袮々、絶体絶命の事(その一)
「法律だと、道徳だと、信仰だとお・・・?知らぬ、そのようなもので己を縛りつけて何になる?己のするがままに生きられぬ世界に何の価値がある、くだらぬ生き物よ、人間とは」
嘲るように袮々は誐那鉢底法師の言葉を嗤う。それを見て法師は逆に我が意を得たりといった満面の笑みを浮かべた。
「矛盾しとるのう、お前さん。なればなんでその自由気ままな『深淵』の世界よりこの世に現れんとする?さらに高みを求めて『彼方』にまで手を伸ばそうとする?好き好んでくだらぬ人間の世界に飛び込んできたお前さんは大バカ者か?」
「口の減らぬネズミ坊主よ。知れた事、このくだらぬ人間世界も我らが故郷と同じ色に染めるだけのことよ。一切の束縛のない、真の自由なる世界にな」
「ふん、食いたい時に食らい、犯したい時に犯し、殺したい時に殺す。まさしく鬼の所業よなあ。のう嬢ちゃんや、お前さんなら散々目の当たりにしたじゃろう。そういった手合いがいかなる末路を辿っていったものか」
法師の言葉に頼義は頷く。我欲に囚われて「深淵」の邪悪な力に手を染めて鬼となった者たちと彼女は幾人も遭遇してきた。その中には自分が敬愛した人物も多くあった。そういった尊敬に値する人でさえ「深淵」に交わり鬼となったその果ては見るに耐えぬほどの悲惨な最期を迎えていった。
白き者をも暗黒に染め上げる「深淵」の悪意を頼義は決して許さない。
「何とでもほざくがいい。お前らにはこの身の素晴らしさが分からぬ。一切の束縛のないこの身軽さ、自由さ、我が何を成そうとそれを止める者はおらぬ。源氏の子、貴様をいかに嬲り、犯し、食らい尽くそうともなあ」
袮々が下品な感情を満面に浮かべて笑う。亡き父の顔でそのような冒涜的な行為をする袮々に百足党の少年は激高する。
「黙れ!父上をそれ以上侮辱するな、侮辱するなあーっ!!」
少年の目に涙が浮かぶ。怒りの涙である、屈辱の涙である。まさに袮々は己が言うように好き気ままに少年の心を存分にいたぶっていた。
「イキるな雑魚よ。己が何者かも理解せぬお前さんにこの子を侮辱する力なぞ無いわい」
影道仙の腕の中で踏ん反り返っていた誐那鉢底法師がストンと着地してチョコチョコと短い足を前後させながら少年のもとに近づく。
「何も束縛するものはないとお前さんは言うたな?そりゃそうじゃ、お前さんは何者でもないからの」
「はあ?」
法師の言葉に袮々はポカンとした顔をする。
「お前は『風』じゃ。ただそこにある生命エネルギーというだけの、何者でも無い、何者にもなれない哀れな空気、それがお前の正体じゃ、袮々よ」
法師の言葉の意味が理解できず、袮々も頼義も、法師のそばにいた少年もみな一様に不思議な表情になった。
「『風』とは生命や意識を司る力の源泉という意味です。人間の身体の中ではその『風』は全身に張り巡らされている『脈管』と呼ばれる回路を通って生命活動を送るための力となって循環している。それが西藏仏教における『死と生』の概念の基本です」
誐那鉢底法師の言葉を補うように影道仙が説明を加える。
「おう、よお知っちょるのう。乳だけではなく脳みそもみっしり詰まっておるようで感心感心」
「いやあん、セクハラですう〜」
法師の褒めているのかセクハラ発言なのか分からない言葉になぜか彼女もまんざらでも無いような表情でクネクネと体をよじらせる。
「そういうことじゃ。人は死に際してその『風』が集まり、『中央脈管』と呼ばれる中央の『脈管』から解き放たれて肉体を捨てる。その瞬間に我ら僧伽の導きを得られなかった『風』は肉体から離れることができずに再び逆流し左右にある別の『脈管』から出て行く。こうやって中途半端に肉体を離れた『風』は『中有』という、生きても死んでもいない曖昧な存在と化してしまう。それがお前じゃ、袮々よ」
「・・・・・・」
「そのさまよう幽体になってもまだ五仏尊の試練を潜ることが叶えばあるいは解脱に至ることもできたろうに、お前はそれすらも得られなかった。ただひたすらに己の業に囚われて悟りを得て『彼方』へ到達する事もかなわず、六道輪廻に回帰する事もできずに『深淵』へと落ちて鬼となった。哀れなものよのう、お前が人を殺してまでも欲していた『彼方』への道筋を、お前は自身の手で無下にしたのじゃ」
「偉そうに説教を垂れるなよ生臭坊主が、貴様ごときに何ができよう!その薄汚い面、今ここで食いちぎってくれよう!!」
「だーからイキるなっちゅーとるじゃろがい、その百足党の親分さんの身体を乗っ取った時点でお前さんはもう詰んどるんじゃよ」
「なにを!」
「だったらその身体一寸でも動かしてみい。できまいよ。国定は初めっからお前さんを自分の身体に繫ぎ止めるべくあらゆる仕掛けを己に仕込んでおった。あれほど未練がましく言い訳しながら事あるごとに施術から逃げておった臆病者が一度覚悟を決め込んだらそりゃあもう立派なもんじゃったわい」
「ちちうえ・・・」
誐那鉢底法師の言葉を聞いて少年は唇をキュッと噛む。
「少年、誇るが良い。お前さんのお父上はこの上なくヘタレじゃったが、実に根性の入った最強のヘタレじゃったぞい」
「それ、褒めてるんですか?」
頼義と影道仙が同時に言った。
「褒めちょる褒めちょる。じゃからのう、最後はお前さん方『上州百足党』がカタをつけてやらんとのう」
ネズミの姿をした法師が少年を促す。少年は意を決して袮々の身体から抜け落ちた自分の愛刀を拾い、父の姿を模した仇敵にとどめを刺すべく近づいた。
「やめ、やめよ!父を殺す気か!?この大罪人のうつけめが!」
国定の肉体に縛られた袮々は女人堂に仕掛けられた結界と相まって本当に身動き一つ取れないようである。さらに少年が袮々に近づく。
「やめて、やめくれ・・・ころさないで、息子よ・・・」
袮々が国定の声で哀切を漂わせながら懇願する。両目から涙がこぼれ落ちる。それに呼応して全身に点在する百目鬼の目玉も涙を流した。
「やい」
少年が一言つぶやく。
「父上なら、オイラの名前を言ってみろ」
「は・・・は?」
袮々がポカンとした顔を見せる。
「言えないだろ。お前は・・・父上じゃないっ!!」
叫びながら少年は袮々の身体に深々と刀を突き立てた。