第二部 5 潜入、ミハイル教会
真夜中、と言ってもこのノクターンではいついかなる時も夜中なのだが。
時刻的には午前零時を回ろうというところ。俺は普段とは異なり黒ずくめの衣装をまとって、一人巨大な聖堂の脇に佇んでいた。顔をゆっくりと持ち上げると、その施設の大きさが垣間見える。ミハイル教会の大聖堂は、過去の遺物を改装したものではない。れっきとした現世の建築物であり、ミハイル教会の規模を象徴するものの一つだ。旧東京外周区の外れに位置するこの建物は、やはり外周区の面子を多く吸収している。ノクターン国内のミハイル教会構成員の多くは外周区出身だと言うし、この場所に大聖堂が建っているのも何らおかしいことではないのだろう。
小さく息を吐いて、もう一度大聖堂を見上げる。今回の作戦では単独でこの建物に侵入して、中で寝ているであろう教主の顔を確認する。写真を撮ってくるでもなく、“確認してくる”という部分に一種の不安要素があった。どうしてガブリエルがこんな依頼をしたのか。俺たちに報復するためならもっとマシな任務内容にするだろう。だからこそ、この作戦の不透明さが増す。どちらにせよ注意して進むほかないが、今回は短期決戦で行きたい。
一人決意して、俺は聖堂の脇から歩き出した。正攻法はもちろん悪手だ。こういう作戦の場合は絡め手を使った方が安全だし確実である。施設内をバカみたいにうろつくくらいだったら、先に目標の位置を知っておく方が楽でもあった。だから俺は、手っ取り早く誰かに“尋ねる”ことにする。
聖堂の脇から顔を出すと、ちょうど一人で警備をしている教徒らしき男がいた。武装はAKだが、他に人がいなければ問題ないだろう。そもそもここは宗教団体の本拠地であり、連合同盟でもないから警備の量や質は言わずもがなだった。前提として誰かに侵入されることを想定していないのだろう。まぁこの外周区にミハイル教会に手を出そうなどという愚か者も数多くはないだろうし。
警備員の男を見据えると、俺は音を立てないように警戒しながら、彼の背後に寄った。この手の侵入方法には慣れているから、音を立てずに歩く方法も熟知している。過去に暗殺者として生計を立てていた過去があるからこそだが、今はあまり思い出したくないものだ。
歩き始めてすぐに男の背後に到着する。まだ気づかれてないようだ。まぁ樹木に身を隠しながら聖堂の脇まで寄って来たし、まさかすぐ背後から襲われるとも思わないだろう。俺は音もなく腰の鞘からナイフを取り出して、目の前の男を羽交い絞めにした。
首を絞めると同時に口を塞いでいたから、彼は応援を呼ぶことができない。俺は男の膝を足で打って封じ、ナイフを首に擦り付けた。
「状況はわかっているな? 俺が知りたいのは、教主とやらがどこにいるかということだ」
ナイフを押し当てながら尋ねる。男はどうやら怯えているようで、口をまごつかせていた。
あまり時間もかけられない。ナイフを握る手のひらに力を込めると、男にもそれが伝わったのか殺さないでくれと懇願し始めた。
「じゃあ答えろ。教主はどこにいる?」
「し、知らないんだ。俺は末端の警備員だし、教祖のことは幹部クラスの人間しか知らないと聞いている。ほ、本当だ、信じてくれ」
俺は彼の言葉を聞いて、脳内で情報を整理していた。幹部級の人間しか教祖の居場所を知らない。しかしガブリエルは大聖堂に教祖がいることを知っていた。それはミハイル教会に潜入させた間諜からの情報かも知れないが、大聖堂にいるという情報が確かではないと俺に依頼など持ち掛けなかったはずだ。今回の作戦上、教祖が大聖堂にいるという情報は信じる他ない。暫定政府の間諜が教会内でどこまでの地位にいるかはわからないが、幹部クラスというのはあり得ないだろう。そもそも幹部に匹敵する地位にいれば、もっと詳細な情報を寄越してきたはずだ。まぁガブリエルが出し渋っている可能性もあったが、本当に作戦を成功させたい気があるなら、もう少し情報は寄越すだろう。つまり教祖の居場所は幹部クラスでなくても知っているから、男の情報には嘘が混じっている。
「そうか。わかった。じゃあお前は必要ないな」
俺は諦めたようにそう告げると、ナイフに力を込めた。
「ち、違うんだ。本当なんだって。嘘じゃない」
「お前が嘘を吐いているのがわかったから殺そうってんだ。自業自得だ」
「ま、待ってくれ。本当のことを話すから、殺さないでくれ」
一度嘘を吐いた人間は、嘘を吐くことに抵抗感がなくなる。この男に時間をかけていられなかった俺は無視して殺そうかと思ったが、一応聞いておくことにした。
作戦中の殺人は最小限にしたい。ガブリエルが連合同盟に依頼を寄越したのは、万が一作戦がミハイル教会側に露見した場合、暫定政府は関わっていないと言い張りたいからだろう。そうなると作戦の概要が発覚した場合、連合政府、いやバレンティーナに危害が及ぶ。今のミハイル教会の勢力的に、目を付けられたら厄介だ。そう言うこともあって、誰が侵入したのかという情報をあまり相手に与えたくない。たくさん殺せばそれだけ相手に情報を寄越してしまうことになるので、それは避けたかった。
「きょ、教主は大聖堂にいるとき、基本的には最上階の自室からは出ないらしい。俺も聞いた話だから真偽はわからないが、俺が持っている情報はこれだけだ。だから頼む。殺さないで――」
そこまで言って、俺は男の首を折り曲げた。自分に辿り着く可能性がある情報は先に遮断しておく必要がある。残酷かもしれないが、この世界は優しくも甘くもない。最初から殺すつもりだったし、今日この時間にこの場所で警備をしていたのが運の尽きだ。
男から手を離すと、彼は自然落下の法則に従いそのまま地面に倒れ込む。このまま放置すれば早い段階で誰かに発見されてしまう可能性もあったので、俺は男の亡骸とAKを引きずって大聖堂の脇にある草むらに放り込んだ。こうしておけばしばらく発見されずに済むだろう。
俺は男の遺体から離れて、もう一度大聖堂を見上げる。荘厳な造りの聖堂の中で、最上階に当たる箇所を探す。見回すまでもなく、恐らく最上階であろう場所を発見することができた。今回の任務はさっさと済ませたいので、内部に侵入して進んでいくのは面倒だし、見つかる可能性も高い。最も確実性の高い方法を採ろう。
俺は聖堂の脇に隠れつつ、持ち込んだフック付きのロープを取り出した。これを使えば、内部を経由する手順を飛ばすことができる。俺はそのロープを持ち寄って、聖堂の上の方を見据えた。ゴシック調の建物は突起が多く、フックを掛けるには事欠かない。俺はロープを回転させて、そのまま聖堂の上部の方へ投げかける。すると失敗することなく一発で突起に掛けることに成功した。体重をかけつつそのロープを引いてみるが、途中で外れたりすることはなさそうだ。一人頷くと、そのロープを伝ってゆっくりと聖堂の壁を登っていく。途中誰かに発見されてしまうことが何よりもネックだったが、一応ロープの先に到着するまでに見つかるようなことはなかった。突起の先に到着して、辺りを見回す。窓らしきものがあるが、もう少し上部に行った方が後々楽だろう。俺は引っ掛けたロープを外して、もう一度上に向かって投げた。すると先ほどよりから近場に投げればよかったので、前より簡単に引っ掛けることができる。これを繰り返せば大聖堂の最上階に辿り着けるだろう。俺はゆっくり息を吐くと、ロープを握る手に力を込めた。
しばらくその手順を繰り返すと、まもなく最上階に当たる階層まで到着する。ロープから手を離して、飾りであろう突起に体重を乗せた。そして辺りを見回してみるが、ちょうど良いところに開け放たれた窓を発見する。ここ以外に潜入口はないだろう。一人頷くと、俺はゆっくりと建物の出っ張りを利用してその窓に近づいていく。
窓に到達して、俺は中を覗き込んだ。どうやら内部は何かの部屋になっているようで、意外と豪勢な装飾が施されているため、貴賓室かそれに類する部屋なのだろう。
内部に人影はなかったため、俺はすぐさま部屋に侵入した。この部屋がどういった部屋なのかはわからないが、とにかく調べた方が良いだろう。部屋に潜入して、俺はすぐ目の前にあった机の上を確認した。そこには紙媒体の資料が大量に放置されている。もう一度誰も来ないことを確認して、俺はその資料に目を通した。
『今後の祝福投与量について』
一番上の資料にはそう書かれていて、その一番下には署名欄があり、そこにはミハイルと達筆な字で書かれていた。
ミハイル教会の教主は、みな顔を見せないという以外にも一つの共通点がある。それは代々の教主がミハイルの名を襲名しているということであった。つまりミハイルの署名があるということは、この部屋は教主の部屋だということだ。
思いがけない幸運に鳥肌が立つ。この部屋が教主の部屋だとすると、工程をいくつか飛ばすことができる。そんなことを考えていると、ふと部屋の奥の方から水を音が聞こえていることに気が付く。
水の音。しかし料理の類ではない。耳を澄ませてみると、それが聞き覚えのあるものだということに気が付く。それは恐らく行水の音で、教主ともなれば個人で浴室を所有していても不思議ではない。俺たち庶民は連合同盟が運営する共同浴場に月一回入れるだけで、それ以外は濡れタオルで身体を拭いたり、少しの水で頭を洗うしかないのだ。
この部屋で浴室に入れるのは教主本人しかいない。そう踏んだ俺は、逸る気持ちを押さえながら、ゆっくりと水の音が聞こえる方へ歩みを進めていった。大部屋から繋がる扉の奥から、行水らしき音が聞こえる。俺は気付かれないように慎重にそのドアを開いて、素早く内部を確認した。そこはどうやら脱衣所のようで、教主本人はいない。
そのまま視線を移動させると、カーテンに仕切られた浴室が見て取れた。暖色のランプが置かれていて、否応なくこちらの眠気を誘ってくる。このまま奴に勘付かれずに顔を確認するには、どうしたら良いだろうか。そんなことを考えていると、ある違和感に気が付いた。
こちらからは、ランプのお陰でカーテンの向こうにいる教祖の姿が影となって見て取れる。しかし教祖の身体は男性のものだということはわかったが、何か普通の人間のフォルムとは異なっていた。
恐らく、背中側。普通なら平らになっている肩甲骨のところから、何かが突き出ていた。一瞬何かの見間違えかと思ったが、教祖の身体の動きに合わせて移動していることから、彼の身体に付いているものだということがわかる。なんだ、あれは。それは呼吸を行っているかのように広がったり、閉じたりしている。そう、それはまるで――
その時、ランプが揺らめいた。それと同時にカーテンの向こうにいる男がこちらの方向を向く。
「――誰だ」
その声に、背筋が凍る。ここで声を上げてしまえば、自分が部外者だということがバレてしまう。この状況で採れる道は一つだけだった。
俺は脱衣所からすぐさま脱出し、侵入してきた窓から外に出た。そのまま窓の縁にロープを引っかけ、そのまま勢いよく下っていく。
「侵入者だ――」
その声を聞きながらも、既に俺は教祖の部屋から脱出していた。しかし聖堂を下っている最中、胸に靄を抱かせる思考が蔓延っていた。
教祖の背中。あれは一体何だったんだ。それに今となっては不思議なガブリエルの依頼。教祖の“顔”を見てくるという任務。俺は地面に着地してロープを回収しながらそんなことを考えていた。この作戦が、どうも仕組まれたものであるような気がしてたまらない。そして俺自身が、何か重大なことに巻き込まれている気がしたのだ。
とりとめのない思考が脳を掠めながらも、俺は聖堂から距離を取るため走り出した。結局、今考えても仕方がない。今は逃げることを優先しよう――
俺は背筋を泡立たせる不吉な予感を知覚しながらも、俺は大聖堂が段々と離れていくのを遠く見つめていた。