頼義、百目鬼と目を合わせるの事
女人堂に温泉施設があるわけではなかったが、さほど歩かない距離に湯治場があるらしく、頼義は綾に手を引かれて湯元まで到着した。
着慣れぬ巫女姿からようやく解放され、湯に足をつけると頼義もここ数日足を棒にして聞き回った疲れが一気に吹き出たようで思わず
「ふう〜っ」
と腹の底から大きく息をついた。
「ふふ、随分とお疲れのようですね頼義さま、戻ったら綾が肩を揉んで差し上げますわ。父によくやっていましたからうまいんですよ、私」
袖をたすき掛けして湯のそばに座って待機する綾がクスッと微笑み見ながら言う。前に父がやってもらっている時にそばにいたことがあるのだが、世話好きで気の回る彼女らしい細やかな手つきで体を揉みほぐされて、あの謹厳実直な父が不覚にもその場で寝入ってしまったほどの腕前だった。頼義はちょっと帰りが楽しみになった。
「お綾、ちょっと湯に浸かります。湯帷子を脱ぎますので周りをよく見ていてくださいね」
そう言って頼義は身につけていた入浴用の麻の湯帷子を脱いでそのままとぷんと湯の中に首まで沈み込んだ。
「ま、お行儀の悪い。他人がいないからってもう!」
綾が頼義を見てたしなめる。現代と違ってこうした温泉はあくまでも「湯治場」であり、プライベートな空間ではない。なので湯に入る時も「湯帷子」という衣服を着用して入るのが普通であった。これが後に「ゆかた」と呼ばれるようになるのだが、頼義は人目のないのをいいことに邪魔な湯帷子を脱いで裸のまま温泉を満喫していた。
どうも頼義は湯に浸かると気が緩むのか、いささかはしゃぐ傾向があるようで、以前も湯に浸かる際はしたなく足を広げて寛いでいるところを世話回りをしていた坂田金平に叱られたりしたものだった。頼義は金平に裸を見られたところで少しも気にならなかったのだが、金平の方が逆に慌てるやら動揺するやらで世話にならなず、いつも顔を真っ赤にして怒鳴っていたのを思い出した。
そうこう昔話をつらつらと思い浮かべているうちに、頼義も瞼が重くなり始めうつらうつらとしてしまう。いけない、これではせっかく後の楽しみにとっておいた綾の按摩の前に寝入ってしまう。
「そろそろ出ます、お綾、支度を・・・」
そう言いかけた頼義が、一度湯から上がりかけて起こした身体を慌てて急に再び湯の中に沈めた。
「何奴!?」
突然叫ぶ頼義に綾が驚いて手にした桶を落とす。頼義は置いてあった湯帷子を無造作に手に取り、湯の中に入ったまま生地が濡れるのも構わずに急いで着込んで周囲を警戒した。
(見られている・・・!)
温泉に浸かって血が巡って温まった全身が緊張で一気にこわばる。目の見えぬ頼義は何処からともなく無遠慮に浴びせてくる無数の「視線」に自分が晒されているのを肌で感じ取っていた。何処にいるかも、その人数もまるでわからない。それでいてこれほどまでに明確に殺意を持って「見られている」という実感がある事に、頼義は今まで味わったことのない恐怖を感じていた。
(同じだ、あの時と・・・!?)
頼義は中禅寺湖で起こった惨殺事件の時に感じたあの不可思議な「視線」と同じ感覚を今再び味わっていた。
「綾、こちらへ!気をつけて、何処かに人の姿は見えますか!?」
「えっ、人!?人なんてどこにも・・・うひゃあっ」
主人のあまりの剣幕に驚いたまま立ち尽くしていた綾は慌てて頼義の元に近寄ろうとして足を滑らせて着の身着のまま盛大に湯の中に落っこちた。派手に水しぶきが飛び、湯気がもうもうと視界を曇らせる。
「綾!もう、何やってるのよバカ!大丈夫!?」
「あぶ、あぶぶぶ」
なんだかよくわからない言葉を発して綾が水中から顔を出す。
「あち、あちちちち、頼義さまひどーい!!」
何の準備もなくいきなり熱い湯の中に飛び込んだせいで、綾は白い玉の肌を真っ赤にさせながら文句を言う。頼義はそんな彼女をかばいながら周囲の警戒を怠らない。
「怪我はない?もう、なんか私よく風呂場で襲われる気がするなーっ!!」
誰に言うでもなく頼義は悪態をついた。以前も箱根の温泉で湯に浸かっている時に謎の襲撃者に無防備なところを闇討ちされた経験がある。よく考えてみれば、もし自分が不意をついて襲うなら装備を解いて丸裸の状態であるこの瞬間を逃すはずがない。当たり前のことに今更気がついて、頼義は同じ過ちを二度繰り返した己の馬鹿さ加減に舌打ちした。もう金輪際風呂場で不覚を取らないように次からは太刀持参で湯に入ろう。こんなギリギリの緊張感の中、そんなくだらない考えが頼義の頭の中を横切って行った。
「綾、しっかりして、周囲をよく見て!どこかに何かが・・・絶対いる!!」
綾の肩を掴んで頼義が叫ぶ。
「なななな、何かって言ったってどこにも・・・」
湯あたりしてのぼせた頭で綾は必死になって周囲に異変がないか見回した。そしてそれはすぐに見つかった。
「へ・・・?」
湯の周囲を覆い隠すように生い茂っている躑躅や木蓮の木々が、沈みかけた夕陽の赤い光に照らされて浮かび上がっている、その葉の一枚一枚に・・・
びっしりと貼りついた無数の目玉が一斉に綾に向かって視線を向けた。
「きゅう」
と間抜けな声を出して卒倒した綾は、白目を向いて湯の中に崩れ落ちて沈んで行った。