頼義、袮々切丸を振るうの事(その三)
彼女の体力はとうの昔に尽きていた。それを全身を巡る激痛を燃料として無理やりに動かしていたに過ぎない。だがその空意地もあと数歩の所で燃え尽きた。膝から力が抜け、支えていた「袮々切丸」の重みに耐えかねて体が崩れ落ちる。
「・・・!!」
崩折れる頼義の身体をあの百足党の少年ががっしと支えた。少年も満身創痍で血の気の引いた凄惨な顔立ちのまま、それでも最後の気力を振り絞って彼女を支える。だがその少年の気力があってさえもそれ以上に進む力は残っていない。
ビキビキと音を立てて百足党の足止めの結界が軋む。誐那鉢底法師を人質(鼠質?)にしたまま、袮々は寝汚く最後の抵抗を試みる。その甲斐あってか、不破の結界が少しずつ綻びを見せ始めていた。
「おりょりょりょりょ、なんというヤツじゃい、連中の六百年の執念をも上回るかいよ。こりゃあたいした往生際の悪さじゃあ」
どこまでも法師の口調は他人事のような能天気ぶりである。今し方頼義が袮々を自分ごと斬ろうとしていた事など毫ほどにも気にかけていないようである。
バツン、という乾いた音を立てて何かの機能が停止した。袮々を封じていた六芒星の魔方陣は先ほどよりも輝きを失い、それに伴って祢々を縛っていた力場の拘束力も徐々に弱まってきていた。頼義たちはまだ動けない。
このままでは袮々は結界を破って逃げ多せてしまう・・・!
「ふんっ!!」
佐伯経範が頼義たちの背後に回って「袮々切丸」の大身の刀身を肩で支える。月の欠けた状態で満足に復活できていない経範の全身から治りかかっていた傷口から再び出血が始まる。血が足りないせいか冷たくなった指先をそれでも懸命に奮い起こして経範は刀身を手掴みにして肩抱きに持ち上げる。経範が支えた分だけ頼義の負担が軽くなり、彼女は再び震える膝に力を込めて立ち上がる。
再びバツンという音が響き、袮々がその上半身の自由を取り戻した。
一度は立ち上がった頼義だったが、ガクガクと笑う膝は彼女の体重を支え切れず再び崩れかかる。
半身とはいえ自由を取り戻した袮々は、あろうことか今度は動かない自分の根元を喰らい始めた。自由にならない部分を切除し、たとえ身体が半分に引き裂かれようとも逃げおおせるべく、袮々は己の身体を貪り喰らう。
「あさましや。生きんがために自分の身体を喰らうとは本末転倒もいいところじゃ。そうまでして生きたいか、袮々よ。そうまでして『彼方』の救いを欲したか」
誐那鉢底法師の言葉には挑発的なニュアンスは無く、むしろ憐憫を込めた優しささえ感じられた。
(救イ?救イトハ何ダ?我ハ・・・『彼方』二何ヲ望ンダ!?)
激痛とも虚無ともつかぬ感覚の中で袮々は自問する。そもそも自分は何を望んであの『深淵』から這い出ようとしたのだ?この地上において虚しき日々を過ごしていたのは何を願っての事だったか・・・?混乱する。思考が定まらない。何を。何を。何を・・・?溢れ出る自問自答の嵐に思考を埋め尽くされた袮々の前に
源頼義が立っていた。
(・・・・・・・!!??)
再び力尽きようとしていた頼義を最後に支えたのは影道仙だった。よろめく彼女の身体を抱きかかえ、後ろで太刀を支える経範と呼吸を合わせて歩みを進めた。今や頼義たちは四人がかりで「袮々切丸」という神輿を担ぐ神官たちのような風情ですらあった。側から見れば滑稽にすら写る彼女たちのその必死の頑張りが、ついに彼女たちを袮々の前に立たせた。
頼義にも、少年にも、経範や影道仙にももうはっきりとした意識は残されていない。ただ本能的に彼女らは掲げていた大太刀を立て、その大重量に任せて袮々に向かって振り下ろした。
技術でも何でもない。ただ四人がかりで支えた太刀が自然のままに倒れかかる。それだけの事だった。ただそれだけで、「袮々切丸」の巨大な刀身はその刃を袮々の胴体に食い込ませ、まるで薪を割るかのようにものの見事に袮々を真っ二つに斬り裂いた。
あるいは、袮々が最後と覚悟を決めて逆に襲いかかっていればまた別の結果となっていたのかもしれない。またあるいはその身に縛り付けていた誐那鉢底法師を盾にして差し出せば彼女たちに一瞬ためらわせる隙が生じたかもしれない。
だが悲しいかな、袮々は逃げた。その刃から、頼義から、鬼狩りの将と戦うという宿業から背を向けて逃げ出した。
(私ハ・・・ココカラ逃ゲタイノダ!!!)
袮々の思考はもはやそれだけに埋め尽くされていた。逃げてどうしたいのか、などという先の事は考えもつかなかった。ただいまこの場から逃げたい、それだけが今の袮々の欲する全てだった。
だが、その願いも今虚しく潰えた。
「袮々切丸」に斬られた断面から袮々の身体は黒い炭の粉となって風に吹き飛ばされて行く。全身を覆っていた「百目鬼」の目玉もその統制を失ってバラバラとこぼれ落ちる、地面に落ちたその目玉は何が起こったのかと不思議そうに周囲をキョロキョロと見回していた。
「御坊、ご無事で」
頼義が地べたに転がって腹を見せている誐那鉢底法師に足を引きずりながら近づいて声をかけた。
「おう無事じゃい。酷いやっちゃのう、ワシごと袮々をぶった斬る気マンマンじゃったろお前さん」
「申し開きは致しませぬ。如何様にもご叱責を」
「ぬかしおるわい。ワシは『意成身』、どこにでも姿を現し、いかなる障壁をも妨げられる事の無い空の身じゃ。袮々ごときに縛り付けられるワシでは無いわい、あんなもんいつでも抜け出せるというものじゃ。お前さんはじめっからわかっとってやったろう」
少し忌々しげにそう語る法師に、頼義はこの日初めて笑顔を見せて返した。
「Neeeh,Neeeeeeeeh・・・」
疲労困憊で動けぬ頼義たちの耳に、袮々の断末魔の声が響く。その不快な声もやがて小さくなり、いずれは消えて行くのだろう。
頼義は痛む全身を押してその泣き声の元に近づいて行った。
地面に散らばった百目鬼の目玉が一斉に頼義に視線を集める。その中心で最後の足掻きに身悶えする袮々の半ば炭の粉と化した身体に頼義が語りかける。
「痛いか、苦しいか、袮々よ。鬼よ・・・」
炭の粉となった袮々はもう鳴き声を発する事もできない。
「そうまでして欲したか、我が身を。我が内にある『彼方』への『道』を」
もう袮々の残骸は何も答えない。
「ならば・・・お行きなさい。我が身の『道』を通って、あの『彼方』へ」
頼義の思いがけない一言は、たまらなく慈愛に満ちたものだった。