第二部 1 マリィという名の少女
ふと、紅い光が瞼を刺激した。その明かりは独特の白さも伴っていて、瞼に覆われている網膜を鈍く舐めていく。特有のむず痒さを全身に知覚して、溜息を吐いた。この痒みは恐らく部屋が冷え切っているからで、いくら厚着して寝ようとも、暖炉の類を持ち込めないのでは体温は否応なく下がってしまう。その寒さが原因でこそばゆさを感じているのだろう。このうざったい感覚を解消したいのなら、早く目を開けて起きてしまえばいい。そんなことは当然わかっていたが、昨日の疲れが残っているからか、もう少し横になっていたい気分だった。しかしそこまで考えて、ある“異物”のことを思い出す。あいつは今どうしているだろうか。まぁ俺より早起きということもないだろうし、恐らくまだ眠っているだろうが、勝手に起きて来られても面倒だ。俺は早々に二回目の溜息を吐いて、まだ重苦しくのしかかっている瞼を強引に開いた。
ぼんやりと視界が開けていく。まず目に入ったのは、俺の瞼を刺激し続けていた燭台の明かりであった。本来は消して眠るのだが、今回は疲れて忘れてしまっていたようだ。思わぬ火事にも直結するので、今後は気を付けたいところである。ふと、あいつの部屋の燭台はどうなっていたかを想起した。奴はこの家の、いやこの国の常識など知らないだろうから、明かりを付けっぱなしで寝ているかもしれない。流石に今は大丈夫だろうが、今後毎回付けっぱなしにされても火事の原因になるので困る。この家――もとい教会が燃えることにでもなったら、またバレンティーナの厄介にならねばならなくなるのだから。
視線を燭台の下へ移すと、そこには白い大きな影があった。“彼女”は俺が覚醒したことに気が付いたのか、鎌首をもたげて、こちらに舌を出した。
その白い巨大な生物――もとい大型のホッキョクオオカミの雌、ブランカは俺の相棒的存在だ。普段はこの教会の留守番をしてもらっている。かなり賢いオオカミであり、人語がある程度理解できるらしい。俺が寝ている間の警護を任せていたが、問題はなかったようだ。
本日三回目の溜息を吐いて、上体をベッドから起こした。ベッドと言っても、そう大層なものでもない。俺が使っていた本来のベッドはあいつが使っているので、俺はチャペルに置いてあった長椅子を持ち寄って、その上にタオルケットを巻いてその上に寝ているのだ。寝心地は言うまでもない。
欠伸を一つ漏らして、長椅子から降りて背伸びをする。時間的には朝だろうが、当太陽の明かりは見えない。というか俺は太陽と言うものを見たことがない。それは存在するだけで大地が明るく照らすシロモノらしいが、果たしてそれも本当かどうか疑わしいところだ。
ともかく、まずは奴を起こさねばなるまい。軽く身体を動かしながら部屋の外に出る。俺の部屋は教会の応接室を改装したものだが、その古さもあって扉は軋んでいた。応接室から出て、すぐ隣の部屋に入る。その後ろをブランカがついてきていた。
ここは教会の準備室らしいのだが、部屋としては十分に大きい。俺は目を細めながら、ベッドで眠る奴を視界に収めた。
彼女は気持ちよさそうに眠っていて、その安らかな寝顔を見ると、どうしても胸が痛くなる。
「おい、起きろ」
そう声をかけるが、彼女は何か寝言を言って起きようとはしない。ふと、ブランカが俺の太腿を叩いた。振り返ると、鼻先を眠っている彼女の方に向けて、そしてこちらに視線を合わせた。起こすか? と聞かれているようで、俺は少し笑ってしまう。いきなり同居人に起こされたら彼女は跳び起きるだろうが、絶叫されても面倒なので止めておく。俺は溜息を吐いて、どうしてこんなことになったかを思い出した。
昨晩、俺たちは第一級汚染区域から無事に脱出して、第二級汚染区域、もとい旧東京外周区まで帰還していた。区域が分断されているところで防護服の類を処分し、フェンスで区切られた境界線を突破した。この任務で数多くの人間を屠ってしまったが、特段罪悪感のような感情はなかった。きっとそれは俺の心が完全に冷え切っているかで、これまでもこれからも、きっと人を殺して憐憫を抱くなどといった茶番は起こらないだろうなと思えた。
しかし、帰還に際して想定外の事態が発生していた。それは言うまでもなく、俺の隣にくっついている少女のことだ。
彼女はこちらの表情が見えないように栗色の髪で顔を隠しながら後を尾けて来ていた。まぁ連れてきたのは俺なのだが、このような任務において、保護対象が存在するということは面倒だ。本来であれば自分の身だけを案じて守っていれば良いだけなのに、守らなければならない対象がもう一つあれば、手間は二倍どころか累乗で上昇する。過去に誘拐被害者を取り戻すという任務を受けたことがあるが、あれはあまりにも面倒で二度と受けたくないと思ったほどだ。それほどまでに保護対象が増えるということは任務の難易度を上げてしまうのだ。
そもそも、今回の作戦には少女を連れ帰るなどといった目的はない。しかしこうして爆心地の研究所跡にいた少女を連れて来たことには、やはり大きな理由がある。
それはもちろん、天使の生誕の爆心地に建設されていた施設の最重要区画にいた生き残りである――恐らくだが――からだ。彼女は眠りから醒めてあまり時間も経っていないし、そしてゆっくりと事情を伺うために、旧東京外周区まで連れて帰ることにしたのだ。彼女が安置されていた場所を鑑みると、何か重要な情報を持っている可能性が高い。それが天使の生誕に関するものかはまだわからないが、重要度はかなり高いだろう。もしかしたら彼女は冷凍睡眠させられていた、旧世界の人間なのかもしれないのだから。
それにもう一つ理由がある。それはこの少女が爆心地で眠っていたことに由来する。爆心地は放射能ではなかったものの毒素に満ちていて、人間が生身で長居できる場所ではない。あの棺桶によって防護されていた可能性も考えられるが、しかし彼女は起き上がった後も平気そうな顔をしていた。取り敢えず暫定政府軍の亡骸から頂戴したガスマスクを付けさせたが、やはり少女には何らかの特別性があると見て間違いないだろう。爆心地に放置されていて死ななかったのだから、何らかの耐性を獲得している可能性もある。もしかすると少女の身体を調べれば、毒素に対抗する手段を見出せるかもしれない。そうすれば爆心地に長時間滞在できるようになるかもしれないし、今後役に立つ場合だって考えられた。
そう言った理由で、俺は爆心地で眠っていた少女を連れて来ていた。どうやら言葉は通じるようなので、コミュニケーションが取れないといった面倒な事態にはならずに済んでいる。少女が一体何者かはわからないが、彼女を連れ帰って話を聞けば何らかの情報を得られるだろう。
一人納得して、フェンスを乗り越えてきた少女を受け止めた。彼女が寝起きで身体がうまく動かないのか、ぎこちない動作でフェンスを上っていた。いざという時に走れないとそれはそれで面倒だが、今指摘したところで走れるようになるわけではないので、その可能性は無視することにした。流石に暴漢に襲われることは俺もいることだしまぁないだろう。
フェンスを乗り越えると、旧東京外周区は目の前だった。俺はようやく死地から帰還できたことに若干安堵する。予想外の手土産もあったことだし、バレンティーナも喜ぶだろう。
「ここ、どこ?」
ふと、背後から声が聞こえた。その声はもちろん少女のもので、俺は振り向いて彼女の方を確認する。少女は不思議そうに旧東京外周区の街並みを眺めていた。彼女がいつからあそこで眠っていたのかは知らないが、この様子だと旧東京外周区に来るのは初めてらしい。
「ノクターンの旧東京外周区だ。俺の家がある。郊外だがな」
そう返すと、彼女は首を傾げた。
「ノクターン? 旧東京外周区?」
彼女は聞いたことがないのか、ずっと疑問の表情を浮かべている。
「来るのは初めてか?」
一応聞いてみると、少女は小さく頷いた。
「そうか。まぁ、慣れるといいな」
適当に会話を打ち切って、俺は歩き始めた。任務の完了報告と少女の引き渡しのために連合同盟へ顔を出さなければならない。俺が連合同盟へ歩を進めると、後ろから小走りでついてくる音がした。
連合同盟の集会所へ到着し、俺はバレンティーナを呼び出した。集会所は真夜中だからか、あまり人影はない。まぁ真夜中と言ってもいつも暗いので昼間と大差ないが。
受付嬢がカウンターに戻ってきて、執務室までいらっしゃってくださいとだけ告げる。俺は頷いて、少女についてくるよう指示を出した。
「どこへ行くの?」
廊下を歩いている間、少女がそう尋ねてくる。連合同盟に来るのも初めてだからか、彼女は周囲を物珍しそうに眺めていた。
「ここのボスのところだ。煙草臭いが我慢しろ」
それだけ告げると、ちょうど執務室の前に到着した。俺はすぐに扉をノックする。
「シリウスか。入れ」
バレンティーナの声が聞こえたので、俺は執務室のドアを開けた。それと同時に紫煙が部屋からあふれ出てきて、顔をしかめる。
「おい、換気くらいしろ」
手で煙を払いながら部屋に入ると、隣の少女も苦い顔をしてついてくる。
「ああ済まない。お前のことが気がかりでな。吸わずにはいられなかった」
冗談めかして笑うバレンティーナは、それでも葉巻に唇を付けた。俺が帰ってきても吸い続けるということは、結局煙草を吸う言い訳が欲しかったのだろう。俺は呆れながら、取り敢えずソファに腰掛けた。それと同時にバレンティーナも向かい側のソファに沈み込む。
「ところでシリウス。その少女はなんだ? お前の趣味か?」
バレンティーナはさして興味もなさそうに呟いて、葉巻を揉み消した。要らぬ勘違いを生む前に断っておこう。
「違う。こいつは俺が連れてきた。爆心地で暢気に寝てたんでな」
少女に俺の隣に腰掛けるよう言うと、彼女は大人しく従った。俺の発言を受けて、バレンティーナが顔をしかめる。
「どういうことだ、シリウス」
俺は隣の少女についてかいつまんで説明した。途中暫定政府軍とミハイル教会の話も挟みながら。一通り話終えると、バレンティーナは難しい顔をしながらまた葉巻を取り出す。
「どこから突っ込んでいいのかわからん。そもそも、私は暫定政府の連中には手を出すなと言っただろう? 事が表沙汰になったらどうするつもりだ?」
「それはないだろう。もし次の部隊があの場所を訪れても、ミハイル教会との戦闘で死んだと思うだろうさ」
バレンティーナは呆れるように溜息を吐いた。連合同盟の頭領として言いたいこともあるのだろうが、それを堪えているようだ。まぁしかし、それにしたって余りある成果を持ち帰ったのだ。もし暫定政府軍に手を出していなかったら、これらの情報は得られなかったかもしれない。だからこそ怒れないのだと思う。
「まぁいい。そんなことよりもだ。本当に暫定政府の輩はガスマスクしかしていなかったのか?」
「ああ。不調をきたしている奴もいなかったから、爆心地に赴く際の防備としては万全なんだろう」
バレンティーナは大きく唸って、腕を組んだ。無理もないだろう。今までの通説としては、天使の生誕によって爆心地は放射能に汚染されていて、それ故に装備なしでは近づけない場所だったのだから。それが覆されたのだから、今までの前提を大きく見直さなければならない。
「――それは、結構なことになったな」
「――ああ」
バレンティーナは新しい葉巻に火を付けて、吸い口に唇を触れさせる。こういう時は吸って落ち着きたいのだろう。俺のもたらした情報はバレンティーナの予想を上回るものだったようだ。まぁ俺としてもここまでの情報を得られたのは予想外だったが。
「つまり、爆心地や第一級汚染区域に満ちている毒素は放射能ではなく、もっと別のものだと言うのか?」
「恐らく」
「そうなると、一体何が爆心地に蔓延っているというんだ? ミハイル教会の連中も死んでいたから、毒素がないということはない。しかし放射能ではないとなると、天使の生誕が核兵器による悲劇だという通説も怪しくなる。だがお前は見たのだろう? 爆心地の惨状を」
「ああ。あれは確かに大量破壊兵器と呼ばれるものによって作られた惨禍だと思う。あれだけの被害を出せる兵器は現代には残ってないだろう」
大地に穿たれた大穴。見渡す限りの空虚な洞に、俺は自分がいかに小さな存在であるかを思い知らされた。あれがいわゆる核兵器と呼ばれるものによる傷跡でないのなら、一体何によって刻まれたのか。あそこまでの規模に被害をもたらす爆弾はそもそも存在しないだろう。見た限り一回の爆発であの大穴が穿たれたようだし。散発的に爆発を起こしても、あのような穴にはならないはずだ。
バレンティーナはソファに沈み込んでいたが、諦めたように身体を起こした。
「まぁ、今考えても答えは出ないだろう。しかしこの事実は他言無用で頼む。もし暫定政府の連中に勘付かれたら、連合同盟が危うい。頼むぞ」
俺は無言で頷いた。連合同盟に危害が及ぶのは本意じゃない。バレンティーナも俺が持ち帰った事実に対して慎重に精査するだろう。その結果を待つしかない。
「それで、だ。お前は隣の女をどうするつもりだ?」
バレンティーナは視線を俺の隣に小さく座っている少女に向けた。
「彼女は爆心地の研究施設で眠っていたんだろう? おい、お前の名前は?」
バレンティーナが促すが、少女はどう答えるべきか決めかねているようだった。
「どうした? 自分の名前くらいわかるだろう?」
そう追及すると、彼女は小さく口を開いて、
「……マリィ」
とだけ答えた。
俺とバレンティーナは、その名前を聞いて顔を見合わせた。
「まさか、偶然だよな、シリウス?」
「当たり前だ。それ以外にあるか」
マリィと名乗った少女は俺たちの会話の意味が掴めないのか、首を傾げていた。
「まぁいい。それで、何か知っていることはないのか?」
バレンティーナが尋ねると、マリィは首を横に振った。
「どういうことだ?」
すると、またマリィが小さく口を開く。
「――覚えてない」
「覚えてないって、何をだ?」
俺が聞き返すと、マリィはゆっくりと顔を上げて、
「全部。目が覚めたら、シリウスが私を覗き込んでた。それだけ。名前以外は思い出せない」
「まさか、記憶喪失だとでも言うのか?」
バレンティーナが驚いたようにそう尋ねると、マリィはコクンと頷いた。
「……はぁ。とんだ不良品だったな」
バレンティーナはそう言いながらうなだれて、俺も呆れて溜息が出てしまう。面倒ながらここまで連れてきたというのに、何にも情報を持っていないという。それは溜息が出ても仕方ないと言えよう。
そんな風に呆れていると、マリィが縮こまりながら口を開いた。
「私、要らない子?」
バレンティーナが盗み見るようにこちらを見据えた。しかし俺はどう返して良いかわからない。自分より若い少女の相手が久しぶりだからか、上手い言葉が出て来なかった。
「いや、そんなことはない」
バレンティーナはソファから立ち上がると、マリィの頭を乱暴に撫でた。
「覚えてないなら思い出せばいい。この兄ちゃんが、お前が必要だってさ」
そう言うと、マリィは顔を明るくしてこちらに振り返った。だけど勝手に話を進めて貰っても困る。バレンティーナはこの少女を俺に預からせるつもりだろう。
「おい。俺はこいつを引き取るなんて一言も言ってないぞ。連合同盟の依頼の副産物なんだから、お前が面倒を見ろよ」
「じゃあ本人に聞いてみようか。マリィ、私とシリウス、引き取られるならどっちが良い?」
悪戯っぽくバレンティーナが尋ねると、ほぼノータイムでマリィは俺を指さした。
「ふざけるな。ガキなんて置けるか」
「まぁそう言うなシリウス。ちょっと耳を貸せ」
そう言うと、バレンティーナは強引に俺の耳を引っ張った。
「なんだよ?」
「ここで匿うと、暫定政府の連中に勘付かれる可能性がある。この女が重要参考人である以上、連合同盟に置くのは危険だ。こいつを匿って発生する金銭はこちらで負担する。だから頼んだ」
バレンティーナは小さくそう言って、目を閉じた。彼女なりのものを頼み込む仕草だ。俺はバレンティーナを見つめて、そして大きな溜息を吐いた。
「……長居はさせないぞ。いいな」
「すまないな。――思い出すかもしれないが、頼んだ」
俺は鼻から息を吐いて、バレンティーナから離れた。
思い出すかもしれない? いいや、それは詭弁だ。もう既に思い出している。彼女との日々を。彼女の柔らかい笑顔を。だから嫌だったのに。俺はマリィを通して、“彼女”を思い出してしまうのだ――