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第8話 長浜いいとこ一度はおいで

 古くは羽柴秀吉が『今浜』から改名したとされる地名が、『長浜』である。

 長浜は、米原駅から北へたったの3駅。



 基本的には、我々が所属する佐々木研究室には、夏休みは存在しない。

 世間には、夏休みという名の連休が存在している。しかし、我々は、細胞とブタの世話のために、連続した休暇は取れない。

 重要なことなので、もう一度言っておく。佐々木研究室に、夏休みは存在しない。休暇もほぼない。


 そんな状況の中、私は、鈴木助教に細胞の世話をお願いして、久しぶりの休日を得た。

 そして石山かすみさんとデートである。2人で長浜旅行だ。




 我々が訪れたのは、ガラス館である。

 ガラス細工の展示と販売の専門店だ。2030年の現在でも、依然として、長浜の有名観光地の一つであった。


 館内に、所狭しと並べられた多数のガラス細工は、キラリと輝いている。宝石ほどの輝きはないが、窓から差し込む光に照らされた数千個のガラス細工が、館全体で一つの巨大な万華鏡を形成していた。



「あら、変態さんじゃない?」


「どちら様ですか?」

 不穏な呼びかけに、振り向いた私の目の前には、1人の女性店員がいた。

 どこか見覚えのある女性だ。

 そう、四月に電車で会った彼女である。私を桃源郷に誘い込んだ女性だ。


「あっ、あの桃源郷の人……。」

 とっさに出た言葉は、やはり、取り消せない。


「桃源郷の人? やっぱり、あなたは私をそういう目で見ていたんですね。やっぱり変態ですねっ」

 その桃源郷のお姉さんは、私に向かって目を細めた。


「ごめんなさい。そんなつもりはないんです」

 またしても、私には謝ることしかできない。彼女には、出会った時から謝ってばかりいる。


「あのぉ。そちらの方はどなたですか?」

 私の後ろから、石山かすみさんが覗き込んだ。


 いや、なんと説明したらいいものか。


「ただ、電車の中で会った女性です」

 そう、端的に説明するなら、それ以上でも、それ以下でもない。



「あら、彼女さん?」

その桃源郷のお姉さんは私に問いかける。


「いや、違います」


「あら、そうなの。へぇー」

 桃源郷のお姉さんは、石山かすみさんを品定めするようにジロジロと見た。


「可愛い子じゃないの。狙っているんでしょ?」


「まぁ……、そんなところです……。」

 桃源郷のお姉さんと私は、2人でこそこそ話しをした。すると、石山かすみさんが、我々2人の会話に入ってくる。


「篠原さん。この方と、何かあったんですか?」


「いや、何もないよ。電車の中で会っただけです」

 私は、すぐに大きく首を振った。


「うそうそ、この人ね、私のスカートの中覗こうとしたのよ、寝ているふりして」


「信じられないです。篠原さん、そんなことしていたんですか」

 石山かすみさんの侮蔑したような目が、私の心臓にぐさりと刃物を突き刺す。

「してないよ」と、私は断固否定した。


「うそうそ。さっきもね、私のことを『桃源郷の人』って呼んだのよ。きっと、私のパンツを見て、やらしいことを想像していたに違いないわ」


「いやいや。していませんよ。パンツも見ていないです。もう少しのところで見えなかったんですよっ!」


「ちょっと。やっぱり見ようとしていたんじゃないの? やっぱり、変態じゃない」


「いや、違います」と、私は否定する。

 その言葉と同時に、ペチッ、と音が聞こえた。


 私の頬からである。石山かすみさんの右手が私の頬をかすめた音だ。


「変態……。」

 そう言い残すと、彼女は踵を返し、ガラス館の外へと向かって走り出した。


「あちゃあ〜。」

 桃源郷のお姉さんは、頭を抱えた。


 私の心は大きく乱され、現状を把握するのに、少しの時間が必要だった。

 2人が呆然としているうちに、石山かすみさんはガラス館から外に出ていってしまっていた。


「あぁ〜、ごめんなさい。ちょっとからかっただけなのに、ごめんなさい。彼女怒らせちゃった……。」


「だから、まだ、彼女じゃないんです……。」


「わかったわよ。でも、今のは私が悪かった。ごめん。私もすぐに追っかけるから。彼女をちゃんと捕まえといてっ!」


 桃源郷のお姉さんは、私の背中を、ドンと、押した。私も混乱状態の頭から、グイと現実に引き戻された。


 追いかけなきゃ。


 私は日頃、運動をしているわけではない。しかし、奴隷のように働かされている研究者は、基礎体力はあるのだ。なにぶん、ポスドクは、頭脳労働者の殻を被った肉体労働者であるから。

 私は走り出した。走る前からすでに心臓はドクドクしている。トップスピードまで、あっという間だ。



 ガラス館前の大通りはそれなり人が集まっており、観光地らしい賑わいを見せていた。しかし、遠くにいる彼女を簡単に発見できるほどには空いている。


 私は、石山かすみさんの元にすぐに追いつき、後ろから彼女の手を掴んだ。


「ごめんなさい。待ってください」


「なんで追いかけてきたんですか? あの人のスカートの中でも覗いてニヤニヤしてればいいじゃないですか?」

 彼女は、私の視線から顔を背けようと首を振り、私が掴んだ手を、払おうと、力を込めた。

 しかし、ここで手を離すわけにはいかない。私は、全力を込めて、彼女の手を握り、グイと、力を入れた。


そして、やっとこっちを向いた彼女に、言い放つ。


「いやっ! 私が見たいのは、あなたのスカートの中なんです!」


 はい。私はアホでございます。

 これが彼女のいない歴が(約)30年である理由でございます。


「は?」

 彼女は、口を半分開いていた。当然の反応だろう。


「こっ……。でもっ。こ。これも、嘘ではないです。私の勝手な気持ちなんですけど。石山さんのことを考えると、心ここにあらずなんです。だから。そのっ……。ずっと、あなたのことを考えています」

 私は、諦めモードとヤケクソモードが半々の状態だ。


「……。まぁ、スカートのくだりはとりあえずおいておくとします。で、その気持ちは本当なんですか?」

 石川かすみさんは、私の目をじっと見る。


「本当です。私は石山かすみさんのことが好きです。で……、その。付き合ってください」


 ついに言った。苦節(約)30年。この言葉を言う機会に巡り会えた。これだけで感無量である。私はやり遂げました。やり遂げましたよ。



「そう……。確か、篠原さんは、『心臓』を作らないといけないんですよね。『心』ここにあらずな状態では、ちゃんとした心臓を作れないでしょ。だから、仕方ないですね」


「じゃあ、いいんですか?」


「はい」

石川かすみさんは、コクリと頷いた。


「あと、本当に、スカートを覗こうとしたわけではなくて。その、不快にさせて、ごめんなさい」


「はい。大丈夫ですよ。謝る必要はないですよ。冗談だってわかっていましたし。篠原さんが追いかけてきてくれるか試しただけですし。こちらこそ、ビンタしちゃって、ごめんなさい」


「なんだ、よかった」

 私は、心の底から安堵した。そして、彼女を彼女とできたことに、心の底から歓喜した。




「あ、いた」

 遠くから、桃源郷のお姉さんが我々の姿を見つけ、小走りしてきた。


「ごめんなさい。冗談だったのよ、許してちょうだい。別に2人の邪魔をしたいわけじゃないから。本当にごめんなさい」


「大丈夫です!」

 私は、桃源郷のお姉さんに向けて大きく笑顔を見せた。


「そう……。うまくいったのね」


「雨降って地固まるです」


「そう。ほんと、ごめんね。彼女さんも」

 桃源郷のお姉さんは石山かすみさんの方に目をやる。


「いえ、大丈夫です。こちらこそ。ありがとうございます」

 彼女は、口元に笑みを浮かべた。


「本当に申し訳ないから、何かプレゼントするよ。私が代わりに払ってあげるから、うちで買っていってよ」



 我々は、再び黒壁ガラス館に戻った。



「確か、ブタとサルの研究をしているんだっけ? 動物系は人気があるからね。色々揃っているよ」


「ブタといっても、心臓移植用に飼っているだけですしね。どちらかというと、心臓培養の方が専門ですけど。臓器とかのガラス細工は置いていないんですか?」


「はは。あんた、本当変わっているわね。私が、あんたを変態って呼んでいるのも、あながち間違いじゃないでしょ?」


「そうですね」

 私と石山かすみさんは、2人揃って笑う。


「でも、ちゃんとあるのよ、ほら」

 桃源郷のお姉さんに案内された棚には、種々の小さなガラス細工が並べられていた。

 目玉、鼻、口から、肝臓、心臓、胃まで、見事にガラス細工で再現してある。


「意外に売れているわよ。世間にはあんたたちみたいに変な人がたくさんいるようね」



 我々は、自分たち用に、お揃いの心臓のガラス細工を買った。

 赤と青のペアになった心臓である。


 細胞の世話をお願いした鈴木助教へお土産を買っていくのが社会人としてのマナーかもしれない。ポスドクが社会人として認められているかどうかは知らないが。

 我々は、鈴木助教へのプレゼントも買った。かわいらしいブタのガラス細工だ。

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― 新着の感想 ―
[一言] >私が見たいのは、あなたのスカートの中なんです このセリフが大好きです (*´▽`*)
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