佐伯経範、虎になるの事
「ぬおおおおおおおおっ!!」
陰陽師の姿を認めるや、佐伯経範は絶叫とともに手にした大太刀を抜き放って囲みの一番分厚い集団に向かって斬りかかった。
「おのれっ!やはりこの一件陰陽寮と安倍晴明の策略であったか!!我が主人を陥れ失脚させようなど言語道断、その忌まわしい浅知恵、この経範が許しはせぬ!!」
金色の目を輝かせ、肉を切り裂く牙をむき出しにして経範が吼える。その全身はたちまち黄金のたてがみに包まれていき、経範は完全に「虎」となって前足を低く構えて眼前にいる囲みの主導者である影道仙を睨みつけていた。
「のわーっ!!この展開は予想外です、経範どのウェイト、ウェイトおおおぉーっ!!」
慌てて覆面を取り外して影道仙が両手を挙げる。周囲にいた武装兵たちも、取り囲んでいた人物がいきなり虎に変身して咆哮する姿を目の当たりにしてすっかり肝をつぶしていた。
元より「虎」に身を変じた経範に人間の言葉は通じない。経範は、いや「虎」は目にも留まらぬ速さで集団のど真ん中に突っ込み、相手が身構えるよりも早くその身を吹き飛ばした。
「あ〜れ〜」
「虎」にぶちかましを食らった集団に巻き込まれ、影道仙がいやに緊張感のない声をあげて宙を舞う。その一撃で音も無く頼義たちを取り囲んでいた集団は一瞬にして動揺が広がった。
「よよよよ頼義さま助けて助けて!味方、味方だからーっやばいやばいやばい死ぬ死ぬ、マジで死ぬうぅ〜っ!!!」
先ほどまでの統制のとれた動きはすっかりどこかへ消え去り、走り回る「虎」から逃げようとして兵士たちが四方八方に散り散りになって行く。
「えっなに、降参?」
すっとぼけた声で頼義が聞き返した。集団に取り囲まれた一瞬こそ緊張と殺気で全身を強張らせた彼女だったが、前へ躍り出た影道の姿を確認するとその緊張も解き、元の平静さを取り戻していた。
「初めっから喧嘩も売ってないでしょーっ!オタクのバカ虎が勝手に暴れてこっちは大迷惑を被っているところなう。なんですがー!!」
木によじ登ってぶら下がる影道仙のお尻に向かって「虎」が背を伸ばしたり飛び上がったりしてその裾に何度もかぶりつく。その度に影道仙の衣装はボロボロにささくれ立っていった。
「経範ー、おいで!」
はあ、とため息をついた頼義は経範に向かって大きな声で呼ばうと、手にした巾着袋のようなものを何度も振りかざした。それまで夢中になって影道仙をオモチャにして遊んでいた「虎」はその匂いに気がつくと、今度は一直線に頼義の方に向かって駆け出した。
「ほれほれ、はい、ぽーん」
よだれを垂らしながら巾着にじゃれつこうとする「虎」をヒラリヒラリとかわしながら、頼義はその巾着袋を遠くに向かって投げ飛ばした。「虎」は一心不乱になって巾着の飛んで行った方に駆け出し、ふんづかまえた袋を爪でバリバリと引っ掻いたりクチャクチャと口の中で噛み砕いたりして、袋の中に入っている「木天蓼」の味と匂いを心ゆくまで堪能した。
「ちょろいなー、経範お前ちょろいなー」
苦笑いをしながら頼義はゴロゴロと喉を鳴らす「虎」の巨体を撫でてあやす。ひとしきり暴れて満足したのか、「虎」はもう目の前の巾着袋に夢中で影道仙の事など眼中にも無い。
「よっちゃんひどーい!!私の事わかってて経範どのが暴れるのをわざと見過ごしてたでしょーっ!?」
ズルズルと木から落ちてきながら影道仙は涙目で頼義を責める。頼義は頼義で涼しい顔をしながすっとぼけた表情を崩さない。
「うん。ごめーん、ほら、ポンちゃんも一応女人堂放火事件の容疑者だったからさー」
「のうあっ!?」
頼義の言葉に影道は心底衝撃を受けたようだった。その場で崩折れ、さめざめと泣き腫らす。
「ひ、ひどい、私を疑ってたなんて。あの時火事に気がついて真っ先に駆け戻って消化活動をしながらよっちゃんたちを救助したのは誰だと思ってるんですかばかーっ!!」
おいおいと泣く影道の頭を撫でながら
「はいはい冗談ですよー、助けてくれてありがとねポンちゃん」
「いや助けたのはこの人たちなんですけどね」
「アンタじゃないんかい」
撫でていた頭を軽くぽかりと叩く。
「いたーい!それにしてもなんで私を疑うかなー、ポンちゃんはこんなに清廉潔白だというのに」
「自分で言うな。だってポンちゃんが出て行った直後だったんだよ、火が出たの。ご丁寧に裏木戸まで全部外から打ち付けられてて」
「外から?はて、私が出た時はどこもおかしなところは無かったですけどねえ」
するとやはりあれは「百目鬼」に取り憑かれた綾の仕業だったのだろうか?だがおかしい、綾も姿を消す直前までは女人堂の中にいたのだ。あの短時間で外に回って音も無く全ての戸を封鎖するなんて真似ができるだろうか?
「で、この方々は一体どちら様で?さっき『味方』と言っていましたが・・・」
ひとまずその事は後で考えることにした頼義は周囲を囲っている武装兵たちの気配を探る。殺気こそ籠もってはいないが警戒は怠らず遠巻きに頼義たちの様子を伺っているのがわかる。そりゃああれだけ暴れられれば警戒もするだろう。
「ああ、この人たちは私の要請に応じて今回の騒動を収束させるためにわざわざ赤城山から足を運んできてくださった頼もしい助っ人の皆さんです」
影道の紹介された男衆たちの頭目らしき男が彼女の言葉に無言で頷く。彼だけは「虎」に変じた経範の狂乱を目の当たりにしても動ずる事なく静かに佇んでいた。
「赤城山・・・というとお隣の上州の方々ですか?」
頼義が影道仙に聞き返した。どうやら上州こと上野国にある赤城山を根城にする武士集団かなにからしい。そんな連中がなぜわざわざ下野くんだりまで足を運んできたというのだろう。。
「まあ、そんなところですが、彼らはですねえ、すごいですよ」
「すごい?」
「ええ、なんとあの赤城山の大百足のご子孫さまたちなのです」
なぜか影道仙の方が自慢げになって彼らを紹介した。