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軽井沢の遠い日の美しい野道と霧の彼方へ  あるいは 堀辰雄と立原道造の軽井沢幻想

作者: 舜風人


私が初めて軽井沢を訪れたのは、、


そう、、


20代のころだったろうか?


記憶ももう定かではないが、、


というのも、


もう50年以上も昔のことですよ。




今では体もすっかり衰えて、、そして記憶もぷっつりと、途切れがちだからです。


それでも軽井沢を思い出すたび


何とも言えない清涼な風が私のこころに吹き渡るのはなぜでしょうか?


ああ懐かしいあの風と野道


途切れがちな記憶の切片を拾い集めてみようか


欠落や、誤記憶もあるだろうが、、まあそれでよいのだろう


だって思い出はいつもオブラートのかなたの淡い郷愁なのだから、、、




こんな夜更けにふと目覚めてしまってどうしても眠れない夜には、、、


そんな思い出の反芻も、咎めるべきではないのだから、、、、。


それでは50年前にタイムスリップ、、、


私のおぼろな、記憶だけであの軽井沢に戻ってみましょうか、



、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、



私が初めて軽井沢を訪れたのは


そう確か大学のとあるクラブのスキー教室だったと記憶している


生来の運動音痴で、文学青年?だった私がなんでまたスキー教室の参加したのか


いくら思いかえしてみてもその理由が不明なのだが、、



バスに揺られてたどり着いたのは浅間山ろくのスキー場だった。


割りとこじんまりしたスキー場で私は慣れないスキーに初挑戦した。


そしてかろうじて滑れた記憶がかすかに残っている。


それよりも記憶に残っているのは昼食のカレーの味でしょうか、」


銀色の雪の斜面と、、見上げると浅間がかすかに煙をふいていたことと、、


それ以外はもう記憶の霧のかなたに霞んだスキー教室の思い出です。


ところであのスキー場今でもあるんでしょうか?


今はネット検索で何でも出てきますが、、


まあ、やめておきましょうか?


ここでスキー場の観光ガイドしても意味ないですものね。


私ははるかかなたの50年前の思い出つづりをしてるだけ、、なんですから、、、。




その後大学を卒業した私は、とある会社に就職、


そして出会った彼女(婚約者)と初めて行ったのも軽井沢でした。


このサイトの「一老人のお見合いの思い出」という作品でも書いたように


当時私は結構、車に凝っていて?


当時乗っていたのはギャランシグマエテルナ、、という車でした。


信州の秘湯「別所温泉」へゆきその帰路、軽井沢によりました。


旧軽井沢銀座で散歩してお決まりの、


写真館で写真を撮り


ジャム専門店でジャムを買い


そしてあの有名なパン屋でフランスパンを買いました、


お土産は「信州リンゴ」というリンゴそっくりの


お菓子を買った記憶があります。


白あんでリンゴの形を作り赤く色づけられていて


クッキーの蔕も付いてます。


なんでこんなもの買ったのか?


今でも不思議ですね。




そのころまだ高速道路はなくって?(この辺記憶があやふやですが、、、。)


私は旧碓氷峠を、。。あのくねくね道をギャランで疾走した思い出がありますね。


彼女はしっかり手すりにつかまっていましたっけ、、




実は行きもこの旧バイパスを通りました。


当然横川ではドライブインで釜めしをほおばりましたっけ。


そして帰りもまた、釜めしでした。




その後、、私たちはめでたく結婚し、


夏休みは軽井沢詣でが、定番となりましたね。




といってもせいぜいが一泊二日か2泊でしたが、、、


いろんなホテルやペンションに泊まりました。




子供ができてからは子供連れで夏は軽井沢へ、、、、。


子供が小学生まではいってましたから


かれこれ、、、10年連続で毎夏行ってました。


さすがに中学生になると子供は別行動で、、、


夫婦だけで行くのもあり得ないし


行かなくなりましたが、、、



スキーですか?ほら私は運動はだめなんですよ。


冬はあの一回スキー教室行ったきりでその


後はゼロですよ、


夏だけです、


夏の軽井沢、碓氷峠を超えると風ががらり変わるんですよ。


高原の風がそこには吹きわたってるんです。


むし暑さが消えて、、ホテルもペンションも当時はクーラーなんて不要でしたよ、


今では猛暑で軽井沢でもクーラーが必要なんだとか。


もう軽井沢にもここ15年以上かれこれ、行ってないですものね。



あの頃軽井沢では私たちは、いろんなホテル・ペンションに泊まりましたが、、


一つ記憶に残っているのが


「ヘルスリゾートホテル四季」でしたね


瀟洒な作りで、プチホテルといった感じでした。


北軽井沢ですよ、なんと自家温泉が湧いていて飲泉、、飲めるんです。」


プールもあるんですよ、


水着持参でよく泳ぎました。


テニスコートもありまたね。


朝夕には霧がかかり、、幻想的でした。


食事はバイキングで


フランスパンにおいしいバターをつけて食べるのが私は好きでした。


あと、、お好みのサラダバーもおいしかったなあ。


ラディッシュとかね。




で、、


このホテル今は閉鎖されて、、廃墟だそうですね?


素晴らしいホテルだったのに、、なぜ?


私にはわかるはずもありませんよね。


思い出の中のみに、存在する幻想ホテル?になってしまったんですね。


ここには数回、、泊まったことがあります



旧軽井沢近くのプチペンションにも泊まったことがあります。


早朝ペンションの自転車を借りてサイクリング。


肌寒いくらいでした。


旧・三笠ホテルのそばを通りぬけて


何処までも続く白樺林を抜けてゆく、


こんな素敵なサイクリングありませんよね。


そしてあのパン屋さんでおいしいパンを買って


白樺の下のベンチで食べる、


こんなおいしいパンもありませんよね。




そしてペンションに戻れば、、支度をして


ギャランシグマで観光巡りへ出発


白糸の滝はホント、きれいで、まるで白糸みたい、、って、、そのまんまですよね?


北軽牧場?は放牧場で自然がいっぱい。


いいえ正しくは「浅間牧場」でしたね


遠くに浅間山が煙を吹いていて、、


ここでランチ食べた記憶があります。


ソフトクリームが絶品でした。


で、牧場とは無関係?なんですが、


私たちが行ったときに「はしだのりひこ」さんが来ていました。


撮影かなんか、あったんでしょうか?




アサマハイウエイは有料ですが高速道路ではありません、


ここは西武の私有地なんですね、で、、料金が取られるっていうわけ。


ホント高原道路って感じで眺望抜群です。


やがてごつごつした火山岩が見えてきて


そこは「鬼押し出し」火山岩の火砕流が作った奇景です。




そしてもっと下って南軽井沢へ、、


そこにはレイモンペイネ美術館が


妻が大好きな美術館でした。


まだやってるんでしょうね?閉館したということはないようですから、、。


たしか大きな湖がすぐそばにありましたね


ああ、、そうそう塩沢湖です。


ここ、ボートも乗れるんですよね?




ああ思い出せば霧もなくわいてくる


若き日々と軽井沢の思い出、




その後子供が中学生になり一緒に行きたくないという年頃に


妻も仕事を持って忙しく


私も中間管理職で多忙に


そういうわけで、


軽井沢の夏は、、終わってしまったのです。



あれからもう50年以上の時が私の上をさらさらと流れ過ぎました。


私はおかげさまで。。過労死もせずに、、定年退職を無事迎えて



今はすっかり後期高齢者です


毎日何種類も薬を飲み、、それでも体調は良くもなし、、


まあしょうがないですよね?



ふと深夜に目覚めて眠れないことも多い昨今



そんな時思い出すのは


昔のおぼろな思い出の数数、、



それをこうして書き留めてみたって


せんないこと とは、知りながら


つい


書き留めるという愚かしさよ。、


老いた私の干からびた心に


ほんのひと時吹き返す思い出の高原のそよ風




ところで

戦前には、立原道造や堀辰雄が愛してやまなかった軽井沢、、。


彼らはポエムに書き、小説に書いた軽井沢、



そこには軽井沢の風と美しい野道 が広がっていた。


そして私の個人的な風景として


50年前の軽井沢の



思い出は美しすぎてどこまでも、


おぼろに霞むばかり、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、。



軽井沢の遠い日の村の霧のかなたへ  


ああ今一度帰ってみたい



堀辰雄と立原道造が愛した軽井沢の幻想に浸ってみたい。 



この二人の作家は私が愛してやまない作家です。



堀辰雄といえば



軽井沢、そしてサナトリウムという言葉がまず、、


ついて出ます。



「風立ちぬ」が代表作でしょうが、、、、



私はなんといっても、


「美しい村」ですね。



これは戦前の軽井沢の実際の記録としても出色です。


そこは、、、野薔薇咲く林間の小道、


そしてそこからふと、、、ひょいっとあらわれる西洋人の少年。



これがメルヘン?でなくてなんでしょう?


堀辰雄に、薄汚い「下町小説」なんて似合いません。


現実離れした?、これでいいのです。


軽井沢で結核療養した堀辰雄、、、


今彼のロッジは移築されて保存されているのだとか?






そして、、、、立原道造と言えば

「萱草に寄す」という詩集ですね。




これは「風信子叢書」、第一篇になります。



、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、



「夢はいつも帰っていった。


山のふもとのさびしい村へ




水引草に風が立ち




草ひばりのうたいやまない




しづまりかえった午さがりの林道を」

、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、



抒情詩とはまさに、、


こういうものを言うのでしょうね。




この純粋な抒情性は




けだし日本の詩にあっては稀有です。






このふたりに




土俗性やら




リアルな現実性を




要求しても意味はありませんね。




それはそうですね、、ファンタジー映画を見て、現実離れしてるから駄目だというようなものです。




だって?現実離れしてるからこそファンタジーなのですからね。




この二人には




ひたすらな




抒情性を求めればそれでいいのです。




そしてその抒情の




世界で揺蕩たゆたえばそれでよいのです。




そしてそのかれら、、「四季派」の文学は




昭和10年前後の軽井沢という日本の中でも特異な異国性のエアポケットでしか




育まれなかった抒情なのかもしれません。




そこは異国のフィーリングが高原の風にふきわたり、


西洋人(古い言い方ですね)がチャペルで集い


瀟洒な木造のチャーチが林間にたたずみ、、まさに異世界?ファンタジーワールドだったからです。


白樺林のコテッジには


金髪の老女がバルコニーでユリ椅子でくつろぎ


西洋書を読みふける


そして、、


ロングドレスで乳母車を押して散歩する西洋夫人の姿も、、、、


あるいは


西洋人のまだ来ていないコテッジの庭に無断で入って、ベランダに腰掛け


野の花に見入る堀辰雄の姿、


よく見ると、空き別荘のの玄関にかかっている木札に下手な日本語で


「無用の者は入るべからず。マッコイ」


と書かれていた、、、。


水舎の道を散歩しているとチェッコスロバキア公使館の別荘から快活なピアノの音が聞こえてきたり、、


村の掲示板には「コリイ種の仔犬を紛失す、発見された方は、172番アンドリュース方まで届けられたし、相当の謝礼をお上げします」


と、、張り出されたり、




そんな風景が昭和10年の軽井沢には当たり前にあったのです


そうです。まるで別世界でした


昭和10年ころの戦前の、、今からなんと、80年も前の軽井沢では、、、。




ところで、、、


私が、、、、堀辰雄


立原道造の、、、




彼らのポエムや小説と出会ったのは




いつ頃だったろうか?




高校生のころには名前だけは知っていましたし幾つかの詩は読んでもいました、


本格的に出会ったのは?


多分?大学時代?


大学図書館の古びた蔵書からだろうか?


それとも週に一度は通っていた神田の古本屋街の店頭の露台に並んだ一冊からだっただろうか?






かれらの、、その抒情性や




音楽性




はたまた、




青春の傷心は




今こんな老人と成り果てた「私」には




いささか気恥ずかしい?




青春の追憶にも似ていると言えるのだろう。




だからこそ逆にそこには永遠に色あせない


青春そのものが封印されて


閉じ込められてもいると言えるのだろう。




夭折者たちの封印された青春は、、


それは夭折ゆえにより一層


濃縮されて


まるで


それは


「希釈用飲料の濃縮原液」


つまり


「コンク」のように




濃純に封印されたままで




いつまでも全く腐敗も


劣化もせずにそこに存在し続けるのでしょう。






ところで、、、




私がポエムの魅力に取りつかれたのはあれは18歳くらいだったのだろうか?




誰でも一度は取りつかれるそれは「はしか」みたいなものだったのか?




それとも神の啓示?だったのだろうか?




青年詩人の、誰でもそうであるように




私が詩に開眼したのも、




まさに立原道造のポエムに出会った時からだったと言えるでしょう。






青春を甘く郷愁こめて




詠った立原道造には少年詩人の私は傾倒しました、






、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、








「のちのおもひに」




           立 原 道 造   「萱草に寄す」より               














「夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に


水引草に風が立ち


草ひばりのうたひやまない


しづまりかへつた午さがりの林道を




うららかに青い空には陽がてり 火山は眠ってゐた


――そして私は


見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を


だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた




夢は そのさきには もうゆかない


なにもかも 忘れ果てようとおもひ


忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには




夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう


そして それは戸をあけて 寂寥のなかに


星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう」






、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、






甘くて抒情性に満ちたソネット形式のこの憧憬詩集は




私の青春の旅情にも




大きく影響しました。












そして、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、








立原の師匠?といえば




軽井沢文学の先駆者




堀辰雄をを忘れるわけにいかない。






堀辰雄といえば




軽井沢、そしてサナトリウムでの療養生活




「風立ちぬ」が代表作でしょうが




私はなんといっても、




「美しい村」ですね。




これは戦前の軽井沢の記録としても出色です。




野薔薇咲く林間の小道、を早暁、散歩してると




そしてそこからひょいっとあらわれる金髪碧眼の西洋人の少年。


キイチゴを摘んでた金髪の少年。




これがメルヘン?でなくてなんでしょう?


昭和10年ころ、、こんな風景にに出会えるなんて軽井沢しかありえないでしょう。






堀辰雄に、薄汚い下町舞台の人情小説は似合いません。


というかまずありえないです。




現実離れした、軽井沢舞台の、これでいいのです。






、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、






「美しい村」


                    堀辰雄






「天のこう気の薄明に優しく会釈をしようとして、


命の脈が又新しく活溌に打っている。


こら。下界。お前はゆうべも職を曠うしなかった。


そしてけさ疲が直って、己の足の下で息をしている。


もう快楽を以て己を取り巻きはじめる。


断えず最高の存在へと志ざして、


力強い決心を働かせているなあ。




ファウスト第二部





序曲




六月十日 K…村にて


 御無沙汰をいたしました。今月の初めから僕は当地に滞在しております。前からよく僕は、こんな初夏に、一度、この高原の村に来てみたいものだと言っていましたが、やっと今度、その宿望がかなった訣です。まだ誰も来ていないので、淋しいことはそりあ淋しいけれど、毎日、気持のよい朝夕を送っています。


 しかし淋しいとは言っても、三年前でしたか、僕が病気をして十月ごろまでずっと一人で滞在していたことがありましたね、あの時のような山の中の秋ぐちの淋しさとはまるで違うように思えます。あのときは籐のステッキにすがるようにして、宿屋の裏の山径などへ散歩に行くと、一日毎に、そこいらを埋めている落葉の量が増える一方で、それらの落葉の間からはときどき無気味な色をした茸がちらりと覗いていたり、或はその上を赤腹(あのなんだか人を莫迦にしたような小鳥です)なんぞがいかにも横着そうに飛びまわっているきりで、ほとんど人気は無いのですが、それでいて何だかそこら中に、人々の立去った跡にいつまでも漂っている一種のにおいのようなもの、――ことにその年の夏が一きわ花やかで美しかっただけ、それだけその季節の過ぎてからの何とも言えぬ佗びしさのようなものが、いわば凋落の感じのようなものが、僕自身が病後だったせいか、一層ひしひしと感じられてならなかったのですが、(――もっとも西洋人はまだかなり残っていたようです。ごく稀にそんな山径で行き逢いますと、なんだか病み上がりの僕の方を胡散くさそうに見て通り過ぎましたが、それは僕に人なつかしい思いをさせるよりも、かえってへんな佗びしさをつのらせました……)――そんな侘びしさがこの六月の高原にはまるで無いことが何よりも僕は好きです。どんな人気のない山径を歩いていても、一草一木ことごとく生き生きとして、もうすっかり夏の用意ができ、その季節の来るのを待っているばかりだと言った感じがみなぎっています。山鶯だの、閑古鳥だのの元気よく囀ることといったら! すこし僕は考えごとがあるんだから黙っていてくれないかなあ、と癇癪を起したくなる位です。


 西洋人はもうぽつぽつと来ているようですが、まだ別荘などは大概閉されています。その閉されているのをいいことにして、それにすこし山の上の方だと誰ひとりそこいらを通りすぎるものもないので、僕は気に入った恰好の別荘があるのを見つけると、構わずその庭園の中へはいって行って、そこのヴェランダに腰を下ろし、煙草などをふかしながら、ぼんやり二三時間考えごとをしたりします。たとえば、木の皮葺きのバンガロオ、雑草の生い茂った庭、藤棚(その花がいま丁度見事に咲いています)のあるヴェランダ、そこから一帯に見下ろせる樅や落葉松の林、その林の向うに見えるアルプスの山々、そういったものを背景にして、一篇の小説を構想したりなんかしているんです。なかなか好い気持です。ただ、すこしぼんやりしていると、まだ生れたての小さな蚋が僕の足を襲ったり、毛虫が僕の帽子に落ちて来たりするので閉口です。しかし、そういうものも僕には自然の僕に対する敵意のようなものとしては考えられません。むしろ自然が僕に対してうるさいほどの好意を持っているような気さえします。僕の足もとになど、よく小さな葉っぱが海苔巻のように巻かれたまま落ちていますが、そのなかには芋虫の幼虫が包まれているんだと思うと、ちょっとぞっとします。けれども、こんな海苔巻のようなものが夏になると、あの透明な翅をした蛾になるのかと想像すると、なんだか可愛らしい気もしないことはありません。


 どこへ行っても野薔薇がまだ小さな硬い白い蕾をつけています。それの咲くのが待ち遠しくてなりません。これがこれから咲き乱れて、いいにおいをさせて、それからそれが散るころ、やっと避暑客たちが入り込んでくることでしょう。こういう夏場だけ人の集まってくる高原の、その季節に先立って花をさかせ、そしてその美しい花を誰にも見られずに散って行ってしまうさまざまな花(たとえばこれから咲こうとする野薔薇もそうだし、どこへ行っても今を盛りに咲いている躑躅もそうですが)――そういう人馴れない、いかにも野生の花らしい花を、これから僕ひとりきりで思う存分に愛玩しようという気持は(何故なら村の人々はいま夏場の用意に忙しくて、そんな花なぞを見てはいられませんから)何ともいえずに爽やかで幸福です。どうぞ、都会にいたたまれないでこんな田舎暮らしをするようなことになっている僕を不幸だとばかりお考えなさらないで下さい。


 あなた方は何時頃こちらへいらっしゃいますか? 僕はほとんど毎日のようにあなたの別荘の前を通ります。通りすがりにちょっとお庭へはいってあちらこちらを歩きまわることもあります。昔はあんなに草深かったのに、すっかり見ちがえる位、綺麗な芝生になってしまいましたね。それに白い柵などをおつくりになったりして。……何んだかあなたの別荘のお庭へはいっても、まるで他の別荘の庭へはいっているような気がします。人に見つけられはしないかと、心臓がどきどきして来てなりません。どうしてこんな風にお変えになってしまったのか、本当におうらめしく思います。ただ、あなたと其処でよくお話したことのあるヴェランダだけは、そっくり昔のままですけれど……」




、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、




以上「美しい村」から、冒頭部分の、すごい長い引用になりましたが




この軽井沢の在りし日の、、戦前の昭和10年ころの、、雰囲気の一端でも感じていただけたでしょうか?












立原道造の詩集では








「萱草に寄す」が代表作でしょうか。




これは風信子、(ヒヤシンス)叢書、第一篇になります。




、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、






「SONATINE」


 No.1




 はじめてのものに






「ささやかな地異は そのかたみに


灰を降らした この村に ひとしきり


灰はかなしい追憶のやうに 音立てて


樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた




その夜 月は明かつたが 私はひとと


窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)


部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と


よくひびく笑ひ声が溢れてゐた




――人の心を知ることは……人の心とは……


私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を


把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた




いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか


火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に


その夜習つたエリーザベトの物語を織つた」




、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、






抒情詩とはまさに


こういうものを言うのでしょうね。




この純粋な抒情性は




けだし日本の詩にあっては稀有です。






このふたりに




土俗性やら




現実性を




要求しても意味はありませんね。




ファンタジー映画を見て、現実離れしてるから駄目だというようなものです。




現実離れしてるからこそファンタジーなのですからね。




この二人には




ひたすらな




抒情性を求めればそれでいいのです。




そしてその抒情の




世界で揺蕩えばそれでよいのです。




そしてその四季派の文学は




土俗性を一切払しょくしえた


あの異人たちの避暑地である




軽井沢という日本の中でも特異な異国性のエアポケットでしか




育まれなかった抒情なのかもしれません。






夭折者たちの影  それは、、、




 立原道造と堀辰雄 




彼らが愛してやまなかった軽井沢はその幻像とともに




今こうして老いさらばえてしまったこんな


老人の私にも、、




永遠に私のこころの深淵に


息づき続けることでしょう




それは


まさしく


永遠の青春をとどめて


あっという間に夭折してしまった


あの


星と菫の青春詩人たちの幻像 でもあるからなのです。








、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、



















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