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第3話 細胞培養部屋で培養される男ども

 私が勤務するのは、2027年に新設された米原総合病院である。

 建設されてから3年しか経っておらず、建物は、まだ新しい。


 総合病院として機能する本館と、特別な医療を必要とする患者のための西館と、そして、基礎研究のための東館の3棟でなっている。米原市は巨額の資金を投じて、琵琶湖の湖岸に、巨大な建物を3つも創り上げたのだ。


 3つの棟がそれぞれの高さを競い合うかのように、高々とそびえ立っている。

とは言っても、2階までは共通の大きな建物であるので、正確に言えば、巨大な建物は、1つである。


 その大きな建物は、琵琶湖を見下ろし、対岸の湖西の街までもを展望している。琵琶湖を眺める大仏の像と似たようなものだ。




 私は研究室に向かった。


 私の勤める研究室は、東館の5階にある。私の研究は基礎研究に分類されるのだ。

 ここの研究室は3部屋で構成されていた。実験をおこなう実験室と、個人の机が置いてある居室、そして、教授が鎮座する教授室である。



「おはようございます、山口さん」

 私が、実験室のさらに奥にある『細胞培養(さいぼうばいよう)部屋』の中に入ると、山口勝己(かつみ)研究員はすでに実験を始めていた。山口研究員は、私と同じポスドクという役職であるが、私の1つ年上の先輩である。この研究室で働いて二年目になる。



 細胞培養部屋は実験室の一角にある小さい部屋だ。部屋のいたるところに実験用の機器が並べられており、窮屈である。しかも、その部屋の中はモワッとしていて、やや暖かい。いや、空気がよどんでいるという表現の方が適切かもしれない。


 細胞を扱うためのクリーンベンチは2つある。朝早くに来て、細胞の維持のための作業と、ついでに、一部の実験を終わらせておくのが、私のやり方だ。クリーンベンチが、人で混む前に、実験をひと段落させてしまいたいのだ。

 山口研究員も、おそらく私と同様の考えであろう。そのせいか、私と彼とは、2人並んで作業することが多い。



 私は、実験のために培養している細胞を維持するために、培地交換(ばいちこうかん)をした。

 アスピレーターで古くなった培地を吸い取り、ピペットで新しい培地を加える。それだけの単純な作業だ。細胞を培養しているペトリディシュの枚数が多いと面倒臭いが、だいたい数十分で終わる。



「篠原くん、もうこの研究室には慣れたかい?」

 山口研究員の声だ。隣のクリーンベンチで作業している。


「はい。おかげさまで、だいぶ慣れました」

 私も作業を続けながら返事をする。


「そういえば、篠原くんは、彼女とかいるの?」


「いや、彼女はいませんけど……。」

 私は即座に否定する。


 何の事はない。私は、彼女いない歴がもうすぐ30年になる。魔法使いになる一歩手前だ。もし仮に、本当に魔法が使えるようになるとしたら、ワンチャン、耐えてみるのも選択肢の一つとして考えられる。しかし、ここは現実世界である。魔法などは、存在しない。


「あ、そうなんだ。じゃあ、好きな子とかいないの」


「いや、好きってわけじゃないんですけど……。今度、女性と食事をしに行こうかなぁって思っているんです」


「行こうかなぁって思っているの? 思っているだけ? 予定はあるの? ないの?」

 山口研究員は、私の言葉に、食い気味に質問を重ねる。


「あります。行きます」


「え、いつ?」


「今週の金曜日の夕方です」


「へぇ。誰と行くの?」

 矢継ぎ早な質問に、私は戸惑いを隠せないまま、正直に答えてしまっていた。


 そもそも、私の個人的な意見であるが、実験中には研究の話をする方が楽である。新しい研究テーマなり、前の研究室のテーマなり、研究に関する話題の方が話しやすい。

 まぁいい。四六時中研究のことばかり考えていても、憂鬱になるだけだ。たまには違う話題で話すのもいい。たまには、だが。



「山口さんは、事務の石山さんって、知っています?」


「うん、知っているよ。人事部の石山かすみちゃんだよね。あの子、可愛いよね。てか、なに? えっ? かすみちゃんとご飯に行くの?」

 山口研究員は、手を止めてこちらを振り向いた。私は、山口研究員の扱っている細胞が、汚染(コンタミ)しないか心配である。


「はい」と答えつつも、私は、手にしているピペットに集中する。

 しかし、少し揺れたピペットから、一滴の培地が溢れ落ちた。フェノールレッドで赤に近いピンク色に染められた液体培地が、銀色のクリーンベンチの床の上で、水玉を作った。

 やはり動揺は隠せない。


「そうか。いいなぁ。僕も行きたいなぁ」

 山口研究員は、軽くおどけてみせる。


「山口さんは、奥さんがいますよね」

 私はそれをすぐに静止する。

 山口研究員は、すでに結婚しており、奥さんがいた。どうやら、結婚してからは、色恋沙汰の話がないから、他人の色恋沙汰の話が面白いらしい。私としても、自分のことを話のネタにされるのはそれほどありがたくはない。一方で、すでに結婚までこぎつけたベテランからのアドバイスを聞けるのは、正直、ありがたい。


「そうだね。で、どうやってご飯誘ったの?」


「この間、雇用契約の時に知り合ったんですよ」


「彼女は、人事部だしね。で?」


「で。色々話をして。メールしていいよ、って言ってもらえたので、メールしました」


「で、ご飯行くようになったの。やるねー」


「はい」


 私は、培地交換の終わった細胞のペトリディッシュを、気相インキュベーターの中に並べる。特に何も嬉しいことはないが、私の顔に笑みが溢れていたことは否定しない。ここのところずっと、心が弾んでいた。理由は言わずもがな、石山かすみさんのことだ。




「ちなみに、篠原くんは、どんなテーマをもらったの? そう言えば、何も聞いてなかったね」


 これこそが、私にとっての本題である。研究員による、研究員のための、研究に関する、研究トークだ。


「私が今取り組もうとしているのは、心臓の三次元培養です」

 私は続ける。

「心臓病の患者さんから採取した細胞の遺伝子を修復して、遺伝子が機能するようにするんですよ。そして、その遺伝子修復した細胞から、ヒト心臓を三次元培養で作り出すんですよ」


「なるほどね。でもせっかくこの研究室に来たんだから、ブタを使えばいいのに」


「そうですよね。でも、私はまだブタを使ったことがないので、ちょっと怖いというかなんというか……。」


「いきなり実験で使うのもしんどいと思うけど、そのうち使っていかないとね。うちの研究室のメインテーマが、ブタからヒトへの心臓移植だからね。三次元培養もいいけど、ブタの方が簡単じゃない?」


 彼の言う通りである。この研究室に来たのだから、培養細胞ばかり使っていないで、ブタを使うべきなのだ。なにしろ、この研究室の最大の特徴はブタ体内での臓器培養だからだ。



「でも、三次元培養の最大の利点は、ブタを殺さなくても、実験室内のみで移植用の心臓が作れることですよ。正直なところ、私は、ブタを殺さずに済むなら殺さない方がいいと思います」

 私は、菜食主義者ほどの厳しい考えを持っているわけではないが、生き物を殺さずに済むのなら、殺したくはない。まぁ、誰も好き好んで殺しているわけではないだろうが。ヒトの臓器をうまく作れるのがブタだった。それが研究者がブタを使っている大きな理由であろう。


「それはわかるよ。理想はそうだよね。でも、培養液だけで、複雑な立体構造を造るのは、結構難しいよ。それこそ10年くらい前は、みんなが必死に三次元培養で色々な組織を作ろうとしていたけどね。サルとブタが使えるようになったら、みんなそっちに移っちゃったからねぇ。まぁ、10年前より技術が進歩しているから、もう一度取り組むっていう考えもありだとは思うけど」


「難しいのはわかっています。あと、自分独自のテーマも持っておいた方がいいかとも思いまして。みんながブタの体内での心臓培養のテーマでは生きていけないですし。まだ三次元培養の分野には、論文になるネタが残っていますから」



 難しいことは承知である。これまで、三次元培養に成功しているのは、腎臓や腸などの比較的簡単な器官だけだ。複雑な器官を造るには、三次元で構造を支持する組織や、それぞれの部位に特異的に誘導をかけなければならない。心臓は、血液ポンプという比較的単純な機能であり、比較的単純な構造を持っている。それでもやはり、一筋縄ではいかない。10数年前より技術は進歩しているが、そうそう簡単なものではない。

 やはり、複雑な器官は、ブタやサルの体内で培養する方がはるかに簡単なのだ。


「そうだね。まぁ、どちらにしろ、頑張るしかないよね。そういや、篠原くんは、任期は1年だっけ?」


「今のところは、そうです。更新をしてもらえれば、まだ居るつもりではいます」


「僕も1年契約だけど、多分、更新はしてくれるよ。よほどのことをしない限り大丈夫だよ。どこの研究室も、よほど変なやつじゃないと、解雇しないしね」


「なんで、ですか?」


「一から育て直すのに手間がかかるのと、新しく雇った奴が変な奴だったら困るからだよ」


「あー、なるほど。そうですね」

 理にはかなっている。病院と教授側の視点に立てば、であるが。


「じゃあ、思い切って3年契約とかにしてくれればいいのにと思いません?」


「だって、3年契約にしたら、ちょっと肩の力抜いちゃうでしょ? ポスドクは、奴隷として働かせるために、契約期間を短くして、必死こいて働かせるんだよ。目の前にニンジンをぶら下げられて走る馬みたいなものだよ。ニンジンが遠くにあったら意味ないでしょ」


「あーなるほど。そうですね」

 確かに、これも、理にかなっている。もちろん、病院と教授側の視点に立てば、であるが。

 これらのことは、ポスドクになる前から薄々とは感じていた。やはり、ポスドクは研究室の奴隷みたいなものであるのだ、と再認識した。



 さて、私の朝の細胞実験は終わった。しかし、午後からの実験準備もしなければならない。居室に戻って実験ノートでもまとめようかと思う。


「じゃあ、私は実験が終わったので。また」


「あ、そう。じゃあ、頑張ってね。グッドラック」

 山口研究員は、こちらを振り向き、親指を立てた。


「なんですかそれ?」

 私は、少し呆れた目で、山口研究員を見る。


「かすみちゃんとの成功と、実験の成功を祈っているんだよ」


「あ、はい。どうも」

 私は苦笑しかできない。

 私としても、実験はうまくいってほしい。そして、もちろん、石山かすみさんとの食事もうまくいってほしい。


 どうなるかは未知数である。

 神のみぞ知る、だ。



 私は、細胞培養室を後にした。

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