第10話 ハイインパクト忘年会
真っ白に雪を戴いた伊吹山地から吹く風は冷たい。かたや、琵琶湖から吹く風も、それに劣らず冷たい。そう、東西からの寒気に挟まれたこの地の冬は、とにかく寒い。
年の瀬である。
忘年会は、社会人として避けることのできない年中行事の一つであり、普段まともな集まりのない佐々木研究室でも、年中行事となっている。
我々は、居酒屋『ぽんぽこ』に集まった。
滋賀の冬の名物といえば、鴨鍋だ。あたたかい鍋を研究室のみんなで囲めることは、研究生活での数少ない喜びの1つであろう。
1年の疲れをとり、親睦を深めるための、楽しい飲み会なのだ。
本来ならば、楽しい飲み会だ。
しかし、今回の場合、正しくは『だった』。過去形である。
「なんですか、それ!」
大きな怒鳴り声が、私の鼓膜にぶち当たる。声の主は鈴木助教だ。
どれほど大きな声であったかは、じんじんする私の鼓膜が証明していた。しかしながら、忘年会シーズンで賑わっている屋内には、その大きな怒声に振り向くものはいない。
「どうして、私がファーストをもらえないんですか?」
彼はさらに声を荒げる。
「君の働きには感謝しているが、プロトコールを作ったのは君ではない。それに、患者の責任担当者も君ではない。確かに、君が先頭に立って、移植用のヒト心臓を作製してくれたのは知っている。しかし君は、よくてセカンドもしくはサードオーサーだよ。ヒト心臓を作って検査するのは重要だけど、臨床実験の第一責任者は、高橋先生のところの田口くんだからね」
佐々木教授は、日本酒のお猪口を片手に、右手で鴨肉を一切れ、口に運ぶ。
高橋教授とは、共同研究先の研究室の教授である。心臓内科の偉い先生だ。そして、田口助教は、その研究室の助教であり、今回の、ブタからヒトへの心臓移植をおこなった患者の担当医である。
担当医も、もちろん、この移植研究においては大事な役割を担う。何しろ、彼がいなければ、移植用のヒト心臓を患者に移植できないのだ。
「はぁ……。」
顔が真っ赤になった鈴木助教が何か言いたげなそぶりを見せながらも、口籠もった。
彼の顔が赤いのは、酒のせいではなく、怒りのせいであろう。
怒りの中でも、上司に対する敬意を持っているのか、ただ、上司にすでに心胆を奪われているだけなのか。それとも、社会人としての常識を備えているためであろうか。
彼は、続く言葉を飲み込んだ。
「そもそも、これは、僕の研究だし、僕が苦労してとってきた研究費でやっている研究だよ。君は何もしてないじゃないか。君は僕に雇われている以上、僕の方針に従ってもらわないと困るんだよ。ちゃんと、国に申請しているように研究しないといけないし……、責任を負うのは、君じゃなくて僕なんだ」
「でも、あの心臓を作って、検査したのは僕ですよ……。」
鈴木助教が食い下がる。
そう。彼が、豚の世話から検査まで、ほぼ全てをやったのだ。彼が、ファーストをもらうべきだと、私は思う。私は……。
「なにをおかしなことを言っているんだい君は? 心臓を作ったのは、ブタだよ。ブタが、命をかけて作ったんだよ。君はそれを検査しただけじゃないか。ねぇ?」
佐々木教授は、心臓に毛が生えているかのごとく、平然と言い放った。
周りに同意を求める教授に皆、無言である。もはや面白くもなんともない冗談だ。一方で、この教授がこれを本気で言っている可能性も十分にあった……。
「もうやめよう、この話は。酒が不味くなる」
佐々木教授が怒鳴る。
お前のせいだ、と心の中で叫んだのは、私だけではないだろう。
「そうだ。田中さん、何か盛り上げてよ」
佐々木教授は、秘書の田中ひなさんに無茶振りをした。
「え、私ですか?」
急に話を振られた田中さんの心中お察しします。
ただ私には、頑張ってくださいとしか言えません。私は、引きつった笑顔で、視線を彼女の方に向けた。
「え……、じゃあ。ものまねやります」
田中りえさんは立ち上がり、左右の腕をぐるぐると交差させた。
「ジェンガージェンガー、ジェンガージェンガー。はい」
尊敬に値する行為である。ポスドク研究員として一年しか経っていない私にはできない芸当だ。超えてきた修羅場の数の違いをまざまざと見せつけられた瞬間である。
「よっ、いいね。田中さん!」
酔っ払った佐々木教授は、上機嫌で声をあげる。
私には、田中さんのモノマネの面白さとは関係なく、なにも笑えない。ただ心を押し殺し、顔に愛想笑いを浮かべることで精一杯だ。せめて場の空気をこれ以上悪くしたくはない。
「こういうことするから、私、女を捨てているとか言われるんですよ。もう嫌です」
田中さんの小さな呟きが、私の耳をかすめた。
「本当に、田中さんのおかげで助かりました。今、田中さんは英雄になりましたよ……。」
私は、彼女に向けて、小さく、サムズアップをした。
「はは。何を言っているんですか、篠原さんは……。」
彼女は、ペチリ、と私の肩を叩いた。
佐々木教授が帰宅した後は、二次会である。
主な話題はもちろん、鈴木助教の愚痴。
「やってらんないよ〜ぉ。こんなに苦労して、時間を費やして、ファーストをもらえないんだよ。俺は、他に研究テーマを持ってないんだよ。これだけに集中してきたのに……。しかも、なにもやってない呼ばわりまでされるんだよ……。」
鈴木助教は、右手に持っていたハイボールのジョッキをテーブルに叩きつける。
ファーストは、我々、研究者にとって、命の次に大切なものだ。
ファーストの論文は、その研究者が成し遂げた実績、働いた証拠、そして、研究者としての存在意義、そのものなのだ。つまり、ファーストの論文を持たない研究者は、仕事をしていない研究者、もしくは、仕事のできない研究者の烙印を押されることになる。たとえ、血反吐を吐くまで働いたとしても、論文がなければ、働いていない、とみなされるのだ……。
「くそっ! 『実験ノート』燃やしたろか、ぼけっ!」
声量を一段上げ、彼は叫んだ。
そう、『実験ノート』がなくなれば、事実上、鈴木助教がやった実験の証拠がなくなる。それは鈴木助教がやったことを示す証拠がなくなると同時に、ブタからヒトへの心臓移植のためにおこなった検査の結果が全部無くなることでもある。
我々が持つ、上司に対する最後の切り札が『実験ノート』である。
自分も大切なものを失うが、相手も失う。『やられても、やり返せない。なら、道づれだ』の精神なのだ。
「篠原くんはマシだよ、三次元培養がうまくいっているから」
少しトーンを落とし、鈴木助教は言う。
そう、牛歩ながらも私の三次元培養実験は着実に前進している。2つの心房と2つの心室を同時に作る方法を諦め、心室と心房の一つずつのセットを作ることに注目した。そのプロトタイプが、先日、ついに、作製できたのである。理論上、これを2つセットで使えばヒト心臓として機能するはずなのだ。
私には、鈴木助教の話を聞き、頷くことしかできなかった。それだけが、私が、彼のためにできることだ。
研究者の闇をまじまじと見せられた夜であった。
研究者は上司の研究費で雇われている以上、上司に口答えは許されない。反論は、愚痴として、ポスドク仲間で分かち合うか、研究室メンバーで分かち合うかである。
この忘年会の出来事は、後々長く引用されるであろうハイインパクトファクターの出来事となったことは明らかだ。




