第2話 雇用契約は、きっかり一年
私は、『篠原陽介』という名前を雇用契約書に書いた。もちろん、これが私の名前である。そして、印鑑を押した。
雇用契約の書類は、我々ポスドク研究員にとっては非常に大切なものだ。
契約期間は、2030年4月1日から2031年3月31日までのきっちり一年間である。我々任期雇用のポスドク研究員は、一年ごとに契約更新のために雇用契約を結ばなければならないのだ。
私は、4月からの勤務開始に先駆けて、雇用契約を結ぶために、人事部に来ている。
「それでは、篠原先生。これからよろしくお願いいたします」
雇用契約書を渡すと、事務のお姉さんが丁寧な声で言った。
私が勤務するのは、病院の一角にある研究室であり、普通に『先生』と呼ばれるべきお医者さんたちも、同じ職場の同僚である。
しかし、少なくとも私は、『先生』ではない。本来、『先生』と呼ばれるような方々が履修している医学を、私は履修していないのだ。
なんと言うか、あれだ。『先生』と呼ばれるのは、いささか恥ずかしい。
「あの、私が先生と呼ばれるのは、どうかと思うんですけど……。」
私は、事務のお姉さんに反論した。いや、反論してしまった。
「あら、そうですか。でも、私たち事務にとっては、先生は先生ですからね」
彼女は、口元に笑顔を浮かべたまま、軽く首をかしげた。
「でも、私は医者じゃないので、先生ではないです」
私としても、そこまで否定する理由もないのではあるが、なぜか突っかかってしまった。
細かいところを気にする。こういうところが、研究者のいいところでもあり、悪いところであると認識している。
「私からすると、先生たちは、私にはわからないことを研究してらして、すごいなぁと思うんですよ。お医者さんたちもすごいと思いますし、篠原先生のような研究者の方々も、すごいなぁと思いますよ。だから、同じように、先生なんですよ」
「でも、医者と研究者は、違うじゃないですか。だって、事務の方も、医者に言い寄られたら、嬉しいかもしれないですけど。研究者に言い寄られても、嬉しくないでしょう。それくらいの違いがあるんですよ」
一体、私は何を言っているんだ?
なぜ反論する必要がある。「そうなんですか」と納得しておけば良いではないか。何か論理的な返答をして、相手を論破したいのであろうか。
もちろん、彼女は困った顔を浮かべている。
「そもそも、事務職は言い寄られないですよ」
彼女は首を振った。
「でも、お姉さんはすごく美人ですから。言い寄られてばかりじゃないんですか?」
本当に、一体、私は何を言っているんだ?
とっさに出た一言に、私自身も驚いている。
私の暴走は止まらなかった。
やってしまった。私の胸の中に、後悔の大波が押し寄せている。
彼女は、目をパチクリさせながら、キョトンとしていた。
「あれ、先生? もしかして、私のこと、ナンパしています?」
いや、決してそういう意図があったわけではない。もう一度言う。意図はない。
なにしろ、大学、大学院と、勉強と研究以外することがなかった私は、彼女いない歴と年齢の関係を等値にし続けていたのである。そんな私がナンパなどありえない。
しかしだ。私が彼女のことを美人だと言ってしまったのは事実である。
もしかして、これが社会人デビューというやつだろうか。
社会人になって、新しい生活が始まり、気分が高揚しているのであろう。
私はこれまで、こういったことをずっとしてこなかった。つまり、高校デビュー、大学デビュー、大学院デビューというものを、全くしてこなかったのである。なのに、社会人デビューだ。
そして、社会人デビューという言葉は、私の心拍数を一気に上げるための薬剤として、十分過ぎる程に機能していた。
私は、ナンパなんてするつもりはなかった。しかし私は、この問いかけに対する最適な答えを持ち合わせていない。学会のプレゼンテーションの質問には慣れているが、この手の質問には慣れていない。
あえて言おう。初めてであると。
「い、あぁ」
そして、これである。
これが、思考の末に、私の口から出た言葉だ。
取りようによっては、肯定。取りようによっては、否定。なんともよくわからない言葉である。
「仕方ないですね、先生。じゃあ、私のところにメールください。病院で働いている人たちのメールアドレスは、アドレス欄に名前を入れると出てきますからね。私は、人事部の『石山かすみ』と言います。よろしくお願いします」
私の心臓は、相変わらず激しく脈打っていた。さて、これから始める心臓移植のための研究の、最初の実験台を私の心臓で試してみてはどうだろうか。そう。胸から取り出して、自分の心臓に一言、『落ち着け』、と言ってやりたい。
「あ、はい」
私の口から最後の言葉が漏れた。
「じゃあ、先生からの連絡、お待ちしていますね」
事務の石山かすみさんは、そう言って、書類の手続きを始める。
ただ、私は、無表情のまま頷いただけだった。
とりあえず私には、現状を整理する必要がある。
結果として、私は事務のお姉さんをナンパした。そして、彼女は、メールをしてきていいと言ってくれた。
そうだ。これは、喜んでいい。
私は、心の中で大きくガッツポーズをした。
ポスドク研究員として、雇用契約書を出してすぐに得た、良い結果だ。つまり、ポジティブリザルトである。研究ではなく、実生活でポジティブリザルトを得たのである。
そう。研究結果だけが、ポジティブリザルトではない。
ポジティブリザルトは、どこにだって転がっているのだ。
このまま、あの子のハートをポジティブリザルトだ。
私が意味のわからないことを言っているのは了解している。
許してほしい。私の頭は、まだオーバーヒート中だ。