第二部 4 ガブリエル、俊英なる男
その日の夕方のことだった。
市場から帰宅して、取り敢えず買ってきた品を整理し終わって寛いていた時。不意にブランカが唸り声をあげて起き上がった。ダイニングテーブルに突っ伏していた俺はその声で顔を上げ、テーブルに置いてあったPPKを手に取る。
「知らない奴か?」
ブランカは唸るのをやめようとしない。彼女が唸り続けるときは、決まって怪しい匂いのする奴か、今まで会ったことない奴が来た時だった。俺はPPKがきちんと装弾されているかを確認して、ブランカにマリィのところへ行くよう指示を出す。マリィは今疲れて自室で寝ているはずなので、取り敢えずブランカを送っておけば大丈夫なはずだ。
いつでもPPKを撃てるように身構えながら、ダイニングの窓から外を窺う。どうやら大人数で来ているわけではないらしく、人影は見えない。しかしここからギリギリ見える位置で、一人の男が教会の礼拝堂前に歩み寄っているのが見えた。彼は見たことがないが、敵対心らしきものも感じない。その情報から、俺はあの男が恐らくバレンティーナからの使者であることに気付いた。
少しだけ安心して、小さく溜息を吐く。バレンティーナがたまにこのような形式で使者を送ってくることはあったが、最近は滅多になかった。しかし彼女が使者を送ってくるときは基本的に大事であることが多く、あまり歓迎する気持ちは湧かない。だけど無視するわけにもいかないので、俺は鼻から息を吐いて礼拝堂の方へ向かった。
ダイニングキッチンから礼拝堂は遠くない。礼拝堂に入った頃には、正面扉が叩かれ始めていた。俺は一応PPKを持ちながら正面扉に向かう。そしてPPKを構えながらドアを開けると、ハッとした表情の男が立っていた。彼はすぐに両手を上げて、無抵抗であることを示してくれる。
「バレンティーナの使者か?」
PPKを下げながら尋ねると、使者は小さく頷いた。
「すぐに本部へ来て欲しいそうです。どうにも暫定政府の連中が押しかけて来てるみたいで」
「暫定政府が?」
俺は男の言葉をそのまま返してしまう。暫定政府。最近の絡みと言えば爆心地で戦闘に陥った以外は思い当たらない。まさか俺が連中に発砲したことがバレたのだろうか?
「詳細は分かりませんが、とにかく一緒に来てください」
「ああ、ちょっと待ってろ」
俺は男に少しだけ待つよう伝えると、マリィとブランカに外出することを伝えに戻る。
その間、俺の心の内には暗雲が立ち込めていた。もし俺が暫定政府軍に手を出していたことがバレたとすると、そもそも連合同盟が天使の生誕の件に首を突っ込んでいることも露見してしまう。一応俺は連合同盟の人間ではないが、話が通用する連中かどうかはわからない。最悪の場合、落とし前を付けさせられる可能性もあった。そうなるとバレンティーナや俺の身が危ない。しかしバレンティーナのためにも逃げることは許されなかった。俺は彼女と義姉弟であるわけだし、長い間共に戦った盟友なのだ。
俺は唇を軽く噛みながら、とにかく早足でマリィの部屋を目指した。
連合同盟の集会所は騒然としていた。
それはいつもの喧騒とは一味異なり、どこか緊迫感を伴った雰囲気を放っている。それは恐らく暫定政府の連中が押しかけたからで、職員たちはみな顔を緊張感で引き締めていた。
俺は廃教会まで連絡に来た男から、先方がバレンティーナの執務室で待機していることを告げられる。俺がそれに頷き返すと、彼はそそくさと退散していった。無理もない。連合同盟と暫定政府は互いに綱を引き合っている状態だ。そのバランスが崩れる可能性のある事態に、自ら首を突っ込もうとは誰も思わないだろう。
俺はすぐさま、バレンティーナの執務室を目指した。その道中、脳内でとりとめのない思考が堂々巡る。もはや考えても無駄だというのに、それでも何かいい策があるのではと思索に沈む。きっとこうしていることで落ち着きたいのだろう。このタイミングで暫定政府がこちらを訪れるのは不吉だ。マッチポンプとは言え、バレンティーナに累が及ばないと良いのだが。
そんなことを考えている内に、俺はバレンティーナの執務室前まで到着していた。執務室の前には男が四人立っていて、恐らくバレンティーナと暫定政府の用心棒たちだろう。俺は彼らに軽く目配せすると、その場で小さく呼吸を整えてノックをかける。するとすぐさま、中から入れというバレンティーナの声がかかった。
扉を開けると、いつもの紫煙は漂ってこなかった。それだけでもある意味異常事態である。俺は一人決意を固めると、執務室の中へ入っていった。
執務室には、向かい合って座る男女の姿があった。もちろん片方はバレンティーナであり、彼女に相対するのはぴっちりとしたスーツを着込んだ背の高い若めの男だ。しかし若いながらも深い皺が刻まれており、かなり苦労して生きてきたことが窺える。今時スーツはあまりお目にかかれないが、暫定政府の人間は好んでこれを着用していた。
「ご苦労だった、シリウス。とにかく座ると良い」
バレンティーナは極力穏やかな口調で俺に促すが、やはりその声色には緊張感が伴っていた。彼女の言葉に無言で頷き、その隣に腰掛ける。
男と向かい合ってみると、彼から只者ではないプレッシャーが放たれていることを意識する。もしかしなくても彼が暫定政府の人間だろうが、ここまで貫禄のある男と会うのは初めてだ。バレンティーナと張り合おうというくらいなのだから、暫定政府内でも悪くない地位にいる人間なのだろう。
「君がシリウス君かね? 山犬の」
そう尋ねられて、俺は思わず顔をしかめてしまう。山犬という異名は、暫定政府が勝手につけたもので、俺が吹聴して回っている字名ではない。だからそのような名前で呼ばれることに若干の違和感があった。
「そう呼ぶ奴もいるな。あまり好みではないが」
互いの距離を推し量るように交わされる言葉。付かず離れずといった具合の返事に、男は薄く苦笑を浮かべた。
「いいではないか、名が通っているという意味では。狂犬との関係もわかりやすい」
「何を勘違いしているか知らないが、俺とバレンティーナは義姉弟だ。それ以上でもそれ以下でもない」
「なるほど、しかし疑似的な家族とでも言うのなら、連合同盟の範疇を超えた依頼も受けようと思えるわけだ」
俺は口を噤んだ。下手に否定しても肯定していると捉えられる。今は何も言わないが吉だ。そう思っていると目の前の男はまた軽く微笑んで、思い出したように頭を下げた。
「失礼。まだ名乗っていなかったな。私はガブリエル。ノクターン政府で再生大臣を務めている」
慇懃に礼をするガブリエルと言う男に、俺は隣のバレンティーナを見た。彼女は鼻から軽く息を吐いて面倒そうに目を瞑る。
連合政府や外周区の連中は、基本的に暫定政府をノクターン政府とは呼ばない。しかしその当人たちは自分たちを立派なノクターンの統御者だと自負しているきらいがある。そもそもこのノクターンという土地を治めようという組織は数多くあり、その中で一番力があったから政府を自称しているのだ。前提としてこの外周区を第二級汚染区域に指定して半ば隔離措置を取っているのは紛れもない暫定政府側で、天使の生誕の情報を独占しているという点でも、相容れない部分が多い。
ガブリエルは顔を上げると、こちらに手を差し出してきた。俺は一瞬どうしようかと迷うが、連合同盟の建前上ここは握っておくのが筋だろう。しかし内なる猜疑心を隠すことができず、俺は小さく溜息を吐きながらその手を握った。
「あまり歓迎されていない様子。やはりこちらも少しは歩み寄りを見せるべきか」
ガブリエルは手を引っ込めながらバレンティーナに向かってそう尋ねる。バレンティーナは肩を竦めるだけだったが、ガブリエルはそれで彼女の意図を感じ取ったようで、薄く笑った。
「これは失礼。茶番はこれくらいにする。ギルドマスター、そしてシリウス。今日私がこの場を訪れたのは他でもない」
そう言うと、ガブリエルはスーツの胸ポケットから何か紙のようなものを取り出し、テーブルの上に置いた。覗き込んでみて、俺はそれが紙ではなく現像された写真であることに気が付く。今時フィルム式の写真機を所持しているのは、やはり力のある組織だけだろう。そう言った意味で、暫定政府はノクターンの中でも有数の実力を誇っていると言えた。
その写真に写っているものを覗き込んで、俺は軽く唇を噛んだ。写っていたのは爆心地の研究施設で俺が射殺した暫定政府軍の男で、頭を銃弾で砕かれていた。
「この男に見覚えは?」
身に覚えしかないのだが、俺は知らんぷりを決め込むことにした。
「そもそも顔がわからない」
そう短く返すと、ガブリエルは小さく笑った。
「それは――確かに」
ガブリエルは息を吐くと、テーブルの上で指を組んだ。
「この男は、先日我々が爆心地に送り込んだ調査部隊の一人だ。しかし調査部隊はミハイル教会の巡礼に遭遇したらしく、そのまま戦闘に陥って、あえなく全滅した」
流れるようにそう告げて、ガブリエルは軽く息を吐いた。
「しかし、見ての通りこの男は銃殺されている。ミハイル教会は巡礼で銃器の類を持ち込んだりはしない。そう考えると、この部隊員はミハイル教会の者以外に射殺された可能性が高いことになる」
「武器を奪われたんじゃないのか?」
可能性としてはあり得なくはない。当然銃殺したのは俺だが、ここははぐらかしておきたい。
「確かにその可能性もあったが、しかし銃は発砲すると対象に線条痕というものが残る。確認したところ、爆心地に送り込んだ部隊員の武器のものと、その線条痕は一つも一致しなかった」
俺は一人感心していた。確かに線条痕で銃器を特定する技術は存在しているものの、普及しているとは考えていなかった。そもそも線条痕による銃器特定が可能ならば暗殺の難易度がかなり上昇する。今の俺には関係ないが、外周区での暗殺は忌避される手段となるだろう。しかし今までの事例で線条痕による捜査を行っていなかった口からすると、今回の爆心地絡みは大きなヤマらしい。俺たちは竜の逆鱗に手を出してしまったってわけだ。
「それで、君たちの部隊員を殺害した銃器は見つかったのか?」
バレンティーナが助け舟を出してくれる。それを聞いたガブリエルは小さく首を横に振った。
「いや。その小銃そのものは見つかっていない。近場に捨ててあるかと思ったが、そういうわけではなかったようだ」
一応、戦闘中に使用したAKは第一級汚染区域内で廃棄している。念のため隠蔽工作を施していたため、発見には至らなかったようだ。しかし、それならば連合同盟が関わっているという結論には至らないはず。一体ガブリエルという男は何故ここを訪れたのか。
「だがな、使用されていたAKは前に別の事件で用いられたものだった。過去の捜査で線条痕を記録していたから、その移動ルートを追跡することができた。そのAKは数日前に足取りが不明になってな。どうやら誰かに買い取られたらしい。それも足がつかないとなると、ある程度の秘匿活動を行える組織にだ」
なるほど、それで俺たちに白羽の矢が立ったわけだ。しかし、たった一日でここまでの情報を集めて来るとは。ガブリエルという男には中々空恐ろしいものがあるようだ。多分暫定政府内でも大臣と言うだけあって優秀な人材なのだろう。
「つまり、ガブリエル殿はこう言いたい。我々連合同盟が今回の一件に関わっており、あなたの部隊員を射殺したと」
バレンティーナがそう尋ねると、ガブリエルは確かに頷いた。
「そこにいるシリウス君を呼んだのも他ではない。確か君は昨日外周区から離れていたようだな。どこへ行っていた?」
「野暮用だ。内容を言うまでもない」
白を切るが、ガブリエルはこちらをジッと見据えて、俺の本心を覗き見ようとしているようだった。居心地の悪さを感じながらも、視線を逸らすことはしない。ここで目を離そうものなら、自分がやりましたと公言しているのも同然だからだ。
しばらく視線を受け続けて、ようやくガブリエルは目を離した。
「そうか――いや、構わない。私としても責任を追及しに来たわけではないのだ」
ガブリエルの言葉を聞いて、俺は内心頷いていた。ガブリエルはそこまで愚かな人間ではないだろう。今回の件についてだって、鎌をかければいくらでもこちらを騙せたはずだ。しかしそれをせず、あくまでこちらに白を切らせ続けたのには理由があるはず。
「と言うと?」
バレンティーナが先を促すと、ガブリエルはソファに背を預けた。
「連合同盟は仕事の斡旋も行っているようだな。だったら一つ、雇用確保のために依頼をしたい」
俺とバレンティーナは顔を見合わせた。それを見てガブリエルが苦笑する。
「――単刀直入に言おう。山犬のシリウス君に、ミハイル教会へ潜入してもらいたい。目的は単純、大聖堂で暮らしている教主の顔を確かめて来ることだ」
それを聞いて、脳内に疑問符が浮かぶ。ガブリエルの表情から、彼がふざけているわけではないことはわかる。だけどこれは暗殺でも間諜でも何でもない。確かにミハイル教の教主は衆目に顔を晒さないという決まりがあるらしいが、結局顔を見たところで何か得られるとは到底思えなかった。当然何か裏があるのだろうが、現段階で看破することは難しい。
俺はバレンティーナを盗み見た。これは連合同盟を通しての作戦だから、受諾するには彼女の了承が要る。だけどバレンティーナは渋い顔をしていて、ガブリエルの依頼に対して返答しようとしなかったが。
「それを知ってどうなる、と?」
俺も疑問に思っていたことをバレンティーナが突っ込んでくれる。質問を受けたガブリエルは軽く目を伏せた。
「――受けて貰えれば自ずとわかるだろう。ノクターン政府と連合同盟は、互いに健康的な付き合いにしたい。わかっているだろう、狂犬?」
ガブリエルの視線に、バレンティーナの双眸は揺らめいた。恐らくだが、バレンティーナはこれが罠なのではないかと疑っているのだろう。もし潜入作戦そのものがミハイル教会に漏れていた場合、俺はほぼ確実に拘束されてしまうだろう。所属の部隊員を殺害された報復としては持って来いというわけだ。しかしガブリエルは断れないように布石を打っている。それは俺たちが軍の部隊員殺害に関与していると悟っておきながら、それを敢えて見逃したという点だ。ガブリエルはほぼ確実にこちら側の関与を確信している。しかしそれを指摘しないことで貸しにしたのだ。ノクターン政府と連合同盟は“健康的な”付き合いにしたい。それは貸し借りが偏った不公平な関係ではなく、互いに互いを利用し、利用される組織間の純然たる関係性を望んでいるということだ。だからバレンティーナは簡単には断れない。組織の長だからこそ、今回の取引の重要性を最も良く理解しているからだ。
バレンティーナはガブリエルの視線から逃げるようにこちらを見た。彼女の目線は俺の身を案じているようで、俺は少し呆れてしまう。元はと言えばバレンティーナの言いつけを破り暫定政府軍に手を出した俺が悪いのだ。もしそれで自分自身に累が及ぼうとも、バレンティーナには関係ない。それが例え義理の姉弟だとしても。この世界は全て自己責任の世界なのだ。
「良いんじゃないか? 報酬は出るんだろうな?」
バレンティーナの視線を受けて、俺はガブリエルにそう尋ねる。
「働きに応じた額は約束しよう。これは依頼だからな」
頷いたガブリエルを横目で見て、俺はバレンティーナに視線を送った。彼女はまだ迷っているようだが、俺が乗り気ということもあってか、渋々といった様子で頷いてくれた。
確かにこれはバレンティーナが危惧するように罠である可能性が高いだろう。しかし逃げ道が塞がれているため、後戻りすることはできない。このような状況に陥ったら、もうがむしゃらに前へ進むしかなかった。どんなにあがいたって生命は一つなのだ。それをどう使おうと個人の勝手。だからこれは俺が個人的に受注した任務だ。バレンティーナは関係ない。例えそれで俺が死のうとも、彼女に責任はないのだ。
俺は依頼の契約を始めた二人をぼんやりと見つめながら、一人思考の海に沈んでいた。