第三部 3 この街に蔓延るモノ
さて、バレンティーナから任務を受けたは良いものの、まずは調査方針を定めなければならない。
病室から出ていったバレンティーナは一人で帰ると言っていたが、流石に襲われても追い返せるだろうし問題はないだろう。彼女らしいと言えば彼女らしいが、少しくらい自分の身を顧みて欲しいものである。そんなことよりも、最初にどのように調査を行うかが大事だ。
バレンティーナから話を聞いた限りだと、俺の中での推論はドラッグ一択だった。旧東京外周区には昔から麻薬の類が蔓延っていて、中々に撲滅ということは難しい。ドラッグは人々の堕落に比例して蔓延するものだ。だからこそこの旧東京外周区でドラッグが蔓延していることは妥当だとも(皮肉だが)言えた。しかし今回の事件に還元してみると、やはりドラッグの類が関わっている可能性が十分に高いだろう。ドラッグというのは副作用が強すぎると身を滅ぼす。どのように身体を破壊するかはものによるが、どれもマトモな壊されようではない。この病室に寝転がっている連中は自意識を消失するだけで済んでいるようで、むしろ運が良いのかもしれない。場合によっては永遠に苦しみ続けなければいけないドラッグも存在しているのだから。
俺が今回の件に関してドラッグが関わっていると思う理由は単純だ。それは二週間という短い期間で蔓延していることに起因する。この街で麻薬というものは拡散しやすく、すぐに多くの人間に行き渡る。それは多くの人間が貧困の中、飢餓の苦しみから逃れる術を探しているからで、そういった人間を中心に蔓延しやすいのだ。疫病の類でなければ、基本的には麻薬だと思っても瑕疵がないほどに。バレンティーナがこのような調査を俺に依頼したのは、やはり暫定政府が関わっているからだろう。連中の思惑がどうかはわからないが、奴らより先に奇病の発生源に到達する必要があった。
そんなこんなで、俺はまずこの診療所の医師や看護師に患者について尋ねてみることにした。バレンティーナから聞いた情報以上の成果が得られるかもしれない。とにかく運び込まれた連中の出身くらいは聞いておきたかった。
そう決心すると、俺は患者が眠っている病室を後にした。本人たちに話を聞けないのでは仕方ない。そもそも運び込まれた患者の所持品などは既に調査済みだろうし。
病室を出ると、ちょうど良いところに看護師の一人が通りかかった。何度か世話になったことがある若い看護師の女性で、俺は彼女に声をかけることを決める。
「悪い。ちょっと話を聞きたいんだが、良いか?」
声をかけると、彼女は顔を上げてこちらに向き直る。するとこちらが誰なのかわかったのか、パッと顔を輝かせた。
「まぁ、シリウスね。久しぶりじゃない。元気してた?」
彼女は嬉しそうにこちらに寄ってきて、顔をまじまじと見つめてくる。少しだけ恥ずかしくなって、俺は顔を背けた。
「その様子だと時間はありそうだな。相変わらず無遠慮で辟易するよ」
目を逸らしながらそう告げると、彼女は自慢そうに胸を張った。
「ふふ。看護師は少し積極的なくらいが良いのよ。あたし結構人気なんだから」
看護師に人気も糞もあるかと思ったが、突っ込まないでおく。入院しているのは老人も少なくないから、そういう年齢層に人気があるのだろう。若さはある意味罪でもある。
「じゃあその人気に応えてもらおうか。――この病室に入っている患者のことが聞きたいんだが」
俺が背後の病室を指し示すと、彼女はあからさまに暗い顔をした。まぁいくら世話しても反応がない患者となると、看護師としてもやりにくいだろう。
「バレンティーナ様の依頼ね。協力には惜しみなくと言われているわ。――診療所に運び込まれるようになったのは二週間前。それからかなりの数が運ばれてきて、ウチではもう抱えきれなくなっている。病床数が限られているからね、全部を傀儡に充てるわけにはいかないのよ」
二週間前となると俺が教祖の顔を確かめに行った時期と一致はするが、流石に関係はない――はずだ。
「運び込まれる人間は性別的にどちらが多い? 年齢は?」
「性別は若干男性の方が多いとは思うけど、大した差ではないわ。年齢層も同じで、子どもから老人まで、多くの人が運ばれてくる。特にどの層が多いとかはないわね」
性別も年齢もバラバラ。となるとやはり疫病ではなさそうだ。病気だった場合は、性別はともかく年齢層によって重症度が変わってくるはずだし、それが関係ないとなると、やはり病気の線は薄い。
「そうか……。じゃあ搬送されてくる奴の社会階層は?」
そのように尋ねると、彼女はうーんと唸るような姿勢を取った。
「そうね……まぁ外周区の診療所だから、スラム出身者が多いわね。たまに富裕層の方も来るけど、そういう人は結局中央に行っちゃうから」
外周区はスラムの占める割合が広く、貧困層が厚い。富裕層もいないわけではないが、基本的にはノクターンの中央都市へ行ってしまうので数は少ない、それに外周区で医療措置を受けるより中央の病院へ行った方が確実であるため、富裕層は転院をする場合が多かった。
たまに富裕層が来ることもあるようだが、基本的にはスラム街の連中が奇病の対象となっているようだ。まぁこれだけでは判別のしようもないが、スラムの人々が多く罹っているという点は参考になるかもしれない。
「わかった。済まない、時間を取らせた」
礼を言って軽く頭を下げると、彼女はにこやかな笑みを浮かべた。
「ううん。たまには診療所に来ても良いのよ? 手厚く看病してあげるわ」
「それは俺に怪我か病気をして来いということか?」
冗談に冗談で返すと、彼女は軽く笑った。
「いいえ。またあなたがここに来ないことを願っているわ」
俺は目礼して、看護師の女性から離れた。とにかく、この奇病を患った連中の多くがスラム街出身ということだけはわかった。これがヒント足りえるかは今のところ不鮮明だが、一応スラム街に向かってみる必要があるだろう。俺は考えを纏めると、取り敢えず件のスラム街へ向かってみることにした。
旧東京外周区、その南部。連合同盟の秩序も及ばない深い汚泥の中にあるその場所は、巷でスラム街と呼ばれていた。外周区の貧困層の殆どはこの場所で生活していて、このノクターンという国の中でも随一の無秩序さを誇る地域。ある程度見識がない者が立ち入ればすぐにでも襲われてしまう危険な場所でもある。俺はそんな腐敗した土地を単独で訪れていた。
何でも屋は仕事柄こういった場所を訪れることも少なくなかったが、それでもある程度の常識がある連中ならば好き好んで訪れる場所ではないことは確かだ。このスラムには犯罪が満ち満ちていて、それを制御する法もない。過去に連合同盟がこの土地に施政を行おうと踏み込んだこともあったが、それは悉く失敗に終わった。それほどまでにこの土地は腐敗に満ちていて、堕落の楽園とも評すべき場所だったのだ。
スラム街に入って、すぐに鼻を突く臭気を知覚する。これはこの場所に溜まった汚泥の香りであり、溶けた人の匂いだ。濃すぎる生活感は人の感覚を摩耗させて、不快感を抱かせる。あまりにも不衛生な環境における匂いは、人を麻痺させる魔力を有しているようだ。
さて、こんな場所に長居したくもないので、早々に仕事を済ませる必要がある。この手の仕事の基本は聞き込みだ。ある程度の手法さえ知っていれば、スラム街での聞き込みで困ることはない。俺は周囲を見回すと、手頃な中年の男に声をかけた。
「聞きたいことがある。この辺りで新しいドラッグが流行っていないか?」
声をかけると、地面に座り俯いていた男が緩慢な動作で顔を上げる。その目はどうしても虚ろで、自意識がしっかり存在しているのか疑問を抱かせた。
何も答えない男に、俺は軽く小銭を投げる。もちろん周りには見えないように。すると男がいきなり生気を取り戻して、気味の悪い笑みを浮かべた。
「……ドラッグなんて流行り廃るもの、いちいち覚えていられないね」
金を受け取ってこれだと、渡しただけ無駄になってしまう。そう思った俺は、何の憐憫を抱くこともなくヒップホルスターからPPKを抜き去って、男に向けた。
すると流石に殺されるのは心外なのか、男は焦ったように身じろぎをした。しかしこの位置から回避は不可能なので、逃げようと動いた身体はそのまま凍り付いてしまう。
「給料分は働いてもらおう。――もう一度聞く。最近この辺りで新手のドラッグが流行っていないか?」
再度尋ねると、男は観念したようにうなだれて大きく息を吐いた。
「――ああ。結構効くドラッグが流行ってる。使ったら一発で逝く奴もいた。俺は怖くて使ってないがな。このスラムじゃ持ってる奴は多いはずだ」
「一発で逝くって言うのは?」
「意識がなくなるんだ。生きてはいるが、まるで死んだようだからな」
やはり、奇病の原因はドラッグだったらしい。この男の話とも整合性がある。十中八九このスラム街で流行っているドラッグに起因するものだと見て良いだろう。しかしそうなると、現物を仕入れておく必要がある。ドラッグの検体を手に入れれば、バレンティーナのところで調べられるはずだ。
俺はなおもPPKを油断なく男に向けながら、
「お前はさっき、“俺は怖くて使っていない”と言ったな。つまりそのドラッグを持っているのか?」
そう尋ねた。すると男はあからさまに慌て始める。俺はその様子を見て、どうしても呆れてしまう。
恐らく、使ってはいないものの使おうか迷っているのだろう。このスラム街において娯楽と言ったら麻薬くらいしかない。飢えを紛らわせる恰好の手段として用いられることもあった。使えば一発で植物人間状態に陥る可能性があるとわかっていながらも、スラムの人間はその誘惑を切り払うことができないのだ。
これ以上この男と関わるのも面倒に思えて、俺はPPKのトリガーに指をかけた。その瞬間、男は観念したかのように、ボロボロのポケットから小瓶を取り出す。
「こ、これだ……もう良いだろ。十分話した」
俺は男からドラッグの小瓶を受け取り、男から離れた。奇病の出どころの調査自体は完了した。スラム街は時間的にも危険度が増すし、とにかくこのシロップ剤をバレンティーナに見せる必要がある。
「ああ。助かった」
それだけ捨て台詞のように残して、俺はスラム街の入り口の方へ歩を進める。空は未だに暗く、今の時間帯が夕方だということを想起させなかった。
スラム街を出て、俺はすぐに連合同盟の集会所を訪れた。タイミングがおかしくなければ、バレンティーナは今執務室にいるはずだ。
俺は受付嬢にバレンティーナの居場所を尋ねる。予想通り、彼女は今現在執務室で作業中のようだった。俺は特例でアポイントメントが必要ないので、そのまま執務室へ向かう。
階段を上がり、執務室の前までやってくる。ノックをすると中から入れという声が聞こえたので、俺はそのままドアを開けた。
いつもみたく紫煙がこちらを出迎えたが、俺は無視してバレンティーナの方へ歩み寄る。彼女は奥の執務席に座って、書類の処理を行っていた。
「どうした? 何か掴めたか?」
書類から目を離さずにそう告げるバレンティーナの前に、俺は先ほど入手した薬包紙を取り出した。
バレンティーナは書類から顔を上げて、俺の持つ小瓶をまじまじと見つめている。
「これは――ドラッグか?」
その言葉に、俺はゆっくりと頷き返した。
「これがスラム街で流行っているらしい。副作用を聞いたところ、診療所に運び込まれてきた奴らの特徴と一致した。十中八九、このドラッグが黒だと見て良いだろう」
そう告げると、バレンティーナは感心したように何度も頷いた。
「流石だシリウス。こんな短期間で情報を掴んでこようとは……やはりお前に頼んで正解だったな」
「買いかぶり過ぎだ。スラムの連中なら基本的に誰でも持っているらしいし、連合同盟に情報が入るのも時間の問題だったろう」
俺の言葉を受けて、バレンティーナは小瓶を蓋を開けて、そのままその匂いを嗅いだ。
「――ふむ。今まで普及しているのとは異なるタイプのドラッグらしい。色も黒いのは珍しい。初めて見た」
「今まで普及していたものとは違うと?」
「ああ。この手のドラッグは基本的に系統分けがさせるものだが、これは見たことがない。別種のドラッグだ」
確かに、副作用として植物人間状態に陥るドラッグは聞いたことがない。黒いシロップ剤という点もレアだし、やはり普通のドラッグとは毛色が違うようだ。
そこまで考えていると、バレンティーナが椅子に深く沈み込み、大きく息を吐いた。
「……シリウス。もう一つ依頼しても良いか?」
その言葉に、俺は軽く肩を竦める。
「内容によるな」
「はは。お前らしい」
まぁバレンティーナから何を頼まれるかは大体の予想がついていたが、一応言わずに耳を傾けることにする。
「このドラッグの出どころを探って欲しい。新しい系統のドラッグとなると、こちらとしてもノウハウがないからな。早いうちに製造元を洗っておきたい。頼めるか」
バレンティーナの言葉を聞いて、俺はわざとらしい溜息を吐いた。
「言われると思った」
「暫定政府がどこまで掴んでいるかわからない。しかし連中が動いているということは、何か裏があるはずだ。頼む」
バレンティーナは沈むような目礼をこちらに寄越す。その姿に、俺は相変わらずだなと少しだけ呆れてしまう。彼女としても、自分たちが治める外周区で新種のドラッグを流行らせたくないのだろう。しかしそもそもそこまで頼み込まれてしまっては、断るに断れない。
「わかってる。上手くいくかはわからないが、やってみる」
「――助かるよ。だが、危険なら帰ってこい。お前は何物にも代えがたい」
俺は頷いて、踵を返した。今日は一度帰って、明日出直そう。そう思った俺は、廃教会でマリィが火事を起こしていないことを祈りながら、執務室を後にした。