第1話 湖北、米原、桃源郷?
うっすらと雪を戴く伊吹山地から流れ込む冷たい風に対抗するように、夏に向けて温まった琵琶湖の上から、春風が吹いている。
今日は琵琶湖から吹く風の方が強い。
そのため、窓から入り込んでくる風は、暖かい。
電車の中は満席である。
私は、京都駅から新快速に乗った。
私の当初の予定は、目的地の米原に着くまでに論文を一本読むことであった。しかしながら、電車の心地よい揺れと窓から入り込んでくる春風が早速、私の計画を狂わせている。
私の手には、数枚の紙に印刷された論文が握り締められていた。しかし、その論文は私の指先から、はらりと滑り落ちてゆく。
私はこの4月からポスドク研究員として働く。
その研究室から出された論文を読んでおくのは、雇われる身としての礼儀であろう。
しかしながら、暖かい春風の前にはどんなに偉い教授も任期雇用のポスドクも、等しく、眠気に襲われるものなのだ。
電車の終着駅である米原駅には、京都駅から1時間ほどで着く。
私が眠っていたのは、ほんの10数分であった。
目を開けると、目の前に、白桃のような白い肌が見えた。
私の目の前に座っていた大学生くらいの女性の太ももだ。
そして、その白桃のような太ももを覆うようにして、桃色のスカートがかぶさっている。
なるほど、いい眺めである。
私は、暖かい春風を顔の横に受け、春を感じた。そして、目の前に広がる桃源郷を眺め、さらに春を感じた。
どうやら、琵琶湖から吹く春風に誘われて、桃源郷に辿りついてしまったようだ。
私は、この桃源郷の眺めをしばらく堪能していた。すると、その桃源郷の前を白い紙が遮った。
私が先ほどまで読んでいた論文である。
「どこを見ているんですか? あんまりジロジロ見ると、大声あげますよ」
私はとっさに、彼女の太ももから、目を逸らした。桃源郷から現実世界に引きもどされる瞬間である。
待ってほしい、大声をあげるのだけは、勘弁してほしい。
こんな満員電車で大声などあげられた日には、人生が終了してしまう。就職先への引っ越し中に人生が終了するなど、恐ろしいことこの上ない。
「ごめんなさい」
私はとっさに謝った。
「いいですけど。気をつけた方がいいですよ。痴漢と間違われたら、大変なことになりますからね」
その桃源郷の主である女性は、私の方をキリッとした目で見ている。
「あ、はい。すみません」
彼女の言う通りである。今の私には、何も言い返せない。いや、言い返すべきではない。
「はい、これ、落としていましたよ。あまりに気持ち良さそうに寝ていらっしゃるので、しばらく見守っていましたけど」
彼女は、私の顔に向けて、論文を押し付けた。
「あ、どうも」
「動物園かどこかの飼育員でもやってらっしゃるんですか?」
彼女は、口を開く。
私は、寝起きでうまく回転しない頭を、最大限に回転させながら考えた。しかし、どこから動物園という単語が出てきたのか、皆目見当がつかない。
「いや。違いますけど、なんでそう思ったんですか」
「その紙に、ピッグとかモンキーとか書いてありましたし……。私は、あんまり英語が得意じゃないので、そのくらいの単語しかわからないんですけど。何か動物に関する仕事でもしているのかなぁ? って思いましたので」
なるほど。
確かに、読んでいた論文にはブタもサルも登場していた。と言っても、どちらも実験動物として登場しているだけである。ブタの体内で育てた心臓をサルに移植する実験の論文なのだ。
「はは。まぁ、私は生物の研究をしているので、あながち間違いではないですけど。動物園ではないですよ。まぁ、ブタやサルみたいな人間の相手は、いつもしていますけど」
「そういうことですか。私も、そういうブタとサルの相手なら、毎日のようにやっていますよ。私は生物の研究者じゃないですけどね……。」
「ですよねぇ。お互い大変ですね」
私は、彼女の目を見て、笑いかける。
彼女もクスリと口元を緩めた。
「で、私のスカートを覗こうとした変態さんは、これからどこに向かわれるのですか?」
彼女の、変態という呼び名を撤回したいところではあるが、今それをするのはいささか難しい。
「米原です」
「そうですよね。多分、この電車に乗っている全員が、米原に行くと思うんですけど。私が聞いているのは、その先の行き先です」
「ですから、米原で降りるんです」
「そうなんですか。珍しいですね」
彼女はキョトンとした顔で驚く。
私には、どこに驚く要素があったのかわからない。
「ちなみにお姉さんは、どこに行かれるんですか」
「私は長浜まで行きます。米原で乗り換えて、3駅ほど北ですね」
「そうなんですか」
もともと会話下手な私には、この先につなげる言葉が浮かばない。
こういう時のために、大学院で生物以外のことも勉強しておけばよかったと後悔する。しかし、大学の博士号を取るために、実験のために研究室に缶詰にされる身分を考えたら、無理であっただろう。大学院生は研究室の奴隷なのだ。研究以外のことをする時間もお金もない。
私の目の前には、琵琶湖が広がっている。電車の窓越しでも、水面が太陽の光にキラキラと反射しているのが見えた。
「あれって、なんですか?」
私の目に入ったのは、竹のような棒だ。その棒は、規則ただしく琵琶湖の水面から生えている。
「あれは、『えり』です。えり漁に使われるものです。琵琶湖のことを知らない人には馴染みがないようですけどね」
長浜在住の彼女には、えりは馴染みのあるもののようだ。しかし、私には馴染みのないものであり、名前を知ったのは今日が初めてである。
「なるほど」
私は頷く。
彼女の説明によると、えりの中に迷いこんでしまった魚たちは、その習性で、えりの中を泳ぎ続けるようである。
「つまり、私が春風に誘われて眠りに落ちるのをどうにもできないのと同じで、魚たちも、えりに誘いこまれたら、出てこられないのですね」
「そうですね」と、頷いた彼女は、口元に笑みを浮かべながら続けた。
「でも、スカートの中を見たいという欲求に誘われても、それには負けてはいけませんけどね」
「すみません」
一体、いつになったら忘れてもらえるのであろうか。
念のため、私はスカートを見ただけで、中を見ていないし、中を見ようともしていないことを、ここで断っておく。
しばらくして、電車は米原に着いた。
米原は、程よく都会、程よく田舎の町だ。
新幹線の停車駅を持つこの駅は、今でも相変わらず、北と南と東に向かう電車の分岐点として重要な地位を確立していた。これは西暦2030年となった現在でも、変わらない。米原駅構内は、ここが交通の要所であることを証明するように、大勢の人々で賑わっている。
「じゃあ、私はここで」
私は米原駅で駅を出るため、階段の先の改札口へと向かう。
「じゃあ、変態さん。新しい職場で頑張ってください。あんまり女の子のスカートばっかり見ちゃダメですよ〜」
私は何も言い返せない。まだ引っ張るのかと思いつつも、黙ることしかできない。
ただ、彼女に手を振った。
私は米原駅の改札を出た。
改札の外には人通りがなかった。まるで、私がさっきまでいた満員電車や駅の構内から、現実世界とかけ離れた異世界にでも転生してしまったかのように思える。
そして今、不本意ながらも、エスカレータを独り占めしている。京都で生活していた時には体験できなかった、非常に貴重な体験だ。
私は、米原に引っ越ししてきた初日にして、貴重な体験をしているのだ。
駅前には大きなロータリーがある。もちろん、バスも停まっていなければ、タクシーも停まっていない。目の前に広がる伊吹山地から吹き降ろしてきた冷たい風が、私の意識をはっきりさせる。ここは、桃源郷でもないし、異世界でもない。現実世界である、と。
しかし、人は一人もいない。
「なるほど、こういうことか」
私はポツリと呟く。
先ほどの桃源郷のお姉さんが電車の中で言っていたことの意味が、ようやく理解できた。
顔を上げると、ようこそ米原へという大きな看板が、私の到着を大いに歓迎してくれていた。