第三部 2 新たなる任務
執務室のドアを開けると、やはり紫煙が溢れ出してきた。俺はその煙に顔をしかめつつも、執務室の中へ入っていく。
バレンティーナは休憩中だったのか、向かう合う形で設置されたソファの片側に腰掛け、葉巻に唇を付けていた。こんなに煙が充満しているということは、随分長い間吸っていたらしい。
「少しは身体に気を配ったらどうだ?」
バレンティーナの寿命など知ったこっちゃないが、ギルドの長が急病に臥せってもらっても困る。彼女は優秀であるが故に、今の連合同盟にはなくてはならない存在なのだ。ノクターンの外の国では、一人の英雄が作り上げた国はその英雄が亡くなると滅びるというジンクスがある。そのジンクスの原因はもちろん優秀な人材に頼り切ったからだが、それは今の連合同盟にも同じことが言える。本来であればバレンティーナ抜きでも組織の統制が取れることが望ましいのだが、ぽっと出の私設組織にそのような柔軟さを求められても困るか。
バレンティーナは紫煙を吐き出すと、こちらに笑顔を浮かべた。
「これでも毎日野菜は取っているんだがね。睡眠時間の話をされると耳に痛い。まぁシリウスが付き合ってくれたらよく眠れるかも知れんが」
どうやら煙草の話はしたくないらしい。まぁ自分でも吸い過ぎなのは自覚しているのだろう。それでもやめられないのは日ごろのストレスからか。組織の長というものになったことがないから想像するしかないが、俺だったらとっくのとうに組織を潰してしまっているだろう。人を率いるにはそれだけの素質やカリスマ性が必要であり、人に見せられない苦労もあるはずだ。俺の前だったらあまり気にしなくても良いのだが、義姉という手前カッコつけたくなるのかもしれない。
「俺は煙草の話をしているんだ。それと男なら選び放題だろう。俺以外でも良いはずだ」
バレンティーナの向かいに座りながら、そう答える。煙草を控えろという話をしているにも関わらず、彼女はなおも葉巻を吸い続けている。
「嫌とは言わないんだな。久しぶりにどうだ? お互い疲れているだろうし」
あからさまに話題を逸らすバレンティーナに呆れて、俺は肩を竦める。
「前も言ったが女は結構だ。今はガキのお守りで忙しいんでな」
そう返すと、バレンティーナは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ガキと言っても、そこまで子どもでもなかろう。十五、六はあるんじゃないか?」
「言葉の綾だ。俺からしたら子どもってだけさ」
バレンティーナは薄く笑うと、葉巻を揉み消してケースに戻した。
「それで、用はなんだ? 受付嬢に執務室へ寄れって言われたんだが」
尋ねると、バレンティーナは足と手指を組んだ。
「ああ。また一つ依頼がしたくてね。これまた少し重要度の高い任務なんだ。詳しい話は場所を変えてしたい。構わないか?」
「場所を変えるのは構わないが、ここじゃなくて良いのか? 聞かれたくない話もあるだろう?」
これまで重要度の高い任務は機密性が高く、間諜の類が入りにくいバレンティーナの執務室で行ってきた。場所を変えるのは問題ないが、何か特別な意味があるのだろうか。
疑問が顔に出ていたのか、バレンティーナは小さく頷いた。
「今回は極秘任務ではない。それに直接見てもらった方が早いと思うしね。とにかくついてきてくれ。そこまで時間はかからない」
そう言うとバレンティーナは立ち上がって、一人出入口の扉の方へ向かう。俺もそれに倣って立ち上がって、彼女の後を追った。
執務室を出た俺たちは、そのまま階段を下りて集会所まで出た。バレンティーナを伴っていたから、集会所に入った瞬間そこら中の何でも屋や職員から頭を下げられる始末。別に問題はないのだが、毎日このように頭を下げられても中々辟易しそうだと思う。こういう時に面倒臭いという感じを出さずに応対することも組織の頭に求められる資質の一つだろう。その面で言うと、やはりバレンティーナは組織の長として優秀な人物だと言えた。
俺とバレンティーナは集会所を出て、西へ向かった。市場がある方向とはまた反対側で、どちらかというと住宅地が続いている場所だ。住宅と言っても旧世界の遺物をそのまま流用している家も多く、お世辞にも綺麗な街並みだとは言えない。今すぐにでも崩れ落ちそうな住宅に暮らしているのはボロボロの廃教会で暮らす自分にも身に覚えがあるが、中々最初は寝付けなくて辛いものがある。バレンティーナに拾われる前は野宿が基本だったから、天井の圧迫感と、すぐにでも天井が落ちてくるという恐怖があったのだ。今となっては仕方のないことだと割り切れるが、一度くらいは新築で暮らしてみたいものだ。
バレンティーナの横顔を覗き込む。彼女は唇を真一文字に結んでいて、何か言葉を紡ぐといったことはない。これから訪れる場所について詳しく聞いていなかったが、結局どこへ行くのだろう。しかしバレンティーナがいくら狂犬と呼ばれ恐れられているとは言え、警備もなしに歩くのはどうかと思う。
「良かったのか、警備はなくて」
そう尋ねると、バレンティーナは思い出したように顔を少し上げて、こちらに微笑みかけた。
「失念していた。まぁ、きっとシリウスがいるから安心しきっていたんだろう。狂犬と山犬がいれば、熊でも襲ってこないさ」
まぁ俺は用心棒としてもある程度は使える人間であるはずだが、一人だけというのも心許ない。そもそもバレンティーナに警備がいるかと言われたらそれはそれで疑問だが。
「さて、そろそろ着くぞ」
バレンティーナが顎で道の先を指した。その方向を見やると、そこには街中で数少ない診療所があった。この辺りで怪我や病気をしたら基本的にここを訪れることになる。俺も何度か世話になったことがあった。
「診療所に? これはまた予想外だな」
軽く独り言ちると、バレンティーナが呆れたように肩を竦めた。
「ま、あまりいい話ではない。覚悟しておけ」
そう言うと、バレンティーナは診療所の方へ歩いていった。
診療所に入ると、独特の臭気が鼻を掠めた。こういう場所特有の匂い。負の香り、とでも言うのだろうか。あまり診療所を好きになれない理由がこれだ。自分の経験だが、人間の五感の内嗅覚が一番過去の思い出を再現できる気がする。匂いによって嫌な記憶を思い出すから、きっと俺は診療所が苦手なのだろう。
俺が診療所の臭いに顔をしかめていると、バレンティーナは無言で受付に顔を出した。この診療所は連合同盟の息がかかっている施設だから、彼女の顔を見ただけで受付の看護師は頭を下げた。バレンティーナは看護師に何事かを告げて、こちらに戻って来る。
「すぐに呼ばれるだろう。ちょっと待ってくれ」
「診察に来たのか?」
冗談めかしてそう告げると、バレンティーナも薄く笑った。
「まさか。昔みたく二人そろって怪我したわけじゃあるまいし」
連合同盟が発足する前、俺とバレンティーナは日銭を稼ぐために私人の依頼人からの依頼を受けていたことがあった。それはもう危険なものが多く、師弟揃って怪我をすることもあった。診療所は高いからと自分たちで治療を行っていたのだが、どうしても診療所を頼らなくてはいけないときもあるわけで。きっとバレンティーナはそんな昔を思い出して笑ったのだろう。
そんな風に少し和やかな雰囲気が流れたが、すぐに受付の奥から医者らしき男が現れて、俺たちのことを呼んだ。待つまでもなかったらしい。俺とバレンティーナは頷き合って、こちらを呼ぶ医師の男の元へ歩み寄った。
「ご足労をおかけして恐縮です、ギルドマスター」
「ご苦労だった。案内してくれ」
短く告げたバレンティーナに医師の男は頷いて、奥の方へ手招きする。どうやら診療室ではなく、奥の病床棟の方へ行くらしい。俺は先を行く二人の後を追う。
少し歩くと、すぐに病床棟へ到着した。ここはいわゆる入院を行っている患者が暮らすブロックで、この辺りで入院できるのはこの診療所くらいだった。病床数は少ないが、それでもないよりかはマシだろう。
病床棟の内部を歩いて、医師の男はある部屋の前で立ち止まった。彼はバレンティーナに礼をして、そのまま診療棟の方へ戻っていく。どうやらここから先は俺たちだけの秘密らしい。
バレンティーナに顔を向けると、彼女は無言で病室の中へ入っていった。俺もそれに続いて入っていく。病室は四人部屋のようで、各病床に一人ずつ患者が寝込んでいた。しかし疑問に思うことは、その四人誰もが眠っていることだ。今は昼であるわけだし、一人くらい起きていても良いと思うのだが。
「気付いたか」
バレンティーナの方を向く。彼女は病室の壁に背中を付けて溜息を吐いていた。
「これは?」
俺は病室内を見回しながら彼女に尋ねた。
「――ちょうどガブリエルの依頼を終えた頃の話だ。ギルドに妙な話が舞い込んでね。外周区内で、植物人間状態になる奴が頻発しているという話さ。それも恐ろしい勢いでね。こいつらは傀儡とか彷徨とか徘徊とか呼ばれている。この状態に陥る原因は不明。だけど伝染病のように外周区に広まってる。このままだとかなり危険だろう。植物人間になった奴を戻す方法も不明なままでね。見た限り寝ているだけだが、医師によるとバイタルは悪化の一途を辿っているらしい。死ぬのは時間の問題だ」
俺は寝込んでいる患者たちをもう一度見回した。確かに息はしているようだし、傍から見た限り眠っているようにしか思えない。俺が廃教会でくすぶっている間、こんなよくわからない事件が広まっていたとは。
「流行り病の類か?」
そう尋ねてみたが、バレンティーナは首を横に振った。
「いや、その可能性は低いらしい。診察に当たった医師や看護師がおかしくなった例がないんでね。何らかの外的要因が関わっていると考えるのが筋だろう」
そうなると考えられるのはドラッグの類だが、恐らくこの事件が広まって間もないから調査も進んでいないのだろう。そこを含めて、俺に依頼をしたいというわけか。
「今回の任務は、この奇病とも言える状態の原因を探ることだ。頼めるか?」
もちろん依頼を受けることはやぶさかではないが、一つ引っかかることがあった。それはこのような任務であれば俺以外でも遂行可能に思えたからで、どうして俺に依頼するのかが不鮮明であったのだ。
「構わないが、どうして俺なんだ? 俺じゃなくても大丈夫だと思うが」
そう言うと、バレンティーナは病室の壁から身体を起こして、こちらに寄ってきた。そして彼女はこちらの耳元に顔を近づける。
「この奇病について、暫定政府の連中も調査しているらしい。どうやら、何か裏がありそうだ。だからシリウスに頼んだ。やられっぱなしでは悔しいだろう?」
暫定政府。その名前が出てきて、俺は軽く息を吐いた。またガブリエルが関わっているのか。そうなると、やはり機密性の高い情報が得られる場合も考えられる。確かにバレンティーナが俺に依頼したがるわけだ。
「わかった。その依頼受けよう。――少しはやり返さないとな」
頷き返すと、バレンティーナは笑顔を浮かべて、こちらの方を軽く叩いてくれる。そんな彼女に歪な笑顔を返しながら、俺は今度こそ暫定政府に借りを返して、少しは有益な情報を入手してやると意気込んでいた。