第7話 蛍
新幹線が通りすぎると、あたりは再び暗くなった。
広く開いた田園地帯に、一本の大きな川が流れている。時折通る新幹線の、高架から差し込む光だけが、2人の姿を照らしていた。
さて私は、石山かすみさんとデート中である。彼女と何回かデートをできるほどには仲良くなっている。
そして今日は、夏の風物詩の代表の1つを見にきていた。
蛍だ。
蛍は綺麗な川でしか見られない。その通りである。
ここ米原は、程よく都会、程よく田舎の町だ。街の中心から少し離れると、田園風景が広がっている。そして、田んぼの周りを流れる川辺では蛍が見られた。
ここ米原の夏の2大デートスポットが、花火と蛍である。
花火は、警察が出動するほどの賑わいを見せる。そのため、プロの市民は、各々絶好の観覧場所を持っており、遠くから優雅に花火を眺める。
我々は、プロではないため、花火を見に行くとすれば、人混みがごったがえす湖岸道路になる。そう、まだ行ってはいない。すごい人混みになる、という噂が、私に二の足を踏ませているのだ。
一方、蛍の観察は、夏の間ずっとできることから、花火ほど一度に人が集まることもなく、比較的ゆったりと観察できるのだ。
我々の視線の先で、蛍が尾をほのかに光らせた。
「きれいですね」
「きれいですねぇ」
私はもちろん、蛍に関する話題もする。しかし、形式的なものに過ぎない。
この話題は続かない。そう、私には、蛍に関して根掘り葉掘りと説明と会話を続けていくだけの会話の技術がない。
そして、研究者である私が次に出す話題は、もちろん、研究の話題である。
「この間の心臓移植はうまくいったらしいですよ。ブタがいなくなったからさみしくなったんですけど、移植手術がうまくいって患者さんが元気になるなら、ブタも嬉しいだろうなと思います」
私は、横に座っている石山かすみさんに、ちらりと目をやりながら、話始めた。
「そうですねぇ。ちなみに、ブタさんの心臓を移植された方の『心』はどうなるんですか?」
彼女は、好奇心旺盛な子どものような屈託のない顔で、私に質問を投げかけてくる。
なるほど、目の付け所がおもしろい質問だ。
「『心』は、変わらないですよ。おそらく」
「へぇ。そうなんですかぁ」と、彼女は感心した。
「『心』といっても、意識は頭の方にありますし」
私は続ける。
「それに、もともと、その心臓を作っている細胞は、患者さん本人の細胞なんです。つまり、心臓はもともと患者さん本人のものなんですよ」
「あっ、そうなんですかぁ。じゃあ、ブタさんから返してもらったってことですか?」
「そうですね。子どもの時に預けて、大きく育ててもらってから、返してもらった、ってことです」
「じゃあ、代わりに、ブタさんがその患者さんの心臓をもらったりはしないんですか?」
「しない……、ですね。ブタの心臓以外の部分は捨てちゃうと思います」
患者の古い心臓は、研究用の試料として利用される。しかし、ブタの心臓以外の残りの部分は、食べるわけにもいかない。ただ、ゴミとして捨てられるだけだ。
「ごみ箱にですか?」
「いやいや、そのままは捨てないですよ。おそらく、焼いてから捨てると思います」
私は、石山かすみさんの方を向きつつ、首を振る。
「あ、そうなんですかぁ。篠原さんと話していると勉強になります」
「そう言ってもらえるとありがたいです」
研究以外の面白い話ができたらよかっただろうとは思う。だが、私の口下手はなかなか治らない。魔法使いの一歩手前まで彼女いない歴を貫いた私の底力である。
しかし一方で、石山かすみさんに、先生ではなく、きちんと篠原さんと呼んでもらえるほどには成長したことを、改めて、ここで確認しておく。
蛍が一匹、相槌を打ったかのように光る。
「この臨床実験に加えて、新しく別の患者の治療も開始したんですよ。そのうち新しくブタを育てることになると思います。でも、今度の新しいプロジェクトの患者さんは、子どもなんですよ」
そう、また細胞を遺伝子修復して、人工誘導幹細胞を作って、そして、その細胞をブタに移植しないといけない。今回は、子どもが病気を発症するまでに準備する必要があるため、前回の臨床実験ほどには時間がない。急いで移植用のヒト心臓を準備する必要があるのだ。
「そうなんですかぁ。これって、この間の心臓移植とは何か違うんですか?」
「今度は、ブタを二匹も同時に育てるらしいですよ」
失敗のリスクを減らすためのバックアップだ。ブタを育てるのにかかる時間は数ヶ月である。もし万が一、移植用のヒト心臓の作製に失敗した時には、一から数ヶ月かけてやり直す必要がある。しかし、バックアップのドナーブタがいれば、かかる費用と、かかる手間が2倍になるものの、万が一の際のリスクが減るのだ。
「それは大変ですねぇ」
「そうですね」
私は、頷く。2倍に忙しくなるのは鈴木助教だけれど……。
鈴木助教が、胎児から採取した細胞を遺伝子修復し、その細胞をブタ胚に移植する。そして、そのブタを育てるのである。そう。私は、それのお手伝いをするのみだ。
「ちなみに、細胞と同じように、卵に直接ゲノム修復はできないんですか? 生まれてくる前に病気になるのがわかっているのなら、卵の時点で治療した方が早くないですか?」
「それができないんですよね」
そう、受精卵へのゲノム編集は法律で禁止されている。
10年程前は、ゲノム編集における遺伝子修復には、非特異的な遺伝子切断と、非特異的な遺伝子挿入が問題視されていた。この問題は、新型のゲノム編集タンパク質によって大幅に改善された。そして、2030年の現在では、ほぼ100%の効率で、遺伝子修復が可能であった。
しかし、受精卵へのゲノム編集と遺伝子修復には、別の問題を含む。
インフォームドコンセントと次世代へ伝播の問題だ。
「そうなんですかぁ。へぇ」
「一番大事なのは、患者本人の了承が得られないことなんです。インフォームドコンセントが大前提の現在では、患者の了承無しに治療は開始できないんですよ。今回の場合は、生まれてくる赤ちゃんの方が患者になります。ですから、胎児に説明もできないし了承も得られないということになるので、治療はできません」
「でも、今回の患者さんは、まだ子どもさんですよねぇ。子どもに対しても、了承は得られないんじゃないですかぁ?」
「うまいところをついてきますね。でも、受精卵へのゲノム編集はダメでも、胎児への心臓移植は認可されています。最悪、保護者の同意でも大丈夫ということなんでしょう。やっぱり、重要なのは、生殖細胞のゲノムに遺伝子編集をするかどうか、だと思いますよ」
どちらの遺伝子配列が正しいかなどと、人間には判断できない。遺伝子を修復したことで機能を取り戻した遺伝子が、本来の姿かどうかもわからない。人類は、人類のエゴに対して、これ以上踏み入らないように、人工的に編集したゲノムが次世代に受け継がれないようにしているのだ。おそらく。
これは、本当に難しい問題である。2030年の現在でも、議論は活発だ。
さて、難しい話を聞き、真剣に考え込む石山かすみさんの横顔は凛々しい。
その横顔に、私は、『心』を奪われる。
そういえば、ここのところ、彼女のことばかり考えていた。いや、彼女のことを考えすぎて、心ここに有らずとも言える。
しかし、私は、ただ彼女の横顔を見つめるだけだ。
「ちなみに、石山さんは、ヒトの治療のために、ブタを利用して、殺すことについてどう考えます?」
「う〜ん。難しいですねぇ。誰かが助かるために、誰かを犠牲にするって考えですよね。あんまり綺麗事ばかりでは生きていけない気がしますけど。でも、治った患者さんが、きちんと前を向いて誇らしく生きていってくれるのなら、命を引き継ぐ意味はあると思いますよ」
「なるほど。そうですね」
やはり、彼女の横顔は、凛々しい。
それから、我々は、蛍をしばらく無言で眺めていた。