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第6話 居酒屋『ぽんぽこ』

 病院と職員用の宿舎の間には、飲み屋街がある。


 一時期は閑散としていた飲み屋街ではあったが、総合病院の建設にともなって、活気を取り戻していた。

 我々が向かったのは、その内の居酒屋の一つ『ぽんぽこ』である。店頭に置いてある大きな信楽焼のたぬきがトレードマークである。



 移植用のドナーブタの検査が無事に終わり、臨床試験への利用が採択されたのだ。我々研究員にできることは検査までである。あとは、屠殺をして心臓を取り出す技術員の方と心臓移植を行うお医者さんに任せるだけだ。


 来週、あのブタを見送る。

 とは言っても、実際に見送るわけではない。我々の知らないうちに、ブタは、どこかへ運ばれ、どこかで屠殺されるのだ。そして、心臓は、患者に移植され、患者の中に生き続ける。しかし、あのブタと会う事は、もうない。



 我々は、自分たちの仕事を完了し、ささやかな打ち上げ飲み会をしているのだ。


 居酒屋『ぽんぽこ』の名物は、滋賀の地酒の日本酒『八本槍』と鮎料理である。

 夏に旬を迎える鮎は、塩焼きにするのが最高だ。鮎の塩焼きを『八本槍』でクイッとやる。これが滋賀県民の贅沢だ。もちろん、小鉢に出てくる小鮎の佃煮も忘れてはならない。



 飲み会のメンバーは、私と鈴木助教とポスドクの山口研究員の3人だった。


「とりあえず、お疲れ様!」


「お疲れ様です」

 私と山口研究員は、鈴木助教のお猪口に、自分たちのお猪口を当てた。



「今回のやつはさ、一回で無事に終わったからよかったけどさ。あれって、うまく作れなかった場合は、何度もやり直すんだよ」

 鈴木助教は、『八本槍』を口に運ぶ。


「どの段階からですか?」

 私も『八本槍』を口に運びつつ、鈴木助教に合わせる。


「場合によるね。遺伝子修復がうまくいっていなかったら、遺伝子修復からやり直す必要があるし、細胞が置き換わっていないだけだったら、胚移植(はいいしょく)からやり直し。もう一回、凍結細胞を起こし直して、培養して、胚に細胞を移植しないといけない。それに、ブタも胎児(たいじ)から育てないといけないし。結構大変だよ。いや、めちゃくちゃ大変だよ」


「そうですね。大変ですね。しかも、うまくいかなかった時って、それまでに検査のために取ったデータはどうなるんですか?」


「もちろん、使えないよ。論文にもできないし、発表にも使えない。まぁ、研究室会議には使えるかもしれないけど、教授の小言の火種になるだけだからね」


「いやぁ、それは嫌ですね……。」


「だろ。しかも、やり直しも全部、僕がやるんだよ。今回は篠原くんが少し手伝ってくれたから助かったけど。結局、何から何まで僕がやらなくちゃいけないんだよ。教授は文句しか言わないし」

 鈴木助教は、早速、酔いが回ってきたのであろうか、饒舌だ。



「教授は、お金をとってくるのが仕事らしいですからねぇ〜」

 佐々木教授はいつもお金を取るのが大変だと言っている。そして、大変だと言った後に、その大変なお金を取って来たことを自慢しているのだ。すごいですねと言って欲しいのであろう。部下に褒められることで自己顕示欲を満たしているに違いない。


「そうだよね。()()()は、いつもそう言っているよね。結局、僕が全部の作業をやっている。でも、教授が全部いいとこどりだよ。ブタで育てたヒト心臓の移植ができました、って発表する時に、誰の仕事だって世の中に発信されるか。佐々木教授のなし得た業績です、だよ。まぁ、僕の場合は、論文のファースト(筆頭著者)がもらえるだろうから、まだ頑張ろうかと思えるけど……。」

 鈴木助教は大きく息を吐く。よほど疲れが溜まっているのであろう。そして、鬱憤も溜まっているのであろう。



 我々、助教とポスドクは佐々木教授の研究費で雇われているただの研究員だ。

 我々が、日本を代表する画期的な仕事を成し得たとしても、それは教授の業績である。論文の筆頭著者、つまりファーストオーサーは、研究員の誰かがもらえる。この論文は将来の就職活動のために有効に機能するが、ただそれだけである。

 全ての栄誉も名誉も教授が根こそぎ持っていくのだ。それが教授だ。



「そうですよね。今回、私は手伝っただけなので、論文に名前さえ入れてもらえれば御の字なんですけど。」


「でも、ポスドクも大変でしょ。手伝ってばかりで」


「はい。そうですね、私には、一年しか期間がないですしね。正直ギリギリです。助教の鈴木さんがうらやましいですよ」


「いやいや。助教は一応3年契約だから、ポスドクよりはマシだけど……。実際は、そんなに変わらないよ。教授のいいなりになってセコセコ実験しているだけ! 奴隷みたいなもんだよ」

 鈴木助教は、追加注文に運ばれてきた焼き鳥を口に運ぶ。


 私も相槌を打ちながら、焼き鳥に手を伸ばす。


「ポスドクこそ、ファースト論文が必要でしょ、僕の手伝いばかりじゃこの先どうしょうもなくなるよ。手伝ってもらえるのはすごくありがたいけどね」


 私も、自分の論文のために、自分の実験を進めたいと思ってはいる。しかしながら、他人の研究の手伝いのために、大切な時間がなくなっていた。もちろん、これは、私だけに限った境遇ではない。

 一般に、ポスドクとは、こういうものなのだ。


「私は今のところ、心臓の三次元培養の研究もありますし……。それがうまくいけば、小さい論文になると思っています」


「そうか。じゃあ、頑張ってね。潰しがきくようにしておかないと、最終的に何も得られなくなるからねぇ」


 鈴木助教は相槌を打つように、大きく頭を前後させる。かなり酔いが回っているようだ。




 ポスドク研究員の将来は、不安しかない。1年ごとに契約の更新か解雇かを迫られる。

 更新のためには論文が必要だ。しかし、ヒトへの心臓移植の大きな論文は、鈴木助教がファーストになる。私も、佐々木教授にプロジェクトの手伝いを命じられた以上、やるべきことは多い。自分のファースト論文にならない以上、これとは別に、自分の実験を進めなければならない。そう、論文のために。


 我々、研究者は、論文を餌にして、奴隷のように、ひたすら働かされているのだ。

 研究者はまともな神経ではやっていけない。『心』を押し殺す必要がある。



「そうだよ、頑張って」

 横からも相槌を入れたのは、山口研究員である。彼もすでに酔いが回って、上機嫌であった。




 鈴木助教は、『八本槍』の入ったお猪口を口に運ぶ。そして、お猪口をテーブルに、コン、と音を立てて置いた。


「そういえば、篠原くん。石山さんとはどうなっているんだい? 今や、篠原くんと石山さんとの進展は、ヒト心臓移植実験よりもインパクトファクター(引用回数)が高いよ!」


 鈴木助教の言葉を聞きながら、私は、山口研究員の方にちらりと目をやる。

 彼は知らないと言わんばかりに、酔っ払ったふりをして目を閉じた。


 勘弁してほしい。()()そのインパクトファクター(引用回数)を上げているのか、容易に想像できる。きっと、引用回数を増やすために、自分の論文を自己引用するかのごとく、山口研究員が何度も、何度も、私の話をしているのだろう。



「彼女とはご飯も行きましたし、買い物にも行きましたよ。一応、仲良くやっています」

 私は真っ赤な顔をしながらも淡々と答える。もう、この手の質問にもだいぶ慣れてきた。そう、顔が赤いのは『八本槍』のせいである。照れではない。


「へぇ。じゃあ、もう付き合っているんだ」


 付き合っているかどうかはよくわからない。ただ私は、うまくいっている、と思っている。

 とりあえず、私は、「さぁ?」と濁しておいた。



 彼女との関係がうまくいくのは嬉しい。

 しかし、一方で、彼女との将来は、もちろん、不安である。この先どうなるかわからない。うまく付き合えるといい。結婚もできれば視野に入れたい。しかし、私の身分は不安定だ。この1年で首を切られるかもしれないし、もう1年、雇用契約をしてもらえるかもわからない。ただ私は、財政的基盤のために、更新してもらえることを祈るのみだ。

 本当に、先の見えない将来である。




 飲み会の()めは、決まっている。のっぺいうどんだ。

 滋賀県民、いや湖北民(こほくみん)にはお決まりの締めである。

 熱々のあんかけがたまらない。むさ苦しい夏の日に、どうしてさらに暑くなるようなあんかけのうどんを食べるのであろうか?

 答えは簡単である。美味しいから、だ。



 我々は、3人分ののっぺいうどんが運ばれてくるのを歓迎した。


 熱々のうどんがテーブルの上に並べられる。

 明らかに、うどんから昇った湯気が、あたりの気温を上昇させている。


 我々は箸をとり、うどんをすすった。

 熱々の汁が熱々のうどんに絡みつく。



 なんとも熱くて、なんとも暑い夏であろうか。

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