旅立ち
「じゃあ行ってくるよ、爺ちゃん」
俺は狩猟犬のヴィーの世話をしているフリをしている祖父の背中に声をかけた。魔法を学ぶために村を出ようと俺が決意して、みんなに話してからずっとこうだ。まあ祖父だけでなく最初はみんな反対していたけれど。それでも何度も重ねて説得していくうちに一人二人と納得していってくれた。……この頑固で偏屈な祖父を除いて。でもそれは、祖父が責任ある立場の村長であることも関係している。祖父の内心がどうであれ、皆の手前俺が村の外へ出て行くのを唯々諾々と承知出来なかっただろう。
***
「なぁにが魔法じゃあ。くだらん!」
とある酒の席の話だ。不愉快そうに鼻を鳴らし酒杯を割れんばかりに食膳に叩き置くと、祖父は共に呑んでいた──俺の熱い説得に負けてすでに賛成派に回っていた──面々を睨め回し長嘆息した。そして隣りにいる、実の娘である俺の母親にしか聞こえないような小さな声でボソリと、
「お前たちはずるい」
そうぼやいたそうだ。
***
『──だから、お爺さんも心の底からお前が出て行くのに反対しているわけではないんだよ』
と母から教わったが、それでも見送りにも来てくれないのは少し寂しかった。
「本当に、もう行くよ!」
再度、祖父の背中に大きな声をかけた。すると祖父が
「ルイ」
と久しぶりに俺の名前を呼んでくれた。そしてしばらく黙っていたが、やがてぽつりぽつりと語りだした。
「俺はな、魔法なんか、どうでもいいんだ。どうでも…………だから、魔法を覚えても覚えられなくても、どっちでもいい。何も気にする必要はない。必ず、帰ってこい。胸を張って帰ってこい。俺が生きてる間にな」
まるで独り言のように背を向けたまま言うと、祖父はまた黙り込んでヴィーの世話のふりに戻った。それが不器用な祖父なりの激励の言葉なのだろう。感謝をしつつ俺は祖父の背中に別れを告げた。
「……ああ、必ず帰ってくる。ありがとう爺ちゃん!」
すれ違う皆にお別れを告げながら村外れまで来ると、俺の見送りに親友のバレットとその妹のコレット、それに母が待っていた。
「バレット!」
俺は嬉しくて思わずバレットの肩を抱いた。バレットは俺の一つ上で一応年長者だが、彼は俺に対して年長者だから偉ぶるとか、そういう振る舞いは全然しなかった。狩りの実力や腕っぷしで俺のほうが優れていたからじゃない。バレットは誰に対しても偉ぶらず、卑屈にならず、裏表なく応対をしていた。だから年寄りから幼子まで村の連中は皆、そんな素直なバレットのことが大好きだった。もちろん、俺もそうだ。
「お前がいなくなると寂しくなるよ。村長にはちゃんと挨拶できたのか?」
「ああ。ちゃんとした、とは言えないけれど。絶対帰ってこいってさ」
バシバシと背中を叩きあって、俺たちは笑いあった。
「そうだな、絶対帰ってこいよ。俺も──こいつも待ってるからな」
隣でもじもじとしている妹のコレットの頭をバレットは撫でた。
「ルイお兄様……」
昔からの付き合いで、コレットは俺を第二の兄として慕ってくれている。とても良い子だ。俺は少しだけかがみ込むと、三つ下のコレットに目線を合わせた。
「大丈夫。ちょっとの間修行してくるだけさ」
「本当に?本当に帰ってきてくれる?」
「ああ。約束」
コレットと指切りをして約束をしていると、先程から物思いに耽って黙っていた母がようやく口を開いた。
「……死ぬんじゃないよ」
「死」という割りと重めの単語を口にしたせいか母はごまかすように
「まあ、あの時──フェリエリ山に行ってしまって姿が見えなくなった時ほどは心配していないけどね」
と付け加えて、大丈夫だよ、と言うようにコレットの頭に手を置いた。
「たしかに、あの時はすごかったなぁ。村長があれほど慌てたのあれ以来見た事ないぜ」
バレットも空を見上げながら母に同調した。
「お前が居なくなったのもびっくりだったけど、あの女の子、エリナがお前抱えてきた時は輪をかけてびっくりしたな。『偶然見つけた』って言ってたけど、その偶然がなかったら今のお前がないわけだもんな……色んな意味で」
そう、これはきっと運命だ。俺が魔法を学ぶための。あの時俺を救ってくれた彼女はフェリエリ山で凍えて一人ぼっちの俺を見つけると、魔法で俺を抱えて凍えないようにしながら山を歩き、余裕綽々な感じで村まで俺を届けてくれたのだ。俺が目を覚ました時には彼女は去っていたから、彼女の名前がエリナというのは後で知ったのだけれど。
それでも、うっすらとした意識の中で彼女の使う魔法の温かさは感じていた。今もあの温もりは覚えている。あの時から俺は自分の命を救ってくれた魔法への憧れを止めることができなくなった。この村の誰も知らない魔法を知りたい。そして俺もいつか魔法を覚えて、困っている人がいれば手助けができるような、そんな人間になりたいと思うようになった。それもこれも全部彼女のおかげだ。
「ルイお兄様、これを……」
コレットが両手をそっと俺に差し出すと、その手にはほのかにこの山の──この村の香を放つ小さな巾着があった。
「白芳花と深月樹の匂い袋……魔物除けのお守り」
「ありがとう、コレット」
俺はそれを受け取るとさっそく紐で首からさげた。
「村のことも……私のことも、絶対に忘れないでね」
「ああもちろん」
「こーんなに良い子だってあんたを待ってるんだから、泣かせるようなことしたら承知しないよ。ちゃんと帰っておいで」
母は「承知しない」の部分を強めて俺を見た。うんうん、とそばでコレットも頷いている。
「わかってるさ。それに何もとんでもない場所へ行こうってわけじゃないんだし」
「まだ十五のあんたにはわからないかもだけどね──」
「もう十五歳だよ。母さん」
俺は繰り返し聞かされてきた世の、社会の厳しさを語ろうとする母を遮ってにっと笑った。
「大丈夫さ」
「ルイのお母さん、あんまり心配しなくても大丈夫だよ。きっとこいつなら……な?」
繰り言がまた始まる前に出発しろ、とバレット目で告げていた。そうだな、と俺は頷いて返す。いつまでもこうしているわけにはいかないもんな。
「よし。じゃあ行ってくる!みんな元気で!」
まだ何か言いたげな母や言葉を交わしたそうなコレット、そして俺たちの別れの邪魔をしちゃいけないと遠巻きにチラチラと様子を見ていた村のみんなを無視するようでちょっと罪悪感も覚えたけれど、俺は三人に手を振り駆け足で山を下った。別に急ぐ必要はなかった。それでも背中の向こうで三人が、みんながいつまでも手を振っている気がして、なかなか脚の速度を緩める気にはならなかった。胸元でコレットから貰ったお守りが、村やこの山を名残惜しむように弾み揺れていた。