石のように硬いパン(2)
深夜一時過ぎ、夏帆はパジャマを脱ぎ捨てパーカーとジーンズに着替えていた。顔も美容シートで軽く拭き、髪の毛を纏めると、キャップを被る。こうして見ると女子大生には全く見えない。むしろ、中学男子のような雰囲気に変わっていた。
リュックを背負い、こっそりと自室を出て、家から出た。なるべく音はたてていないので、自室で寝ている母にはバレていないだろう。
ときどき夏帆は、こんな風に深夜に出かける事があった。出掛けるといっても近所を散歩するだけだった。さすがに寒い冬はこんな事はしないが、今は春だった。気温もちょうどよく、散歩日和だった。
元々は夜眠れないので散歩するようになっただけだが、最近は癖になっていた。こんな地味な行為だが、深夜に散歩なんて如何にも母に反抗しているようで、少し胸がスッともする。
高校まで門限があり、友達と遊ぶのも制限されていた。その友達も母の基準にあった優等生しか遊べなかった。せっかく学校で仲良くなった子も母に難癖をつけられて、一緒に遊ぶ事ができなくなった。
そんな事が何回も繰り返されていた反動かもしれない。深夜に近所を散歩するだけで、心は少し軽やかに自由になっていた。
ちなみに防犯上は問題はない。家の近所の住宅街はコンビニも多く、案外明るかった。巡回中の警察もいないし、たまに酔っ払いサラリーマンとすれ違うだけで、自由を感じていた。マスクをが外して歩いても誰も見てこないので、人目から解放されていた。もっとも女が一人で夜に出歩く危険性は少しは自覚していたが、この開放感は病みつきになってしまっていた。
空は黒く、闇のようだった。星は一つも見えないが、月はあるようだった。半分に割れた煎餅みたいな月だった。こいして一人でぼーっと月を見ていると、厳しい母から本当にの逃れられている気がした。
コンビニに入り、スポーツドリンクを購入した。イートインスペースに座り、スポーツドリンクで喉を潤していると、お腹も減ってきた。コンビニのパンは食べたくない。どうも夏帆にお腹と市販のパンは相性が良くない。今食べたら、確実にお腹を壊しそうだった。だからと言って、おにぎりやサンドイッチも食べたい気分では無い。強いていえばスープのようなあたたかものが食べたくなったが、今はおでんの時期でも無い。
コンビニの棚を見ていても食べたいものが思いつかない。お腹はすいているのに、食べたいものが思いつかなかった。コンビニ店内に流れている音楽が案外うるさく、集中力を乱しているからかもしれないが。
コンビニの棚に前で悩んでいても仕方がない。夏帆は店から出て、帰る事にした。
帰り道を歩くのは、案外憂鬱だった。今は母から解放されていたが、明日の朝はまた一緒にご飯を食べるのだろう。
それを想像すると、夜なんて明けないで欲しいと願ったりもしてしまう。無駄な願いだが、叶って欲しいと思ったりしてしまう。
「あれ?」
ふと、顔を上げると、新しい店ができているのに気づいた。近所なのに全く気づかなかった。
どうやらレストランか食堂らしい。外観はさほど大きくはないが、看板がネオンだった。そこだけ光ってる。まあ、地味な蛍光カラーで、そこまで派手ではないが。それより店の名前が気になる。「異世界キッチン」というお店らしいが、異世界???
異世界アニメやライトノベルが人気である事は知っている。確か女性向け異世界アニメでは、ご飯が不味い世界でカフェを開く話だった。主人公の作る料理はあっという間に現地人に愛され、楽しく見ていた。アニメの中では主人公が作るフワフワな白いパンが人気だったが、夏帆はあまり好きではない。むしろアニメの中で描かれる異世界の石みたいな硬いパンが気になった。楽しいアニメを見ても自分に結びつけて、変な感想を持ってしまうので、異世界アニメは滅多に見なくなっていたが。
それにしても「異世界キッチン」ってどういう事だろうか。近所では噂を聞いたことはない。こに辺りは住宅街の外れで、廃墟ビルや事務所が入ったビルばかりだったので、あまり近づいたりはしなかったが。
まさかこの店に入れば異世界転移か転生できたりして?
店は小さく看板以外は地味だった。クリーム色の壁にチョコレート色の屋根で落ち着きはある。確か前はアメリカ風のダイナーがあったはずだが、コロナの影響ですぐ撤退していた。
夏帆はどうも気になってしまった。店の窓から、オレンジ色の優しい灯りも見え、勝手に足が動いていた。店名は怪しいが、異世界なんて夢がある。
目をぎゅっと瞑り、異世界キッチンの扉をあけた。扉を開けたら異世界か、それとも異世界転生か。果たしてどちらだろうか。