中禅寺湖、朱に染まるの事(その三)
(どうめき?どうめきとは何だ?)
聞きなれぬ言葉を耳にして、頼義は眉をひそめた。どうめき・・・頼義の知らない言葉だが、不思議にどこかで聞き覚えのあるような響きだった。
「失礼、どうめきとは一体何の事でござろうか?」
思い切って頼義は今その言葉を口にした役人に尋ねてみた。男はその名を語るのも恐ろしいといった風で歯をカチカチと言わせながら答えた。
「ど、『どうめき』とはこの地に巣食っておった鬼の名でございます。伝え聞くところによると、この二荒山を根城にして悪行を重ねていたとか・・・」
それだけ言って、役人たちは逃げるようにしてその場を立ち去っていった。まるでその名を口にしただけで呪い殺されでもするかのような慌てようだった。
「どうめき・・・この下野国に住まう鬼・・・か」
混乱の続く会談の場で、頼義は周囲の慌ただしさに耳も貸さず、一人考えにふけっていた。
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長年の確執を乗り越え、ようやく上野・下野両国の和平がなされようとした矢先に起こったこの惨劇は、当然ながらその日だけの騒動に収まらず、両国間の緊張をそれまで以上に増す結果となった。
上野国側は今回の調停に不満を抱いた下野国側が凶行に及んだものとして強く非難をした。対する下野国側はもちろんそういった陰謀論を頭から否定し、むしろ逆に上野側の方が調停をご破算にするための口実として当方の代表に毒を盛って発狂させた果ての結果だったのではないかと主張し、一時は雪解けの雰囲気に包まれていた両国の関係は前以上に険悪なものとなってしまった。
調停役である常陸介頼信は冷静に両者をとりなし、真相の究明と会談の再開を呼びかけたが、一度疑心暗鬼に陥った両国の代表は互いを警戒してそれぞれに陣を引っ込めてしまい、それ以来どちらもその動きは杳として知れない。
事態を聞きつけた中央の重臣たちは即座に事態の収拾を頼信に命じた。頼信はその命令に粛々と応じ、その指揮官として嫡子である頼義を任命し、自分はさっさと所領である常陸国の庁舎へ戻り、国内の政務に戻った。
確かに「この一件、頼義が預かりまする」と言いはしたが、まさか全権を委任されてその解決に当たれなどと言われるとは思わなかった。手下の者も無くひとりぽつねんと置いてけぼりにされた頼義は父のあんまりな無茶振りにしばし呆然としていたが、いつまで突っ立っていても事態は収束すまいと思い至り、早速行動を開始した。
まず頼義が行ったのは捜査の本部となるの拠点の確保でだった。頼義はひとまず下野国の役人に事情を説明し、とりあえず仮の宿として湖畔に建てられている女人堂を借り受ける許可をもらった。女人堂は女性の立ち入りを禁じられた二荒山への礼拝を麓で行うために建てられた拝堂で、遠くからの参拝者を世話するための煮炊きの場もあるという。女人堂の管理人は臙脂と鮮やかな黄の法衣を着た男性であったが、頼義の申し出に少々面食らいながらも快く一室を提供してくれた。頼義は取り急ぎ女人堂に腰を落ち着けると、すぐさま周囲の村々を回って「どうめき」と呼ばれる鬼の存在について聞いて回ってみた。
色々の話を総合して整理してみるに、どうやら「どうめき」とは古くからこの地に住まう鬼の総称であるらしい。「どうめき」は長岡の百穴という古い土地に百匹の鬼を従えていたとも言い、またあるいは兎田という馬捨て場を荒らし回って俵藤太に成敗されたなどという逸話を数多く聞いた。
「俵藤太」という名前を聞いて頼義は「どうめき」という響きにどこか聞き覚えがあった事の理由がわかった。なるほど、俵藤太つまり藤原秀郷公の遠い子孫である「彼」の口からその言葉を聞いたことがあったのかも知れない。
言われてみれば「彼」はここ下野国の出身だとも聞いていた。それならば己が家系に因縁の深い「どうめき」なる存在についても何か心当たりがあるかも知れない。そうともなれば頼義は「彼」を呼び出して捜査に協力してもらおうと思い立ち、早速連絡を取ろうと立ち上がった。
しかしすぐにその足を止め、顔をしかめた。
「彼」・・・佐伯経範は、常陸国に住み着く「山の佐伯、野の佐伯」と呼ばれる古の民たちを束ねる棟梁であり、頼義の信頼する配下の一人であったが、その経範は今のっぴきならぬ事情で国府の石岡から離れられないでいることを思い出した。
普段は穏やかな性格で虫も殺さぬと言ったような温厚篤実な人柄である経範だが、月が満ちてきて満月が夜空を照らすようになると事情が変わってくる。
月の光を浴びている間、彼は凶暴な「虎」に変身してしてしまうのだ。
虎になる、というのは比喩である。性格が凶暴化して辺り構わず暴力を振るい始めるという喩えではあるのだが、彼の場合、それと同時に即物的な意味合いも兼ねている。そのことが実に悩ましい点なのである。
彼は、本当に虎の姿に変身してしまうのだ。
いかなる因果でそうなってしまうのかは知れないが、虎に姿を変え狂乱した経範は並の武器ではいかなる傷を追わせることも叶わない不死身の肉体となり、そのため一度暴れ出した彼を止める術はない。そのことが原因で彼はある時常陸国の役人を殴り飛ばしてしまい重傷を負わせてしまった。幸い一命はとりとめたものの公務の執行を妨害した罪で経範は向こう一年その怪我をした役人に代わってタダ働きで国庁への出仕を強いられている身なのであった。
「ああもうっ、金平といい経範といい、私のもとにやってくる連中は何でまたこんなに問題児ばかりなのよバカーっ!!」
人目の無いのを良い事に頼義は力一杯叫んで鬱憤を晴らした。スッキリして気を取り直して仕事に戻ろうとした時、不意に人の気配を感じて頼義は咄嗟に身を引き、太刀に手をかけた。
「何奴!?」
警戒を怠らず頼義が誰何する。背後の草むらの陰から一人の人物がのっそりと姿を現した。
「いや、その何というか、声をかけようとした矢先にちょうどいい頃合いで私の名前を呼んで悪態をつかれたものでどうしたものやらと・・・」
頼義の前に現れた佐伯経範はバツの悪そうな顔をしてそう呟いた。