り出されるかと思ったが、しかし、何も起きない。


「……ククク」


 身動きができなくなっているにも関わらず、黒狼は可笑しそう嘲弄した。


「どうした? 何故攻撃の手が止まる。今が絶好の機会だぞ? ククッ。もはや我を抑えるので精一杯で、これ以上はできないのだろう? 矮小な人の身には余る力を振るったのだ。瞬時に限界を迎えるに決まっているだろうが。息をするのも苦しいのだろう。愚か者め」


「はあっ……! はあっ……!」


 俺の角度から先生の表情は見えなかったけれど、杖を持つ手が震え呼吸が乱れているのはいやというほどわかった。


「マリナっ! わたしも戦うから!」


「だめっ! 来ちゃ──」


「よそ見をしている余裕があるのか?」


 マリナ先生の注意が一瞬逸れた。その瞬間を逃さず、黒狼は自由の身となり跳ね跳びフィリスに襲いかかると、前足を振り上げた。すぐさま先生がフィリスを防護するための土の壁を大地に杖を立てせり上げる。だが黒狼はその壁ごと破壊し、彼女をそばの木の幹に叩きつけていた。


「つぅ……」


 フィリスが気を失ったのが、すぐにわかった。ガクリと力なくその場に伏したフィリスを一瞥すると、黒狼は嗜虐心にまみれたその顔をマリナ先生に向けた。


「ふん、身を二つに裂き楽にしてやるつもりだったが上手く逃すものだな女。ならば次はアレの手足をもいでやろう。なあに、それで目も覚める。地を這う芋虫のような己の姿に絶望しつつ死ぬのも一興だろう」


「あああっ──!」


 怒りに満ちた叫びと共に先生は黒狼の頭上に魔力でできた無数の矢を浮かべると、一斉に、文字通り矢の雨を降らせた。黒狼はそれを瞬時に避け、すばやく先生の背後へ回り込み飛びかかる。


「っ……!」


 先生はとっさに魔法を使い、フィリスを守った時のように土壁で己の身を守ったようだった。それでも先ほどより疲労困憊している様子で、壁が黒狼の攻撃と共に崩れると、その場に膝をつきぜいぜいと息をしている姿が露わになった。


「先生! フィリス! くそっ、どけ、どけてくれよフェンリル!」


「断る。あの者らのそばに行きたいのであれば、自分の力で行くことだな」


 咥えていたガリムゴートの角を噛み砕くと、フェンリルは無感情な調子でそう言った。こちらの方を見向きもしない。砕け散った角の破片がパラパラと地面に落ちる。


「な……」


 熱い。力を込めてフェンリルの腹の下からもがき、出ようとしているのに、びくとも動かない。熱い。


「いずれにせよ、貴様にできることなど何もなかろう」


「……っうるさい!」


 もがこうとすればするほど、フェンリルの毛に埋もれ、体は更に熱を帯びている感じがする。俺は行かなきゃいけない。たとえ何もできなくても、ここで指を咥えて見ているだけなんて、絶対にしたくない。


「ちっく……しょう! どけろ……っ! どけっ!」


「やかましい」


 フェンリルは前脚を動かすと、俺の頭もその分厚い毛で覆った。息が、苦しい。熱い。


 どけろよ。この熱い体を俺から離してくれよ。どうしてこんなことをするんだ。


 フェンリルの毛並みに全身をすっぽり覆われて、俺は自分の体とフェンリルの毛との境目がわからなくなるような感覚を覚えた。もう、どこにいるかもわからないような。


 熱い。


 熱い……? いや、違う。この体温は俺のものじゃない。俺はこんなに熱くない。しっかりしろ。俺の体温は──


 ひんやりとした感覚が胸の辺りで存在を主張した気がした。


  そうだ。これが俺だ。これが俺の──


「どけろーーーっ!!」


 叫ぶと同時に、俺は全身から何かを──魔力を──放射してフェンリルを俺の体から弾いていた。


「先生っ!」


 すぐさま立ち上がり黒狼に向けて駆け出していた。思い出せ、思い出せ。たった今フェンリルを弾き飛ばした要領で、こいつを思い切り──


「なんだ貴様は!?」


 黒狼が俺に注意を向けた時には、大きく振り上げた俺の拳で馬鹿でかい図体をした黒狼の腹を殴打していた。


「ぐ……っ」


 殴った瞬間、違和感が俺を襲った。まるで生き物を殴った気がしない。毛も毛皮も内にあるはずの肉もそれどころか骨も、感触がまるで違った。その手応えに俺が戸惑っていると「このガキ……っ!」と黒狼は俺に牙を向けてきた。しかし、それを今度は先生が見逃さなかった。


「よそ見をしている余裕なんか……ないでしょっ!」


 黒狼の脇に回った先生が杖を勢いよく振ると、魔力をまとった大気の刃が勢いよく放たれる。至近距離からの刃を黒狼は躱す余裕などあるわけがない。鋭い刃のもと黒狼は斬首され、醜い表情を浮かべたままの頭部がぼとりと地面に落ちた。

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