旧友
「唯さんと最後に会うことができてよかったです」
頬に幾筋もの涙痕をつけた芝川さんが水守さんの母親に礼を言い、その背後にいた私たちも彼女に倣いこうべを垂れる。
墨汁で塗りつぶしたような闇に包まれた山道を、往路よりもさらに慎重に歩みながら、半歩前を行く高畑に肩越しに声を掛ける。
「高畑は最後に水守さんと会ったのって、いつ頃になるの?」
「……今年の春、同窓会の時が最後だったはずだよ。そういえば叶多君はいなかったんだっけ」
彼の言葉に他意がないことはわかっていたが、適当な理由をつけて同窓会に参加しなかった身としては耳が痛かった。
「それじゃ、彼女に恋人がいたかどうかなんて知らないか」
「さあね」
「何らかの事情で恋人が亡くなってしまって、それを追うかたちで。ってことなのかな」
「……叶多君、さすがに野暮じゃないか? 水守さんには水守さんなりの事情があったって、それだけのことなんじゃないの? それに僕たちはたった今、その彼女の通夜に行ったところなんだよ?」
口調こそ穏やかではあったが、私のくだらない質問は彼の癇に触れてしまったようだった。
「悪い……。高畑の言うとおりだよ」
自身のあまりの軽率さに思わずため息が漏れて出る。
「私はこれでごめん。明日、朝から仕事なんだ。お正月の同窓会の時にはまた帰ってくるから」
スタート地点の校舎が間近に見えてきたところで、本日のリーダーであった芝川さんがパーティーからの離脱を宣言する。
「みんなはどうする?」
サブリーダーの高畑の問い掛けに、残りのメンバーは顔を見合わせた。
この町に今から若人が遊べるような場所など存在しないことは、住人である我々が一番よくわかっていた。
「じゃあまあ、お開きとしますか」
特に反対意見は出ず、集合時と同様に挨拶を交わし合うと解散と相成る。
「あ、ねえねえ中原くん」
「ん?」
「あのね。もしよかったらだけど、駅まで送ってもらえないかな?」
「ああ、ぜんぜんいいよ。高畑もいいよね?」
「もちろん」
今年の夏は冷夏になるようなことをテレビのニュースで聞いていた。
だがいざ蓋を開けてみれば、例年とさして変わりのない灼熱の日々が今日まで続いている。
盆地に存在するこの町はさぞ暑いだろうと、若干の覚悟を決めつつやってきたのだったが、実際に訪れてみるとまるで季節を半歩ばかり前倒しにしたかのように涼しかったので驚いてしまった。
もっとも、日中であっても同様なのかまでは定かではなかったが。
「そういえばさっき、水守さんの家を出る時にさ」
後部座席に座る高畑が唐突に口を開いた。
「家の奥から赤ん坊の泣き声が聞こえたでしょ?」
「え? 私は気づかなかったけど」
「僕もわからなかったな。あそこの家って赤ちゃんがいるの?」
「いや。でも多分、奥の座敷に親戚の人たちがいたんじゃないかな」
そう言われれば、和室と繋がった襖の向こう側に複数人からの気配があった。
「それがまるで産声みたいで、なぜだか涙が出そうになっちゃったんだよ。それってさ、もうじき自分が父親になるからなのかなって」
「え? 高畑くん、パパになるの? てゆか、結婚してたんだっけ?」
「あ、芝川さんにも言ってなかったっけ?」
「聞いてない! いつしたの? 相手は誰? お式は挙げたの?」
「……こりゃまいったな」
芝川さんからの詰問にタジタジになる高畑を横目に車を走らせると、あっという間に第一の目的地である高畑家に到着した。
「あ、叶多君。帰る時でいいからもう一度寄ってってよ。うちで採れた野菜、食べてもらいたいからさ」
そう言って笑顔を見せた彼の白い歯だけが、明かり一つない暗闇の中に浮かんで見えた。
「わかった。その時にまた連絡するよ」
「高畑くん、奥さんによろしくね」
「うん。芝川さんも気をつけて帰って」
高畑の家をあとにすると、次の目的地である隣町の駅へと向かい車を走らせる。
このまま県道をしばらく走り、山をひとつ越えればたどり着けるはずだった。
車が山道に差し掛かる直前、助手席に座っていた芝川さんが声をあげる。
「中原くん、ごめん。そこの自販機によってもらってもいい?」
「ああ、うん」
言われるがままに、漆黒の中で煌々と光を放つ自販機の正面に車を寄せる。
「中原くんはどれがいい?」
「自分で買うよ」
「どれがいい?」
さすが元クラス委員長なだけあって、彼女の押しの強さは相変わらずの様子だった。
普段ならコーヒー一択だったが、早朝に起こされて半日もステアリングを握っていた体が、まるで目の前の自販機に群がる蛾や甲虫たちの嗜好を真似るかのように糖分を求めていた。
「じゃあ……メロンソーダ」
子どものようなオーダーを黙って受け入れた彼女は、ドアを開けると自販機へと詰め寄っていく。
私もその後ろ姿に続き、星空の真下へと打って出た。
自販機から少しだけ離れた路側帯脇の縁石に腰を下ろすと、コンクリートに蓄えられた熱がズボン越しに伝わってくる。
「おまたせ。はい、コレ」
「ありがとう」
キンキンに冷えた黄緑色の液体を喉に流し込む。
メロンソーダなどという代物を飲んだのは子供のとき以来だったが、大人になった今であれば断言できる。
これは絶対にメロンの味ではない。
そもそも色味以外にメロンの要素がないようにすら思えた。
あえて言うならメロンあじ味だろうか?
「あれ? 難しい顔してどうしたの?」
「あ、いや。ちょっと哲学的な考察に耽ってた」
「えーなにそれ?」
彼女はくすくすと笑うと私のすぐ隣に座り、小さな缶に入ったオレンジジュースをチビチビと口に運んだ。
暗闇の道路脇に座り込み黙々とジュースを飲む、礼服姿の若い男女。
この光景を通りかかったドライバーが目にしたら、いったいどう思うことだろうか。
時期が時期だけに、少々不安な気持ちにさせてしまうかもしれない。
そんなどうでもいいことを考えながら、空になった缶を自販機の横に設置されたリサイクルボックスに捨てるために立ち上がろうとした、その時だった。
「中原くん」
唐突に呼び掛けられ、縁石から腰を数ミリだけ浮かした状態で彼女のほうを向く。
「なに?」
「あのね、私ね。三日前の夜に電話をもらったの」
「電話って、誰から?」
「……唯ちゃんから」