第9話 平和な時もある研究室
夏が過ぎた。
秋を迎えて紅葉を映し出す琵琶湖に、トンボが小さな漣をつくる。背中を覆う伊吹山地は、点々と朱色の斑点を身にまとい始めていた。
病院には、大きな事件も起きず、普段と何も変わらない。
ある平穏な秋の日の昼下がり。
私は、ひと段落した実験の合間に、居室でコーヒーブレイクを楽しんでいた。
「そういえば、事務の石山さんとお付き合いされているんですってね」
声の主は、田中ひな。佐々木研究室の秘書だ。佐々木研究室の財布の紐を握る女である。
「はい。でも、よく知っていますね」
つい先日から、私は、無事に石山かすみさんとお付き合いすることになったのだ。しかし、どうしてこれほどまでに情報が回るのが早いのであろうか。情報化社会とはいえ、早すぎはしないか?
「事務に書類を出しに行くたんびに聞くわよ。やっぱり、色恋沙汰の話は、どこでも人気があるのよ……。」
「まぁ。確かに。他に面白い話題もないですしねぇ……。」
言わんとすることは、わかる。ただ、当人の気持ちも少しは汲んでいただけたら幸いだ。
「そういや、篠原ともみが結婚をしたのを知っています? 付き合って数週間の電撃結婚らしいですよ」
女優の篠原ともみが結婚した話題である。今週一番のトピックスだ。
彼女のファンはシノラーと呼ばれ、数年前に一大ブレイクをした。奇抜な格好が彼女のアイデンティティなのだ。
そう、その彼女は、つい数週間前に、彼氏の存在が報道されていたが、今週は、結婚報道である。
「らしいですねぇ……。それにしても、早かったですねー」
と、私は同意する。
「じゃあ、篠原さんも、このまま見習っちゃったらどうですか?」
「いやいや、まだ早いです」
さすがに、これには同意はできない。先日やっと、彼女いない歴イコール年齢の群から抜けて、その対照群に分類されたばかりだ。結婚はまだ早い。いや、まだまだ早い。
「篠原さんも、シノラーなんですか?」
突拍子もない質問である。彼女の質問は、いつも、だいたいこんな感じだ。そして、私は、彼女の唐突な質問に、頑張って答えないといけないのだ。
私も篠原ともみのファンといえばファンではあるが、それほどコアなファンではない。
「私はもともと篠原という名前なので、シノラーです」
と、私は、やんわりと肯定する。
「あら、そうよね。篠原さんは、名前がシノラーだったわね。おほほ〜」
「それに、ファンというかなんというか。彼女と同じで、私の趣味も天体観測なんです」
「へぇー、そうなんですか」
「私。というか、星好きの間では、篠原ともみさんが星好きというのは有名な話ですよ」
「そうなんですかーぁ」
彼女は、なるほど、と、どうでもいい、が混じった相槌を打った。それほど興味がないのであろう。
「そういえば、最近、鈴木先生、大丈夫かしら?」
田中ひなさんは、自分のコップに口をつける。コーヒー派の私と違い、彼女は紅茶派だ。やはり、女性と言うのは紅茶好きなのであろうか。今度、石川かすみさんにも聞いてみよう。
「ああ、鈴木先生ですか、最近さらに忙しくなりましたからね……。」
第一症例目の、ブタ体内培養のヒト心臓のヒトへの心臓移植の対象の患者は、術後は良好であり、これに関しては、我々が関与する実験はほぼ無い。問題は、第二例目の胎児に対する治療プロジェクトだ。
先月、鈴木助教が細胞を作製し、ブタ胚に細胞移植をした。そして、無事に子ブタは生まれた。数回の検査を経て、状態の良さそうな2匹のブタが、飼育中である。鈴木助教は、この細胞作製、検査、解析のために多忙な日々を送っているのである。
私も少し手伝ったとはいえ、鈴木助教がほぼ一人で頑張っている。
「そう。鈴木先生は、いつも忙しそうにしているじゃないですか。まぁ、私は時間雇用ですので、決まった時間しかいられないんですけど。鈴木先生は、いつもいらっしゃるので……。」
「あぁ、そうなんですよね。あの人、いつ休んでいるのかもわからないです。私が、朝来たときには、いつもすでに実験始めていますし、でも、私よりも帰りが遅いし。たまに細胞の世話をしに土日に来ても、いつもいますよ……。」
「あら、やっぱりそうなんですか……。体を壊さないといいんですけどね……。」
「それに……、」と、彼女がポツリと呟き、話し始める。
「この間、佐々木教授と喧嘩していましたよ。データが汚いとか言われていました。教授室からの声が壁の向こうから聞こえるんですよ。もう、私、怖くて……。」
「ああ、そうなんですか。その席、教授室の声が聞こえるんですか?」
「たまにですよ。佐々木先生の怒鳴り声だけ、聞こえるんです……。」
「ああ、そうなんですか。ホラーですね……。その席座りたくないですね……。」
秘書の田中ひなさんの席は壁際であり、席のすぐ隣の壁の向こうは、教授室なのだ。
「でしょ? わかってくれます? ねぇ、篠原さん、よかったら席替えします。レッツ、席替えタ〜イム!」
彼女は、そう言って、右腕をあげる。
「いやいや、ちょっと待ってください。絶対しませんよ。絶対にっ!」
私は話題を戻す。ザ関西人のおちゃらけた雰囲気の田中さんとの会話はいつも脱線だらけだ。
「えーと、なんでしたっけ。データが汚いという話でしたっけ。私も鈴木先生、本人から聞きました」
データが汚いといっても、これは、ゲノムDNAを検査するためのサザンブロット法の限界だ。
ラジオアイソトープを使えた昔は、バックグラウンドもなかったらしい。といっても、私が実験を始めた頃には、ラジオアイソトープはすでに禁止されていた。そう、私はそれを一度も使ったことがないのだ。
ラジオアイソトープは、2023年に起きた大きな汚染事故で世間の大きな非難を浴びた。そして、全国の研究所で自主的にラジオアイソトープ実験室が閉鎖され、それに追い打ちをかけるように、5年前に法律で禁止されたのだ。
そして、2030年の現在では、代替の技術が開発され、綺麗にデータが取れるようにはなった。しかし、ラジオアイソトープほど綺麗なデータはでない。技術の限界があったのだ。
その技術的な問題を、一介の助教に言うのもどうかとも思う。
「あれは、鈴木先生のせいではないですよ」
本心である。私は、鈴木助教を影でかばうことしかできない。もちろん、これを佐々木教授に直接言うことなど無理な話だ。たとえ、この時代に『目安箱』が設置されて、教授への意見が言える環境があったとしても、無理である。ポスドクとはそういうものなのだ。
「ですよね……。なんか最近、佐々木先生は、ピリピリしてばかりで。何に対しても難癖つけて怒鳴ってくるので、八つ当たりじゃないのかなぁって思います。それも本当に怖いです」
佐々木教授が不機嫌なのは、第二例目の胎児に対する治療プロジェクトへの不満であろう。先日、ドナー用のブタの飼育が開始されたのであるが、教授がしていた開始時期よりも遅かったようだ。私は、実験にかかる日数から考えると、妥当な時期だと思う。しかし、佐々木教授には遅いと感じられたのであろう。
私は手伝いをしているだけという立場上、佐々木教授からは、小言を言われただけであった。しかし、実験を中心的に進めている鈴木助教が、一体どれほどの文句を言われたかは、推して知るべしだ。
その苛立ちに加えて、研究費の申請シーズンだからということも、彼の苛立ちを加速している原因の1つであろう。
今は、国から交付される研究費の申し込みシーズンである。日本にいるほぼ全ての研究者が一斉に、それに申請するのだ。
この研究費に採択されなければ、どんなに大きな研究室であったとしても、研究室閉鎖に追い込まれる。そう、お金がなければ、人も雇えないし、実験もできない。研究者にとっての重要な財源が研究費なのだ。
その申請書にかかるストレスは、想像に難くない。
ストレスがあるからと言って、部下を怒鳴りつけることには何の正当性もない。私は佐々木教授に全く同意はできない。
もちろん、私を含め、研究員の全員が忙しくなる時期でもあるのだ。
特に、鈴木助教は、申請書もあり、実験もあり、常に忙しそうにしている。
働きすぎて心が疲れているように見える。そんな鈴木助教の姿を見ると心が騒ぐ。
他人も心配だが、私自身も研究費が獲れるかどうかで来年の研究計画がガラリと変わる。
かく言う私も、ストレスは溜まっている。