中禅寺湖、朱に染まるの事(その二)
場は一瞬にして凍りつき、続いて阿鼻叫喚の地獄のような喧騒に包み込まれた。
頼義には一瞬何が起こったのか様子が掴めなかった。目の見えぬ彼女の耳には足をつまづかせて隣の人にぶつかった人間が非礼を詫びただけの会話にしか聞こえなかった。だがその直後に血潮の生臭さが鼻をついた時、頼義はようやく事態の異常さが飲み込めた。
「父上、お下がりを!」
頼義が父頼信をかばうように前へ躍り出て愛刀の「七星剣」の柄に手をかける。周囲にいた両国の使節団は凶行の現場を遠巻きに見やりながら恐怖に震え、方々に向かって叫び声をあげていた。
「下野大掾どの、ご乱心、ご乱心・・・っ!!!!」
耳障りな金切り声がこだまする。乱心・・・?確かに輪の中心に立つ下野権大掾平国周卿の様子は「乱心」というより他はなかった。
「天誅、天誅、ててててて、てんちゅううううううゅ!!!!!」
先程見せていた笑みを顔に貼り付けたまま、国周卿はすでに無残な死体となっている淵名元藤卿の身体を何度も何度も繰り返しその太刀で切り刻んでいる。太刀が振り下ろされるたびに死体の肉がえぐれ、折れた骨が飛び散り、周囲にいる者の頭上に汚らしいみぞれとなって降り注いだ。その事が一層周囲を混乱と恐怖に陥れ、和平の調印の場は一瞬にして血みどろの地獄絵図と化していった。
「誰かっ、警護の者はいかがした!?早く、早くこの者らを取り押さえよ!!」
頼義の怒号が場に轟く。しかしその声に応える者はどこにもいなかった。チッと舌打ちをして、頼義は鞘から七星剣を抜きはなち、父を守るようにして剣を正眼に構える。
「父上、賊の数はいかほどで?」
背中越しに盲目の頼義は頼信に襲撃者の数を尋ねる。
「・・・?何を言っておる、賊も何も、淵名どのを斬ったのは一人だけだぞ」
ごく当たり前に、頼信は見たままの状況を頼義に伝える。それを聞いて頼義は軽く混乱した。
「一人・・・?いや、そんな。では、この視線の数は一体・・・!?」
頼義の背中に戦慄の冷たい汗が流れた。
「視線?視線とな」
訝しんだ頼信が頼義の後ろで聞き返した。
「はい、この視線、一人二人どころではない、無数の殺気ある気配がこちらを覗いておりますぞ父上!」
頼義の発言に今度は頼信の方が混乱した。彼には目の前にいるのは死体を切り刻む国周卿一人しか見えない。だが目の見えぬ「息子」が言うには、目の前から無数の人間の気配がこちらに視線を送っていると言う。どこにそんな人間がいると言うのか、それとも、目に見えぬ何者かがそこにいると言う事なのか・・・!?
頼信も腰に挿した小太刀に手をかける。儀礼用の小刀だが、抜かずにはいられなかった。それほどまでにこの場を包む空気は異様で、邪悪に満ちていた。
御簾をまくり上げてようやく警護の兵士たちが場内に殺到してきた。凶事の場をぐるりと取り囲みながら一斉に手槍を下手人に向ける。
「・・・消えた?バカな!?」
頼義が再び声を上げた。その言葉に反応するかのように、ひたすら元藤卿の死体を切り刻んでいた下野大掾は、まるで操り人形の糸が切れたようにふっつりとその動きを止め、ポカンとした顔で頼信たちの方を向いた。
「ん?はて、いかがなされた常陸介どの。そのような怖いお顔をなされて」
笑顔でそう言った国周卿は、自分が今行った凶行にまるで気がついていないようだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
警護の武士に連行されていった平国周卿は何が何だか分からぬと言った様子でキョトンとした顔で首を左右にしながら引きずれれるようにして退出していった。和平の場となるはずだった中禅寺湖の湖畔は今や陰惨な殺人現場となってその無残な姿を湖水から吹く冷たい風にさらされるがままにしていた。
「今のは何だ、頼義?」
父が改めて頼義に問いかける。
「わかりませぬ。ですが通り一遍の刃傷沙汰とは思えぬ様子でした」
頼義もただそう応えるより他はなく、それでも警戒のため抜き放った七星剣を正眼に構えながら来るべき襲撃に備えて警戒を怠らなかった。
時が経つ。一分、二分・・・。先程まであった邪悪な「視線」の気配は、やがて完全に消えた。
「去った・・・のか?」
頼義が深々と息を吐きながら構えを解き、七星剣を鞘に納める。今のは一体何だったのだろう。父の目には一人しか見えなかったものが、頼義には無数の何者かの気配を明確に感じられていた。あの刺すような、背筋が粟立つような不快な「視線」・・・。あれが気のせいだというのか?
連行されて行く下野大掾の姿を目で追いながら、下野国の役人たちがガタガタと身を震わせながら顔を覆って誰彼ともなく呟きだした。
「おお、恐ろしい・・・大掾どのは『どうめき』に目をつけられてしまったようだ」