大団円 源頼義、帰路に着くの事(その一)
まだ日も明けたばかりの空に、終わりゆく夏を惜しむような蝉の音が響く。
旅支度を整えた源頼義と家臣の佐伯経範は見送りに来てくれた面々にこちらもまた名残を惜しみながら最後の挨拶をしていた。見送る側の誐那鉢底法師はネズミの小さな身体を影道仙の手に乗せてもらって頼義と同じ目線の高さで彼女の挨拶を受け取っていた。彼女の隣には父の名跡を継いで新たに「国定」を名乗ることになったあの上州百足党の少年が凛々しい眉を少し寂しげに緩ませながら口元をキュッと閉ざして無言のまま立っている。
「この度は、まこと御坊にはお世話になりっぱなしで。この頼義、ご恩は生涯忘れませぬ」
「なあに、気にするほどのことでもないわい。いやそれは構わんのじゃが、お礼を言いながらワシの頭をなでなでするのはどうかと思うぞい」
「あ、ごめんなさいつい本能的に」
「じゃから唐葵の種を差し出すでない。ワシはそんなものにもぐもぐもぐ」
「食べるんだ」
影道仙のツッコミに法師は我に返って咳払いをする。
「しかしのう、お前さんには気の毒をした。このままお前さんを後ろ指差されたまま送り出すのはたいそう気がひけるのじゃが、無力な我らを許してくれい」
「なんの。この国の平和が守られるのならば私の名声など如何様に落ちたところでさして気に病むほどの事でもございますまい」
頼義は快活に笑って法師の謝罪を受け流す。事の発端である上野介名代の殺害については結局そのまま当事者である平国周卿の狂死によって、彼の乱心による殺害事件として片づけられてしまった。もう一つの件、女人堂看守である天陣和尚殺害については第一の容疑者であった源頼義が脱獄するという不祥事に下野国府が一時騒ぎ立てたものの、下野国分寺にも顔がきく誐那鉢底法師の証言によって「一応」彼女の容疑は晴れた形になった。
とは言うものの、獄を脱したという事実には変わりは無く、その一件について改めて取り調べを行うために国府への出頭を命じられていたのだが、そこに隣国常陸国の実質的な国主である常陸介源頼信卿からの横槍が入った。
「此度の一件については我が国の者の仕業という事。その者の処罰は本国にて行う故その者の身柄は当方にてお預かり致し候。被害の補償については当方が責任を持って致しまする」
という一文とともに下野国の各所に盛大な付け届けが送られて来たために、役人たちはこの件は解決したものとして即座に忘れ去ってしまった。天陣和尚を殺した下手人は、公式の書類上では判明する事なく逃げおおせた、という事になっている。頼義への追手もパタリと止んでしまっていた。
無論、役人たちも市井の人々も、この常陸介が容疑者である源頼義の実の父であるという事は知っている。心ない人間は父の威を借りて強権を発動して逃げた卑怯者、と頼義を誹謗する者も多かった。事実か否かは知らず、それでも悪評というものは流行り病のように次々と巷間に伝わり広がっていくものである。いつしか噂はまるで事実であるかのように広まり、今では
「源氏の御曹司が我が国で人を殺めておきながら、父親に泣いてすがって罪を無かったものにしてもらい、のうのうと大手を振って帰国して行った」
という風評が定着してしまっていた。
「いやはや、身を挺してこの国を鬼の襲来という危機から守ってくれた恩人に対してこの仕打ちじゃ。どうか連中を許してやってくれい。いつかお前さんの名誉が回復される日も来るじゃろうて」
法師が申し訳なさそうな口調で謝罪の言葉を口にする。
「御坊、先ほども申しましたがお気に病む事はございませぬ。人の噂も八十八夜と申します。そのうち皆も私の事など忘れてしまうでしょう」
「・・・今のはボケたつもりかの?」
「ボケたつもりでしたが、なにか」
「・・・いやええわい。お前さんのそのノリが時々ようわからんくなるわい、チチチっ」
いつもの歯擦れのような笑い声を聞いて頼義も再び笑顔を見せる。
「国定どの。私の未熟ゆえにあなたに多大な労苦を背負わせてしまった不明をお許し下され。もし上州にて事ある時はこの頼義、一命を賭して駆けつけますゆえ、その時は遠慮なくお呼び付け下され」
少年の顔の高さに合わせて膝を折った頼義は少年国定に向かって礼がわりの謝罪の言葉を述べた。少年は口をきっと結んだまま無言で頷く。
「とは申せ、宿願であった『袮々』は晴れて討伐できたのだ。これからは一族も平和な暮らしに戻れよう。六百年の執念、いや徹心、心より称賛いたす」
佐伯経範が深々と少年に頭を下げる。月の駆け落ちたこの時期の経範は実に穏やかで紳士的である。できれば頼義はこの時期の間だけ出仕してほしいものだと苦笑いする。
「いや、これで終わりではないんです」
その経範の言葉に水を差すような形で影道仙が口を挟んだ。
「終わりではない、とはどういう・・・?」
頼義がその言葉尻を捉えて聞き返す。
「袮々とは・・・個体を指す名称ではない、という事です」
そう説明する彼女の言葉はいつもの影道仙らしからぬ、冷ややかで苦渋に満ちたものだった。
「それは・・・どういう意味だ?」
経範の疑問に答えたのは誐那鉢底法師だった。
「言葉通りの意味よ。『袮々』とはアレ一体を指し示す名ではない。あやつの前にも『袮々』はおり、あやつの後にも『袮々』はやって来るじゃろうて。あの『補陀落』の深淵の穴からな」
「そんな・・・!それでは国定どのや百足党の方々の犠牲は・・・」
「無駄ではない、無駄ではないぞ決してな。この六百年、幾たびとなく彼らは『袮々』を追い返して来た。この先何百年もまた変わらず『袮々』を迎え撃つ事であろう」
法師の淡々とした説明に頼義は言葉を詰まらせる。それではあの時彼らがやった事も、自分がした事もほんの一時「深淵」からの来襲を凌いだだけに過ぎなかったということか。
「案ずる事はない。袮々は再びやって来るやも知れぬが、いつかはそれも止むじゃろうて」
曇った顔を崩さない頼義を慰めるように法師が言う。
「地下に穿たれた『補陀落』の穴には今も休む事なくあの中禅寺湖の水が流れ続けておる。お前さんも見たろう、あの滝を。あの水がいずれ地下の世界を満たし尽くした時、『補陀落』も水の中に沈む。さすれば『深淵』へと通じていた穴も閉ざされる事になろう。何十年何百年、どれくらい先の事かはわからぬがな」
「そう、なのですか・・・?」
「そうじゃ。あの地下の『中禅寺滝』こそが戦場ヶ原を駆け抜けた二荒山の大蛇の正体じゃ。世を悩ます悪鬼羅刹を百足が討ち、大蛇が鎮める毛野国一世一代の大仕掛けよ」
「!!」
「チチチっ、まあそういう事じゃて、だからお前さんも安心して国に帰るが良い」
「そうですか・・・」
「ああ、お前さんには感謝しとるよ。袮々に代わって礼を言うぞい」
誐那鉢底法師が影道の手の上でペコリと頭を下げる。法師の奇妙な言葉を受けて、袮々の断末魔を前にしたあの時の光景が頼義の脳裏にも思い起こされた。