地下世界、補陀落彷徨の事(その二)
石扉の向こうに広がる空間は思いの外広いように頼義には感じられた。風が頬を撫でる。空気の流動がある程度には空間が広がっているらしい。しかしその広さが逆に災いして手元の灯りが壁面に反射しないために周囲は真っ暗なままその全体像を伺い知ることはほとんどできない。
「ここを進むのか・・・?流石にちと足元がおぼつぬかぬな」
佐伯経範が呟く。「人虎」である彼は通常の人間よりもネコ科の動物に近い空間認識能力を持っているのだが、その彼でもこの暗闇を進むのは少々難儀するようだ。地下水が浸み出しているのか、地面も水に濡れてぬるぬると滑りやすい。今まで壁に手を当てながらおっかなびっくりついてきた影道仙も不安な表情を隠せない。
「では進みやす。くれぐれもお足元にご注意を・・・」
「ちょっと待ったあ!」
国定の合図に大声で影道仙が待ったをかける。その声は壁に反射することなく虚空に散って行った。
「ここは一番、このポンちゃんにお任せあれい。えへん、こういう時こそ便利で物語に都合の良い陰陽師サマのお出ましですよ、えへんえへん」
先ほどまでの憔悴ぶりをおくびにも出さず、影道仙がつとめて明るい声で何かを訴える。空元気ではあろうがどうやらもう心配はないようだ。その彼女に何やら提案があるらしい。
「来たれ大日如来よ、その威光でもって照魔の光明となさん。唵、毘盧遮那仏、光明を放ちたまえ、吽!」
掛け声と共に影道の掌の上に蛍のような小さな明かりが灯る。そのか弱い光は音もなくふらふらと上空へと舞い上がって行き、程よい一点で動きを止めた。
「オン アボキャ ビローチャナ マカホダラ マニハドマ ジンバラ ハラバリタヤ・・・ウンっ!!」
影道の唱える真言に呼応して、空中の光が音も無く強烈な光を放った。周囲はたちまち真昼のような明るさに照らされ、それまで暗闇に慣れていた頼義たちの目は突然現れた強烈な光に順応できずに反射的に目をつぶった。
「ちょ、ちょっと・・・!光、強すぎ!!」
経範が思わず叫ぶ。夜目の利く彼は人一倍今の光の衝撃が強かったと見える。
「おっといけない、はいはい今ちょうど良いくらいな感じに調整しましたよ〜。どうです。これなら安全に進めるでしょう」
目の眩んだ国定たちがようやく明るさに慣れ始めて恐る恐る目を開ける。そこには影道仙の魔術によって照らし出された地下世界が煌々と写し出されていた。
「おおっ!!」
初めて地下世界を目の当たりにした経範と天陣和尚が驚きの声をあげる。それ程までに今目の前に姿を現した「補陀落」という地下空間の景色は眼を見張るものだった。
天井こそ高くはないものの、奥行きは向こうが見通せぬほどに広い。まるで地平線のように遠くの景色が横一線を描いて消失している。濡れた地面はところどころ不規則に隆起したり落ち窪んだりと起伏に富み、場所によっては底が見えぬ程に深く切り立った箇所もあり、ここを暗闇で進む事の無謀さを改めて思い知らされる。
「ほう、これは確かに便利な。手前どももここの全容をこうしてみるのは初めての事で。なるほど、補陀落とはこのような姿をしておったか・・・」
国定たち「上州百足党」の面々も勝手知ったるはずの地下世界の全容を改めて見た事で驚きの声をあげていた。国定の隣にいた百足党の少年も驚きの目で周囲の景色と影道仙とを交互に見比べている。
「これは、この建ち並び・・・これでは完全に一つの『クニ』ではないですか。地下世界がこれほど本格的なものだったとは・・・」
頼義も想像以上の地下世界の発展ぶりに驚きを隠せなかった。道があり、道が建ち並ぶ。これだけの設備があればあるいは地下で暮らして行くことも本当に可能なのかもしれない。驚異の目で周囲を観察する頼義に影道が大威張りでふんぞり返る。
「これ一個で二時間・・・一刻ほどは保ちます。進みながらまた次の明かりを打ち上げましょう。帰りはこの子が帰路の目印にもなってくれるでしょう」
「ポンちゃん、すごい・・・」
説明を受けた頼義が賞賛の声をあげる。
「そうでしょうそうでしょう。この影道仙女サマの偉大さをようやくよっちゃんも自覚しましたね。えへんえへん」
「ポンちゃんの術が暴走しないでちゃんと機能するの初めて見た」
「なんですとーっ!?人をまるで何かするたびに失敗しては周囲に迷惑をかけるポンコツ魔法使いのように言わないで下さいっ、デュカスの交響詩じゃないんですからー!」
頼義にからかわれてぷりぷりと怒りながら影道が次の明かりを飛ばす。すると先ほどまで頼義たちがいた方角からポンっという音が弾けて強風が一行に吹き付けた。と同時に一番最初に灯した魔法の灯りがふっとかき消え、元の暗闇を取り戻していた。
「んー?大丈夫大丈夫、ごく稀によくある事です」
どっちなんだよ、とはツッコマナイゾ。突風に吹き飛ばされないように必死でみんなしてしがみつき合いながら、頼義は心の中でだけそう呟いた。
「いやまあ、帰り道の心配はともかくこの明かりはありがたい。こいつのおかげでどうやらやつの足取りを追うことができそうだ。ほら」
膝を折って地面に顔を近づけていた佐伯経範が鼻をクンクンさせながら地面に残ったわずかな血痕を探り当てていた。
「この血と私の鼻でなんとか追跡が可能でしょう。ふふ、犬ほどではありませぬが『虎』の嗅覚もなかなかどうして狩りには役立ちますぞ」
そう言って経範がニヤリと笑う。かつてこの人物が「虎」に身を変じて大暴れしたところをまざまざと見せつけられた百足党の面々はそれ聞いて身震いさせた。
「この先ですな。遠くで大きな水音が聞こえまする。奴め、水で流して血痕を消すつもりか」
経範が先導して歩みを進める。その後ろを頼義たちが慎重に歩いて行く。やがて並んでいた建物が途切れ、自然のままの岩肌が露出しだしたあたりまで来た頃には頼義たちの耳にも轟々と水の流れる音が耳に響いてきた。
「むう、いかんな。やはりあやつめ、ここで一旦水に浸かって血の跡と匂いを消していった様子。この先は私では追えませぬな」
足を止めた経範が無念そうに呻く。一行が行き着いた場所は斜めに走った壁の表面を走るように地下水が流れ落ちる地底の大滝だった。水の勢いは存外に早く、流れた先は真っ暗闇の奥底に落ち込んで深淵の果てに降り注いでいるのが音で聞こえる。このさらに下にはどうやら地底湖が存在するらしかったが、その姿はここからは見ることができなかった。
滝壺には古い簡素な社が建てられ、いつ、誰がお供えしたのかもわからぬ枯れた榊の枝が申し訳なさげに瓶子の口から頭を下げている。
「ここはこの『補陀落』と地上とを結ぶ神聖なる土地でやして。地上のものが神社仏閣にお参りするように、手前どももこの滝を神聖なものとして崇めておりやした」
国定たちが滝に向かって恭しく頭を下げる。それに倣って頼義たちも滝の神威に対して一礼をする。
「ここは、地上ではどの辺りに?」
頼義の何気ない質問に、国定は驚くべき答えを放った。
「この滝の名は『中禅寺滝』と呼ばれておりやす」