第5話 ブタが育てるヒト心臓
東館の最上階である7階には、ブタの飼育施設がある。
動物飼育施設は、人目のつかない最上階に設置されていた。もし仮に、地下に施設を作ると、大雨などで冠水した時に、ブタが全滅することがある。これが徹底されていなかった時代には、地下に作られたケースもあった。そして、度々、洪水などの天災で、実験動物が全滅していたりした。そのリスクを減らすため、2025年から、地下への動物施設の設置は禁止されたのだった。
この飼育施設は、最大で8頭のブタを飼育可能である。つまり、最大で8人の患者用の心臓移植用ヒト心臓の作製を進められるのだ。これは、国内で最大規模であり、これのために病院は巨額の費用を投入している。
しかしながら、現在、この飼育施設で飼育されているヒト移植用のドナーブタは1匹のみだ。これから行われる予定の臨床試験がうまくいけば、順次、飼育頭数が増やされる予定だ。
この1匹が、我々が使用する予定のブタだ。
患者さんから採取した細胞から人工誘導幹細胞を作り出し、その細胞のゲノム上の遺伝子を、機能欠損した遺伝子から、機能のある遺伝子へとすでに置き換えてある。そして、その細胞をブタの発生初期胚に移植し、ブタの体内でヒトの心臓を作製している途中だ。
この移植用の心臓には、患者本人の細胞を使うため、免疫拒絶の心配はない。また、心臓病の原因遺伝子を機能的なものに修復することで、移植した心臓が、将来的に同様の病気にかかることもない。
なにより、患者に適合した移植用のドナーを待つ必要がない、というのが最大の利点かもしれない。
私は鈴木助教と動物施設に来ている。
佐々木教授から頼まれた仕事を進めるためだ。
動物飼育施設に入る際は、消毒されたガウンを着る必要がある。もちろん、帽子、手袋、マスクも消毒されたものが必要だ。いかなる病原菌の侵入も許されないため、完全防護が必須とされていた。
私も、鈴木助教も、完全防護をした姿はほぼ同じだ。上から下まで、淡い緑色をまとった男どもである。いわば、メン・イン・グリーンだ。
「意外にかわいいですね」
施設の前室をでると、すぐにブタの姿が目に入った。
「あぁ、ぱっと見の見た目はね。でも、あまり愛着を持たない方がいいよ。このブタはすぐに殺しちゃうからね。可愛がったり、愛着を持ったりするための動物じゃないから……。ペットみたいに思ってはダメだよ」
鈴木助教の口調は厳しい。
「はい、わかりました。」
私は、ただ、頷いた。
「早速、検査用に血液と筋肉片を採取しないとね」
我々の目的は、このブタがちゃんと移植できるヒト心臓を持っているかどうかを調べる事だ。
ブタの飼育スペースは鉄の柵で覆われていた。サンプル採取のためには、ブタを小さな檻に入れ直す必要がある。これにより、ブタは大きく動けなくなり、また、我々も容易にブタに触れるようになる。
鈴木助教が、シリンジをブタの右前足に刺し、血液を搾取する。
私は、シリンジに満たされていく赤い血から、目を逸らした。
「あぁ、やっぱり私は赤い血が苦手です。このブタの鳴き声も嫌です。かわいそうに思えてきます……。」
私は、基本的に動物が苦手だ。
動物に接するのが苦手というわけではない。動物を実験動物として扱うのが苦手なのである。
マウスからゲノム解析用に尻尾を切るのも苦手だし、さらには、個体識別のためにマウスの耳に切り込みを入れるのも、ダメだ。つまり、赤い血が苦手だし、鳴き声が苦手なのだ。
もともとヒトの心臓病の治療のために殺されるために飼われているブタであるが、今はまだ、ブタとして普通に生きている。動物は動物である。
その鳴き声は、聞くに耐えない。
「かわいそうって言ったの?」
「いや、はい。別に、ちょっとした感想です」
「さっきも言ったけど、あまりそういう目で見ない方がいいよ。このブタは、ヒトへの心臓移植のために飼われているのであって、ペットでもないし家畜とも違う。僕らが利用したいのは、こいつの心臓のみで、あとはいらなくなる。ブタがかわいそうという意見も確かに正しくて、篠原くんの言っていることも一理ある。しかし、このブタは、確実にヒト一人の命を救うことができる。重要な使命だよ。ヒトのために一役かえるってね。所詮はエゴだけど、このブタは、治療のための道具だって割り切らないとダメだよ」
鈴木助教のマスクからはみ出た吐息によって、彼のメガネがうっすらと曇る。
私は何も言えない。
何も言い返さない私に、鈴木助教は続けた。
「とりあえず、僕らにできることは、いかに正当化して、このブタを飼育し、心臓を取り出すかだよ。我々の使命と目的は患者の命を救うためだからね。まぁ、この大義名分を傘にして、このブタを屠殺するんだけど……。実験のためだ、治療用だ、ってちゃんと認識した方が、心を病まなくていいよ」
「はい。わかりました」
私は、大きく頷き、そのまま俯いた。こうすることしかできなかったのだ。
私の目の前に飼われているブタは、検査が終わり、移植に適していると判断されれば、準備が整ったところで、屠殺される。
いくらヒトの命を助ける大義があるとはいえ、心が痛む。そう。心が痛むのだ……。
「あ。このブタたちって、名前とかつけるんですか」
私としても、するべきではない質問だったと刹那に感じた。余計な一言が多いのは、私の悪い癖である。
「いや、番号をつけるだけだよ。名前は絶対につけてはいけない。法律でも決まっているんだよ」
鈴木助教は、うっすら曇ったメガネの向こうから、鋭い視線を、私に向けた。
「はい。わかりました」
「何度も言うけど、これを動物のブタと考えたらダメだよ。いつも我々が、ペトリディッシュの中に培養している細胞。あれと同じって考えるんだよ。ちょっと大きくなっただけのことだ。そう考えた方が、本当に楽だよ」
細胞とブタは違う。そんなこと鈴木助教だってわかっているだろう。しかし、実際に手を動かすというのは、こういう風に考えないとやっていけないに違いない。
そう。おそらく彼は、ヒトとして動物を慈しむ『心』を、意図的に失くしているのだろう。
我々は作業を終えて、血液と切片を手に、動物飼育施設を後にした。
「さっきはごめんね、きつい言い方しちゃって」
少し前を歩いていた鈴木助教が振り返る。
「いえ、大丈夫です。鈴木先生がおっしゃることは、正しいと思います」
「ちなみにさ、さっきの堅苦しい話はおいといて。どうだったのよ、あれ? 先週のデート?」
鈴木助教の口元は緩んでいる。さっきまでの厳しい顔とは大違いだ。
「え? なんで知っているんですか?」
「だって、山口くんが嬉しそうに話していたよ。篠原くんが、石山さんを狙っている、って。今週は、その話で持ちきりだよ」
どうやら山口研究員のせいで、私の話がどんどんと拡散されているようだ。私はこんな色恋話でインパクトファクター、つまり、引用回数を稼ぎたい訳ではない。そっと見守ってもらいたいものである。
「一応、うまくいきましたよ……。」
「そりゃよかった。みんな応援しているから、頑張ってね!」
私は、問い詰めたい。その『みんな』とは一体誰なのだろうかと。
佐々木研究室の『みんな』だけだったらまだマシである。隣の研究室の『みんな』や東館の『みんな』という可能性もある。
本当にありそうだ。
私は、将来に少し不安を覚えた。