誐那鉢底法師、袮々に説法を聞かせるの事
「百足衆が必死こいて仕掛けた罠にまんまとハマって身動き一つ取れん阿呆がようほざくわ。大人しく深淵に帰るが良い、形なき者よ」
影道仙に抱きかかえられながら誐那鉢底法師が厳かな口調で袮々に降伏勧告を告げる。紫の法衣にご丁寧に錦の袈裟まで身につけたネズミ・・・もとい、自称齧歯類の法師が語る姿は、まるで悪趣味な戯画のような奇妙な非現実感を見る者にもたらした。
「よっちゃんよっちゃん驚きです!よっちゃんが言ってたありがたい御坊様の正体がまさか『鉄鼠』だったとは思いもよりませんでした。妖怪図鑑に載ってた姿そのまんまです。しかもモコモコしててあったかい、むしろ夏場に抱っこするには暑いです」
影道がどんぐり眼をくりくりさせながら興奮した口調でまくし立てる。その説明に懐にいる当の本人はいたくご不満の様子だった。
「鉄鼠とはなんじゃい失礼な。ありゃあ堕落した坊主がネズミになった妖怪じゃ。ワシはネズミが一所懸命に修行して坊主になった『意成身』なんじゃ、偉いんじゃ」
「やっぱネズミなんだ」
「ああしまった自分で言っちゃった」
自ら墓穴を掘った誐那鉢底法師が頭を抱える。すみませんもうちょっと緊張感持ってもらえませんか。頼義は場にそぐわぬ二人の気の抜けた会話にゲンナリする。
「アレですね、『意成身』とは死して肉体から抜け出した魂魄のまま解脱への前準備として成る第三の光明、ヴァーサナーとも習気とも呼ばれる『自由自在』の段階に至った菩薩さまのことですね。その状態の時はあらゆる障害物をもすり抜け、またどんなに遠い場所へも意のままに一瞬で到達できると言いますが、今まさに私を引き連れて地下世界からひとっ飛びに地上までテレポーテーションしたわけですね。すごい、アンビリーバボー!!」
「じゃから言うたろい、ワシぁ偉いんじゃ。ふんふんっ」
「やかましい!!お前がネズミだろうがマーモセットだろうがどっちでもいい。邪魔立てするな坊主!!」
自分を無視して異種間漫才を始めた二人に痺れを切らして袮々が口を挟んだ。
「大人しくその源氏の小娘を渡せ。そやつの中にある『道』さえくぐらせてもらえば貴様らにこれ以上ちょっかいは出さぬ。この国からも去る。悪い取引ではあるまい?」
「マーモットじゃいマーモット!マーモセットじゃサルじゃろがい。真面目にやらんかい真面目に、こんな状況でいらんボケかますでない」
同じ言葉をアンタにも言いたい。喉元まで出かかったが頼義はその言葉をぐっと飲み込んだ。
この女人堂には袮々の動きを封じる仕掛けでもしてあったのか、国定の姿をした袮々は根が張ったようにその場から動けないでいる。しかしそれならば天陣和尚のフリをして女人堂に居座っていた時点でその身は封じられていたはずだ。
焼け焦げた家屋の床面の下から青白い燐光がかいまみえる。その光は筋を描いて女人堂の軒下いっぱいに張り巡らされて、何かの模様を成しているようだった。なるほどそういうことか。上州百足党の一族はこの女人堂の下に袮々を封じるための魔方陣を仕掛けておいて、いざ現れたという時に上に建っている家屋を壊して魔方陣を発動させる仕掛けであったか。図らずも袮々は頼義を陥れるために女人堂を焼き払うことで自らを封印する罠を呼び起こしてしまったという事になる。
「さて嬢ちゃんや。お察しの通りここが正念場じゃ。この円環の封じ場に止めておる限りいくら大口叩いておっても奴はもう動く事はかなわん。しかし取り憑いている人間を殺せばまた元の肉の身を持たぬ存在となって逃げおおせてしまう。手詰まりじゃな」
「そんな、それでは袮々を封じる方法がないではありませんか」
法師の言う通りまさしく袮々を仕留め切れるか否かという瀬戸際にいるはずなのに、なぜか頼義は不思議と心の余裕を感じられるようになっていた。誐那鉢底法師の言葉で気の抜けた空気が伝染したか。それとも、この柔らかい雰囲気を場にもたらす言葉こそが法師どのの最大の法力かも知れない。
「御坊、そもそも此奴は何者なのです?身体はない、だが意識はある。しかしそれは他人の身体を乗っ取らねば表には現れない。ならばこやつは取り憑く肉体がなければ存在しないのと同じではありませんか」
頼義の問いに法師は答える。
「言うまでもない、お前さんはとっくに知っておるじゃろ。深淵から暗き『道』を開いて現世に顕現する存在を」
「では・・・」
「左様、『鬼』じゃよ。異界からこの世の温もりを欲してこちら側へ這い出ようとする邪悪な存在じゃ」
法師の言葉に反応したか、魔方陣の中心で国定が吠える。
「傲慢な!ただそこにおると言うだけで邪悪と決めつけ排除する貴様らこそ下劣で邪なケダモノよ!!あの世界の恐ろしさ、暗さ、冷たさ、それを知らぬ貴様らに我らの何がわかる!」
「だまらっしゃいこのアンポンタンのステポテチンめが!!貴様その手で何人の人を殺めた!?境遇を言い訳に己が罪を許されると思うたか!」
誐那鉢底法師の小さな身体からどのようにしてこれほどに気迫のこもった大音声が出せるものなのか。まさに獅子吼一閃、その一声に袮々はその場で硬直してしまった。
「お前さんが見てきた世界、生きてきた空間の事はよおーっくわかっちょるよ。あそこにはまこと何も無い。ただ空虚と寒さがあるだけじゃ。そんな所に生き続けておれば生の温もりを求めて迷い出てくる気持ちもわからんでも無い。じゃがな」
誐那鉢底法師が弟子に説法でも説くかのように静かな口調で語り始める。
「この人間世界にはのう、守らねばならん社会規範というものがあるのじゃ。それを守る事で人は初めて秩序ある社会生活を送ることができる。それを守る事のできん者は人間の社会で生きる事は許されぬのじゃ」
「・・・シャカイキハン、だと?」
「そうじゃ、すなわち『法律』『道徳』『信仰』、この三つじゃ。人間はこの三つのうちのいずれかを遵守することによって己を律し、お互いに秩序と平和を確かめ合う。それこそが人間を万物の長たらしめておる根幹なのじゃ。そしてこの三つの社会規範はいずれも・・・人を殺すことを許しておらぬ」
「・・・!?」
「あるいはとある宗教において異教徒を殺す事を是とする教義があったとしても、法律はそれを許さん。また国家間の戦争において法律が人を殺す事を是としても道徳がそれを許しはすまい。そういうものなのじゃ。それを許せば人なぞはたちまちケダモノ以下の地獄の鬼と化そうぞ。この地上も貴様のおった『深淵』と何一つ変わらんくなる。わかるか鬼よ、それこそが人と鬼とを分ける一線じゃ」
「な・・・な・・・」
「じゃからのう、己の目的のためにいとも容易く人の命を掠め取るお前さんを許すわけには参らんのじゃ。袮々よ、哀れな鬼よ、己が罪を悔いて深淵へ帰れ」