酸っぱいスープ(3)
店に入ると、別に異世界にいく事は出来なかった。代わりに何か良い匂いがした。肉か何かのスープに匂いだろうが、和食の出汁とはちょっと違うようだ。コンソメとも違うような独自な匂いだったが、不味そうではなかった。
店は外貨通りに広くはなさそうだった。店の左側は四人がけにボックス席が二つあった。ボックス席の方の壁には写真がいっぱい貼ってあり、どうやらアニメキャラクターのコスプレのもののようだった。藤子はアニメには全く詳しくなので、よくわからない。それでもハロウィンのコスプレを楽しんでいるようだ。写真に写っている人物は、全員笑顔で楽しそうだった。
店の右側はカウンター席で、椅子は四つある。どちらといえば、落ち着いた色合いの店だが、ボックス席やカウンター席の椅子の色は真っ赤で、食欲をそそられる。この椅子の色が店内の良いアクセントになっていた。店の照明は柔らかく、雰囲気は悪くはない。
「いらっしゃいませ、お客様。もしかして冷房の温度は、お下げした方がよろしいですか?」
カウンターの内側にいる店長に話しかけられた。ブログに載っていた店長のものと全く同じ。同一人物だった。少し訛りはあるが、日本語に関しては普通に意思疎通ができるようだ。
「え、冷房下げてくれる?」
「ええ。もう、この時間だと他のお客様も来ないでしょうしね」
「ありがとう。あなたは暑くならない?」
「いいんですよ。お気になさらないでください」
藤子は細やかな気遣いが嬉しく、少し笑いながらカウンター席につく。椅子は背もたれはないが、ふわっと柔らかく座りやすかった。冷房を下げてもらったお陰で、肌感覚も心地よかった。思えば自分の為にこんな風に冷房の温度を調整してもらった事はなく、単純に嬉しい。
カウンター席からは厨房の様子もよく見える。体格の良い店長は少し狭そうに見えたが、なぜかしっくりとハマって見えた。調味料やお酒も棚にいっぱい入っていたが、日本では見て事がないものだった。ラベルの文字も英語でも中国語でもなく、見た事もない絵みたいな文字だった。そこだけ見ていると、異国情緒が漂い、本当に異世界に来たと勘違いしそうになったが、そんな事は無いだろう。異世界はファンタジー、アニメやライトノベルの中の話だと頭ではちゃんと理解しているし、そもそもその世界については詳しくない。
水とメニューも貰い、さっそく食べるものを選ぶ事にした。さっき入ったコンビニでは食欲が失せていたが、こうしてお店に入ると、お腹の虫が鳴りそうだった。お腹が減ってきた。深夜に何か食べる背徳感もあり、ドキドキしながらメニューブックを開く。写真は載っていなかったが、奇妙な料理名がずらりと並んでいた。石のように硬いパン、酸っぱいスープ、味のないスープ、ミルク粥、油っぽい鍋……。値段は意外と安いが、どう見ても食欲はそそられない。お酒もあるが、どれも見たことがない名前で首を傾げてしまう。しかもメニューブックの最後には「食に関するお悩み相談に乗ります」とある。それはタダだったが、さらに首を傾げてしまう。ファストフード店のスマイル0円のノリだろうか。
冷房の温度を下げてくれて細やかな気遣いを感じたが、肝心の料理は美味しいのだろうか。そういえばさっき見たブログでは、料理の味については言及されていなかったような……。夏帆はこのダイナーのどこを気に入っていたのだろうか。確かにこの外国人の店員はイケメンだが。もしかして恋愛じみた関係だったりするのか。藤子の頭の中は心配でパンクしそうになっていた。
「お客様、大丈夫ですか?」
「いえ、情報量の多いメニューで混乱してしまったわ」
「でしたら、一つ一つお料理について説明させてください」
店員は、とても誠実な性格のようだった。メニューにある料理について、いいところ、悪いところを丁寧に説明してくれた。どの料理も一癖あるらしく、初見の客は戸惑う人も多いそうだった。石のように硬いパンは、確かに日本のパンより硬いが、野菜や生ハム、酸っぱいスープと合うらしい。酸っぱいスープは、ビネガーが入ったトマトスープで、味は少し癖はあるが、野菜がいっぱいで温まると教てくれた。他にm一つ一つ教えてくれ、店主とはいつの間にか打ち解けてしまった。名前はルイスという。イギリス人らしいが、どうも英語訛りでないと指摘すると、笑って誤魔化された。これは深く追求しない方がいいかもしれない。
「で、この食に関するお悩み相談乗りますってどういう事?」
「文字通りですよ。なんかないですか? タダですよ」
ルイスの声は甘いと思えるほど優しく、藤子は自然と朝食が辛い事や一人での食事が大変な事、夏帆の事なども話してしまっていた。初対面のルースに話す話題でも無いと感じてはいたが、彼は聞き上手だった。決して話を否定せず、アドバイスもせず、最後まで小さく頷きながら聞いてくれた。そんなルイスを思うと、胸がいっぱいになり、泣きたい気分にもなってきた。
「確かにインスタントや市販のパンは美味しく無いですよね。栄養も偏ります。その点、うとの酸っぱいスープは、癖があるけど美味しいです。硬いパンともよく合うんだ」
「本当?」
ここまで話を聞い貰い、何も注文せずに帰りたい気はしない。むしろ癖があるスープも気になってきて、お腹が音を立てそうだった。
「じゃあ、そのスープとパンを注文していいかしら?」
藤子は微笑みながら、ルイスに言った。