第53話, あの日常は彼方に
その日の眠りは今までのどんな眠りに比べても深く、ただひたすらに暗い海底に堕ちていくようで、そしてその日の目覚めは今までのどんな目覚めに比べても最低最悪の息苦しさがあった。
「ーーケホっ…………………もう昼か……」
既に高くまで昇り詰め、中天を通り過ぎ用としている太陽の白い光が視界を支配し、徐々にその明るい光に目が慣れて辺りの空虚な景色を映してくれる。
口の中に広がる自分の血の味を水で洗い流してしまいたい気持ちに駆られつつ、あちこち痛む身体を無理に動かして立ち上がる。
周りに人の気配は欠片も無い。
マリウスも幼女先生も賢者も、その姿は見当たらなかった。
「結界が…消えてるな」
王家が維持していると言われていた、中央区全域を覆う水色の結界は見る影もない。中央区は無防備に曝されていて、外周に位置する街の様子も遠目ながら確認することができる。
“使徒”の手を逃れた王家の人間が潰えたか、それとも何か別の理由があるのか。
「………行かなきゃ」
長い眠りで回復することができたのは気力だけ。身体に負った傷は癒えていないし、残存魔力も全体の一割に満たない。今の状態では『聖女』どころか“使徒”相手にもロクな戦闘ができないだろう。
それでもあの状態のアオイを野放しにしてはおけない。完璧な『聖女』を冠する何者かが刻一刻と彼女の精神を蝕んでいる。
やがてはアオイの身体を完全に掌握し、精神、記憶、魂といった彼女を形成する何もかもを塗り潰してしまう。
それだけは避けなければならない。例えどんな手を使ったとしても。
有り余る気力で持って、一歩進むごとに身体の芯までも響くような痛みを押し込め、歩を進めていく。
進んで進んで進みつづけた。
やっとの思いで辿り着いた中央区と外周の境界、結界が位置していた場所に、一人の女性が天を仰いで立っていた。
「生きてたんだな」
「アナタもネ」
賢者は天を仰ぐのをやめ、建物の残骸に背中を預ける。
「マリウスとドーラ先生は?」
「あの悪魔は知らないワ。……ドーラちゃんは血相を変えて戦いにいったワヨ」
「そうか」
賢者の横を通り過ぎ、おれは外周部の街へと足を踏み入れる。
そんなおれについてくる訳でもなく、その場から一歩も動かないで賢者は背を向けて行くおれに声をかけた。
「どこに行くのカナ?」
「アオイのところだ」
「そんなボロボロの身体なノニ?」
「こんなボロボロの身体でもだ」
「勝ち目はないワ」
「ここで諦めたらそうだろうな」
「無駄死にヨ」
「それがどうした」
「………」
「………」
「ーーねえ、どうしてアナタは…アナタたちはそこまで他人のために必死になれるノ?」
「ーーさあ、なんでこんなに必死になれるんだろうな」
それ以上賢者から問いかけられることは無かった。おれはその場を後にして目的の場所へと緩やかに進んでいった。
街の様子は至って、いや普段以上に平常通りだった。
大勢の人間が道を行き交い、買い物をしたり洗濯物を干していたり、はたまた子と手を繋いで陽の光の下を散歩したり、何人かで集まって談笑をしたり、まるで平和と謳われる風景をそのまま切り取ったかのようで。
けれどもその大通りのど真ん中を、全身ボロボロの衣装にあからさまに異様な雰囲気で、足を引きずって進んでいる男がいたとしても、能面のような笑顔を貼り付けたまま、各々の生活を享受している。
彼らは完結しきった個々の世界で営みをただ粛々とこなしていた。
やがて王立学院の門前へと至り、行く手を阻む門を骨の軋む音が響く左手で押し開ける。
昼はとうに過ぎ、遅刻といえど本来なら教室へと向かうべき足取りは校舎の方を向いておらず、代わりに通い慣れた約束の場所に向けて足を引きずる。
「………?」
約束の場所へと続く森の手前。一人の男が血に濡れた剣を携えて佇んでいた。そしてそいつの足元では幼い女の子が血溜まりを作り倒れている。
「幼女先生…」
その呟きに彼女がいつものように突っ掛かってくることはなく、ピクリとも動かず魔力さえ感じることができない。瞼には涙の跡が残っていた。
男はおれの気配に気づき、剣にこびりついた血を振るい落として鞘へとしまう。
「アヤト=アーウェルン様、お待ちしていました。奥にて『聖女』様がお待ちでございます」
男は丁寧な振る舞いに軽い会釈で歓迎の意を示す。足元に転がる幼女先生の死体などまるで存在しないかのように。
「あんた、そっち側の人間だったんだな」
「おや、覚えていてくれたんですね」
目の前に立っていたのは輝くような金髪に一房だけ赤色が混じり、その顔は見た女性を虜にするような美しい造形。アオイと過ごした祭りの日、ただ二言三言交わしただけの知り合いとも呼べぬ男。
「そういえば名乗りがまだでしたね。改めまして、ルト=アルゴノートです。教会では恐れ多くも聖騎士長の任を頂いております。以後お見知りおきを」
「アルゴノート……ね」
「さ、私などに感けて『聖女』様を待たせてはいけません。早くお向かいくださいな」
彼は極めて自然な笑顔のまま、道を開ける仕草と同時に幼女先生の死体を粗雑に踏みつけて飄々と言ってのける。
「っ…足を退けろ」
「おっと、これは失礼しました」
生温かさが残る幼女先生の死体を肩に担ぐ。
「我ら聖統一教会、奉りたもう天主の声に付き従い、現世に楽園をもたらさんためこの身を捧げん」
終始笑顔。人として壊れているとしか思えないその薄気味悪い彼の横を、おれは重い足取りで通り過ぎることしかできなかった。
森の入口に幼女先生の死体を安置し、草木を掻き分けて約束の場所へと向かう。
掻き分けて掻き分けて、森を潜り抜けた先では明るい陽の光に照らされたいつもの青々しい芝生と丘と、一本の木の下で淑やかに座る彼女がいた。
修道服に身を包み、素顔を仮面で隠した彼女が。
そんな彼女のもとに、おれはゆっくりと近づき、そしていつものように彼女とは木の幹を挟んで背合わせになるように座り込んだ。
「ーーふぅ……お待たせ」
「珍しく今日は遅かったのですね。何か用事でもありましたか?」
「いや、ただ寝坊しただけだ」
「そうでしたか」
いつもと変わらない、こちらの事情に深くまで踏み込んでこない彼女がそこにはいて。
「あー、今日もほんと良い天気だよな」
「ええ、ほんとに」
「そよ風も気持ちいいし、このまま寝てもいいかな?」
「寝坊したのにまだ寝られるのですか?」
「昼寝は別腹」
「太らないといいですね」
「太る前に起こして」
「ふふ」
その変わらない安心感に、気を抜けば手放してしまいそうな意識を必死で手繰り寄せて会話を続ける。
「この前…さ…結んだ約束だけど…まだ覚えてるか?」
「当然です」
「やっぱあれ…無かったことに…してくんね?」
「え………」
「それで…新しい約束を………………」
「ーーアヤト…?」
いつまで待っても続く言葉が聞こえないのを不審に思い、自分の背後に居るはずのアヤトの様子を確認する。
何やら様子がおかしい。腕は力無く地面に投げ出され、幹にもたれかかっているのは背中ではなく肩と首。
もう少し身を乗り出すことでわたしは初めて気がついた。
アヤトの服がズタボロに擦り切れ、赤黒い血で汚れ、彼自身も多大な怪我を負っていることに。
「アヤト!!!」
慌てて幹の反対側へと回り、アヤトの状態を確認する。
「っ…邪魔っ……………アヤト!!!しっかりして下さい!!!」
視界を制限する仮面を粗雑に投げ捨てて強く呼びかける。
意識はなく呼びかけに対する反応もない。上半身にはひどい火傷があるがこちらは最低限の対処がなされている。それよりも問題なのは全身に満遍なく広がる傷跡。
血は止まってはいるが肩から腰にかけて深い裂傷があり、骨は折れているならまだ良い方で粉砕している箇所が多数。腕は腱が切れているのか持ち上げてもダラリと垂れ下がってしまう。
一体何と争えばこんな怪我を負うのか、彼の身に何があったのか全く分からない。
弱々しい微かな呼吸に消え入りそうな脈動。
もはや風前の灯火。
けれど生きているのなら…わたしの祈りで助けられる!
「助けるっ!」
目一杯自分の…『聖女』の魔力を高めていく。
わたしが『聖女』となったのは今日この時のためだったのだと。
アヤトを死の淵から救い出すために、これまでの日々を『聖女』として過ごしてきたのだと。
そう信じて…
ーーザシュッ……
「……………………え?」
そう…信じたかったのに。
信じられたなら救われたのに…
わたしの意思ではない何者かが、わたしの右手を使ってアヤトの胸を貫いていて。
「嘘………やめて………」
引き摺り出した手のひらには、真っ赤な宝石のようなアヤトの心臓を握りしめていた。
「おねがっ……『対竜滅術式 勝利の加護:<赫怒>』」
願いを最後まで口にする事は許されず、代わりに自分のものとは思えない粘着質な声が訳の分からない式句を唱えていた。
ーパァァン………!!!
そして目の前にあったアヤトの心臓は跡形もなく弾け飛び、
青々しかった若草の絨毯は瞬く間に鮮やかな真紅で染め上げられ、
それにわたしの視界も血の海にどっぷりと沈んで、
でもこの惨状を作り上げたのは間違いなくわたしで……
「あ………ぁ…………」
アヤトの呼吸も、脈動も、拍動も、何もかもが止まっており、
魔力も、体温も、瞳の光も、何もかもが消えていき、
アヤトと過ごしたささやかな時間も、何気ない思い出も、陽だまりのような優しささえも、
大切な宝物だったはずなのに、
アヤトがわたしにくれた何もかもが、今はその全てが悉く崩れ落ちて、
時間の破片がわたしの心を突き刺すようで、思い出の破片がわたしの心を抉り取るようで、優しさの破片がわたしの心を毒で蝕んでいった。
「いやっ………!」
だからわたしは逃げた。
呪詛のように縋り付いてくる、悪夢のような光景から逃げた。
逃げて、
逃げて、
逃げて、
逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて逃げて…
気づけば、あんなに明るかった空が今は嘘のように灰色に満ちて、
雫が一つ、また一つと空から降り落ちてきて、
けれど降り注ぐ雨はわたしの服に、手に、顔に、びっしりとこびりついた血を綺麗に洗い流すことはなくて、
だからわたしは、
壊れた。
「ーーーあはっ………あははっ………あはははははっ………」
奇しくも、彼女が壊れたその場所は街の中心部であり、なおかつ彼女が『聖女』として恩寵を分け与えつ続けた多くの人々の衆目に晒される場所であった。
そんな彼らの視線には、纏わりついて離れない恐怖と畏怖が織り混ざっている。
「ぁ………」
血塗られた彼女に近づこうとする者は誰一人としていない。
それどころか異物を目の前にして戦慄くばかり。
「やめて……お願い………私をそんな目で見ないでっ………」
彼女は特別だから。
自分たち人間とは違う超常の存在だから。
彼女は天使に愛された『聖女』だから。
「誰か……助けて……誰でもいい………助けて………助けてよぅ…………」
望まない役目を背負わされた少女の儚い願いは、雨の音にいとも容易くかき消され、それを最後に少女の意識は幕を閉じた。
「やーーーっと、堕ちたわねぇ。ほんと強情な子。ーーーじゃあ、楽園の創造を始めましょうか……ね」
そして、血に塗れた修道服は脱ぎ去り、純白の翼と天使の輪を携え、自らの欲望に支配された『聖女』の意識が幕を開けた。
「『竜皇子の覇城:<武曲>』」




