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着信

 運転席に座りシートベルトに手を伸ばした、ちょうどその時だった。

 助手席に置いてあったスマートフォンが俄に震えだす。

 どうか仕事の電話ではありませんようにと、そう祈りながら有機ELの画面に目を落とした。

「――ッ」

 夜空の黒よりもわずかに劣る黒い背景に浮かび上がった『水守唯』という白い文字を目にした瞬間、喉の奥から声にならない声をあげてしまう。

 そのあり得ない文字列を凝視したまま固まっていると、五回ほどのコールを経てやがてスマホは沈黙した。

 死者から電話が掛かってくるなど、そんな馬鹿げたことがあるはずもない。

 すぐに着信履歴の画面を出し、その一番上の番号をタップする。

 受話口からは抑揚の乏しい女性の声で、留守番電話サービスへの接続を知らせるアナウンスが聞こえてくる。

 折り返し掛け直した旨を残すべきだったのはわかっていたが、なぜだかその行為が躊躇われた。

 体温を伴わないその声が説明を終わらせるそのまえに、通話終了の表示をスワイプする。

 いずれにせよ、もし本当に大事な用件であれば、また向こうから掛かってくることだろう。


 駅のロータリーには客待ちのタクシーが一台だけ止まっていた。

 運転席の窓枠に肘を掛けた老齢の男性ドライバーが、駅舎を出入りする極僅かな人々を眠たそうな目で追っている。

 本日に限っていえば、私は彼の数倍は車を走らせているはずだった。

 しかし、先ほどの出来事の刺激が強すぎたのか、ほんの数分前に感じていた肉体の疲労や眠気はどこかに吹き飛んでしまっていた。

 それでいて、今すぐにでもベッドに倒れ込みたいと感じているのは、きっと脳が疲れ切っていたからだろう。

 あと二〇キロ、もう三十分だけ運転をすればゆっくり休むことができる。

 両手のひらで頬を叩いて気合を入れると、来たときよりも少しだけスピードを出し、再び山の向う側へと車を走らせた。


 緑色の田畑が広がる耕作地のど真ん中に、私の実家はぽつんと一軒だけでさみしげに建っている。

 築四十余年の古い日本住宅で、二階建ての母屋には四つも五つも部屋があったが、そのすべてが和室だった。

 回覧板を回すのは少し億劫ではあったが、その分近隣に気兼ねをしないで済んだ。

 バンドのまねごとをしていた高校時代には、母屋と同じ敷地内に建つ離れの自室が練習場所に選定されたのも、そういった立地の影響が強かった。


 もう夜も遅い時間だというのに、無施錠どころか開け放たれたままの玄関をくぐる。

 ほどなくして、廊下の奥からトタトタとスリッパの音を立てながらやってきた母は、「おかえりなさい。ご飯は食べてきたの?」と、まるで学校から帰ってきた息子に言うかのように訊ねてくる。

「まだ食べてない。お父さんは?」

「奥で野球みてるよ」

 居間でビールを手に野球のナイトゲームを観ていた父は、私の顔を見ると同時に「おかえり叶多。お前も飲むか?」と、母と同じく不自然なほど自然に振る舞ってくる。

 もっとも両親がこのようにマイペースなのは、なにも今に始まったことではない。

 かつて私が十代も半ばだった頃には、少しだけ親に迷惑を掛けていた時期があった。

 その時ですら父と母は私を叱るようなことはせず、ただ『人様に迷惑を掛けるようなことだけはするなよ』と、手首のスナップも禄に利かせず軽く釘を刺す程度だったほどだ。


 母が用意してくれた食事を口に運びながら、ほんの簡単に近況報告をしあう。

「仕事はどうだ?」

「楽しくやってるよ。お父さんとお母さんは?」

「仲良くやってるよ」

「それはなにより」

 これで互いに調子が狂うようなこともなかったし、親子仲は間違いなく良好であった。

 もし私が両親に注文をつけるところがあるとすれば――。

「お! 叶多ほら! これ入っただろ! お! ほら入った! ホームラン!」

 頭の上で腕をグルグルと回しながら心底嬉しそうにしている父を見ていたら、私が二親に抱いている些細な不満など、壁のクロスのちょっとした汚れ以下の問題に思えた。

 まあ、実際そんな程度のものなのだが。


 父の贔屓球団の勝利を見届けてから風呂へと向かった。

 マンションの狭いユニットバスに慣れた身としては、青いタイル貼りの広い浴室は銭湯にでも来たような非日常感があった。

 肩まで湯に浸かり目を閉じると、今朝からの出来事の数々が目まぐるしく思い出される。

 若くして不幸な亡くなり方をした同級生は、思いの外に安らかな顔で常世の眠りに就いていた。

 彼女の母親は、娘の遺書に書かれていた『死んだ恋人』が誰だったのかを知りたがっていたようだが、少なくとも通夜に参列したメンバーの中には、その存在を知る人間はいなかった。

 仮にその遺書の内容が文字通りの意味だとすれば、彼女の想い人もそう遠くない時間軸のどこかで亡くなっているはずなのだが、少なくともこの地元でそういった話はなかったという。


 風呂からあがり居間へと戻った途端のことだった。

「叶多、そろそろ結婚のことも考えたほうがいいんじゃない?」

 私は心の中で『ほらきた』と言い捨て、わずかに肩をすくめながら言い返す。

「あのさ、お母さん。結婚って相手がいなければできないって知ってた?」

 我ながらウィットに乏しい返答をしてしまったと、口にしたあとになって後悔する。

「あんたの友達のあの金髪の子、なんていったっけ?」

藤田(ふじた)のこと?」

「そうそう藤田君。あの子なんて二十歳で結婚して、もうふたり目が生まれるそうよ」

 そんな極端な例を前面に出されても残念ながら何も響かないし、そもそも私はまだ結婚を焦るような年齢(とし)ではないはずだ。

 自分たちが若くして所帯を持ち幸せだという成功体験を、息子の私にも押し付けようとしていることには何となく勘付いてはいた。

 ただ、それは正直にいって迷惑な上に、時代錯誤なことこの上ない。

「とにかくそんな相手はいないから。それじゃおやすみ」

 そう言い切ると同時に立ち上がる。

 背後で母がなにかを言っているのが聞こえたが、その内容を理解してしまう前に離れの自室へ避難することにした。


 玄関を出て徒歩十歩の場所にあるこの離れは、もともとは祖父が家業で使っていた作業場だったそうだ。

 祖父が鬼籍に入り廃業してから簡単なリノベーションを経て、私が大学進学でこの家を出るまでの間は、自室として再利用させてもらっていた。

 この町を去る時に大方の片付けは済ませていたので、今ではただ広いだけの空虚な空間に成り果てている。

 ベッドとテーブルだけがカラオケ店のパーティールームほどもある大部屋の隅っこに配置されており、窓と窓の間を吹き抜ける夜風を遮るものは何もない。

 ベッドにはすでに見覚えのない綺麗なシーツが展開済みであった。

 きっと母が昼間のうちに用意してくれたのだろう。

 部屋の入口に荷物を放り投げ、シングルサイズのベッドに真正面から倒れ込む。

「疲れた……」

 先ほどまでは脳みそだけだった疲労が、今は頭の天辺から足の爪先にまで広がっていた。

 せめてスマホの充電をしてから寝よう。

 そう思った時にはもう、意識は夢の世界へと足を踏み入――

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