第4話 佐々木教授
教授室は、研究室から少し奥まったところにある。
教授室だからといって特別豪華な扉という訳ではない。そして、特別豪華な内装というわけでもなかった。部屋の端に堂々と鎮座する本棚には、分厚い洋書が並べられており、知的な威厳を放っていた。そして、机の上の、ひときわ大きいパソコンディスプレイも、威厳を放っている。
私は教授室に来ている。実験の打ち合わせのためだ。
「どうだい? 新しい生活は順調かね?」
佐々木教授は、パソコンのキーボードを叩いていた手を止め、椅子から立ちあがる。
佐々木秀行教授は、長身で、やや白髪混じりの髪の毛をしている。3年前にこの総合病院が建設された当初から、教授として働いていた。もともとはアメリカで研究室を構えていたが、3年前に日本に戻って来たのだ。
この佐々木研究室では、『心臓移植による心臓病の治療方法の確立』が主な研究テーマである。
すでに、ブタからサルへの心臓移植は成功しており、大きな論文として出版されていた。現在進行中の大きなプロジェクトは、ブタの体内で心臓移植用のヒトの心臓を作り出し、それをヒトに移植する研究である。
私は、佐々木教授に促されて、ソファーに座った。
座り心地はなかなか良い。部屋にはお金をかけられないが、こういった備品には、お金をかけられるのかもしれない。
「さて、研究の話でも始めようか」
佐々木教授は、コーヒー2つをテーブルの上に置き、話を始めた。
2030年の現在では、アメリカに遅れること数年、日本でもブタの体内で培養されたヒト由来の腎臓や膵臓のヒトへの移植はすでに治療法として認可されていた。最近では、心臓の移植の認可のために、その臨床実験が注目されているのだ。もちろん、世界中で多くの研究者が、競って研究を進めている。
そう、そして、この研究室も心臓移植のパイオニアとして、世界の最先端を走っているのだ。
ソファーの前のテーブルの上では、コーヒーがまだ湯気を立てていた。
私は、コーヒーが冷めないうちに、それに口をつける。
なかなかの味だ。
「さて、篠原くん。我々の研究室のメインテーマが何かは知っていると思う。心不全の患者さんがいて、その患者さんに移植する心臓を育てているのも知っていると思う。今、7階の動物飼育室で飼育中だけど、それを移植に使うためには、検査をしないといけない。そこで、篠原くんにはその検査をお願いしたいんだけど……。もちろん、助教の鈴木くんと協力してやってくれるとありがたい」
私のポスドク研究員としての給料は、佐々木教授が獲得した研究費から払われている。
つまり、私には、教授の命令を断ることはできない。
「はい。わかりました」と頷くのみである。
実験自体は比較的簡単なものであるので大丈夫であろうが、ブタを使うことには不安が残る。しかし、私に選択肢はないのだ。
「よかった。じゃあ、よろしく。あと、時間があるようだったら、もう一つのテーマも進めてくれても大丈夫だから」
やれやれ。
教授のこれまでの話を要約するとこうである。研究室として重要な実験があるから手伝え。そして、自分のテーマも同時に進めろ。である。
私は、教授に一礼をし、教授室から出た。
「ふう、また仕事が増えた……。」
私は、大きく息を吐く。
ブタを利用したヒト心臓培養とそれの移植のためには、移植するヒト心臓の安全性を確認することが最重要事項である。
例えば、血液を採取し、患者と同様の血を持っている事を確かめる。また、心臓と同様の中胚葉から作られる筋肉を調べる。筋肉片を摂取し、患者の細胞がどれほど含まれているかを調べる、などの検査があるのだ。
これらの検査を経て、ヒトに移植しても大丈夫かを判断するのだ。
もちろん、これらの検査は、患者への移植手術までに完了する必要がある。
ブタ由来の心臓の、サルへの移植は問題なく完了していたが、ヒトへの移植は今回が世界で初めてである。
失敗は許されない重要な仕事なのだ。
私は、当面の間、自分の実験、つまり、『心臓の三次元培養の研究』に加えて、『ブタの体内培養の研究』の手伝いもしなければならない。
仕事量は増える。しかし、当たり前のことだが、給料は増えない。ポスドク研究員は大体が年棒制であり、月の給料は固定だ。忙しく働いても、全く何もしなくても、同じ金額がもらえる。仕事がどれだけ増えて、どれだけ仕事に時間を費やしても、金額は同じ。働けば働くほど、時給換算の給料が減ってゆくのだ。
ただ、論文という餌を目の前にちらつかされて、必死に実験を進めるのが、ポスドク研究員だ。教授の命令に逆らえず、こき使われるだけの研究員が、ポスドク研究員だ。
そう、私は、そんなポスドク研究員なのだ。