源頼義、囲みを強行離脱するの事
「〜〜〜〜〜〜〜!!??」
突然の綾の乱行に頼義は慌てる。何度も唇を離そうと抵抗するが、綾はしつこく唇を求めてくる。綾の舌のぬめりとした感触が頼義の口腔内に広がる。その感触に頼義の肌が粟立つ。
やっとの思いで綾を顔から引き離す。
「おやめなさい、綾!なんて事を・・・!」
そう言われても綾はなおもしつこく頼義を引き寄せてその顔に迫る。頼義も必死に抗うが綾は力強く頼義を抱きしめて離さない。
力強く・・・?
この力はどこから来るのだ!?
頼義は改めて事の異常を認識した。この力は異常すぎる!!
「がっ!」
やっとの思いで頼義は綾を引き離した。勢い余って綾の身体が後ろへ吹き飛び、土壁に勢いよくぶつかる。
「綾!?」
とっさに力任せに振りほどいた頼義だったが、先程の綾のの狂態も忘れて彼女に近づこうと膝を進める。
綾は依然、恍惚とした表情のまま目を潤ませて頼義を見つめている。半開きになった唇からは蜜のように滴る唾液が糸を引いて喉元に落ちかかっていた。
「よりよし・・・さまあ、おねがい・・・あやを・・・」
「綾!!」
綾が頼義を見つめる。
見つめる。
見つめる。
頼義を突き刺す綾のいくつもの視線を受けて、頼義はようやく綾の狂乱の正体を理解した。
「綾・・・!ああ、そんな・・・!!」
頼義の全身から血の気が引いていく。氷のように固まった頼義と対照的に、蕩けるように顔を上気させた綾がしどけなく己の前身をはだけていく。綾の真っ白な裸身が露わになる。そこには
無数の目玉が頼義に向けて視線を送っていた。
「そんな、そんな・・・!?いつからだ、いつからそのような事に・・・!?」
思わず頼義は絶叫する。そんな事を聞いたところで何の解決にもなるまい。頼義自身も(もしや・・・)という疑念はあった。それでも今こうしてその事実を目の当たりにした時、頼義はそう叫ばずにはいられなかった。
「ふふ、うふふふ。頼義さま。どうか、お情けを・・・」
甘えるようにしなを作って綾がにじり寄ってくる。その間も彼女の全身に貼り付いた目玉は頼義から視線を離さない。
頼義は全身をガクガクと震わせる。怒りではない。恐怖でもない。これは、何だ?そう、これは・・・
「うわあああああああ!!」
綾に声をかけられて頼義は無意識のうちに引き抜いていた七星剣を綾に向かって振り下ろしていた。頼義はすでに剣を振るっている相手が誰だったかも認識していなかった。震えは止まるどころか一層激しくなる。これは、この感情は
(斬ル、斬ル・・・斬ラネバ・・・殺サネバ!!)
そう、これは・・・
狂気だ。
無数の目玉が浮かぶ綾の身体に頼義の剣が袈裟懸けに走る。その最後の一瞬においてさえ綾は、いや「百目鬼」はその視線を頼義から離すことはなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「源頼義脱走」の報を聞きつけて、国庁正面の南門周辺も大慌てで右往左往する役人たちで溢れかえっていた。重ねて西脇殿に隔離していた証言者の綾という娘も姿をくらましてしまったという報せが流れて来ると、混乱はさらに拍車がかかり、下野国庁舎は文字通りの混沌と化していた。
囚われの頼義の身の潔白を証言するために面会を申し願おうと南門の警護の兵士と交渉を重ねていた佐伯経範は、頼義脱走の知らせを同時に聞きつけて焦りを隠せなかった。
(主人よ、早まった事を・・・!)
何とかうまく穏便に事を収めようと奔走していた経範であったが、この混乱ではもはや対話での交渉は意味をなすまいと悟る。そもそも当の容疑者本人が獄を破って遁走してしまったのだ。これではいくら言を尽くしても申し開きの仕様もあるまい。
「かくなる上は・・・うんまあ、いつものことか。では・・・御免、通る!」
腹を据えた経範は、頼義の潔白を証明するために同行を願った証言者の人物の手を引いて無理やりに門を通り過ぎて庁舎内に入ろうとする。いくら混乱を極めた役人たちとはいえ、流石に経範のこの行為には目を止めて彼を咎め立てながらその侵入を防ごうとする。
「邪魔立てするか!?いやするよな、そうだよなあするよなあ」
などと妙に気の抜けた発言をしながら、それでも経範は口の端を釣り上げてニヤリと笑いながら存分にその拳を振るった。最初の一撃で兵士たちが二、三人軽く吹き飛んで行く。
「がはははは!!そちらが先に手を出したのだぞ!ゆめ忘れるなよ、これは正当防衛というやつだ。わははは、わははははは!!」
どう見ても先に手を出したのは経範の方だが、そう主張しながら佐伯経範は並み居る兵士たちを素手でバッタバッタと薙ぎ払っていく。月の魔力の影響を色濃く受けた経範は、その狂気を破壊衝動という形で露わにしていた。そのあまりの暴れっぷりに、隣で手を引かれていた証言者の僧侶らしき人物が肝を縮み上がらせた。
「さあさあ、命の惜しくないやつはかかってこい!!すでに月は欠け落ち始めて従来の力は発揮できぬが、それでも田舎兵子をのすぐらいは造作もないぞ。わはは、わはははは」
もはや頼義を救出するという当初の名目すら忘れて経範は目の前の兵士を相手に目を輝かせて暴れ回っている。その凶暴さに、一度は勢いよく殺到した兵士たちも恐れをなして経範を取り囲むようにして身を引いた。
消えた下手人、慌てふためく役人、怒号を立てる兵士、暴れ回る不届き者・・・混乱に混乱を重ねて、長閑な地方行政府の役宅だったはずの庁舎は今や阿鼻叫喚の修羅場となっていた。
「弱い、弱いぞう下野の木っ端役人ども!それでも誇り高き坂東武者の端くれか!?勇あるならばこの経範にかかって来るがよい!!さもなくば下野武者は屁っぴり揃いと吹いて回るぞこの阿呆どもが!!!」
もう何が目的なんだかよくわからなくなってきた経範が訳の分からぬ煽り口上を唾を飛ばしながらまくし立てる。
「阿呆はお前だこのバカ虎ーっ!!」
何処からともなく響いた罵声とともに空中から大きな人影らしきものが飛来し、暴れ回る経範の頭を勢いよくパッコーンと叩きつけた。
「うおっ!!」
派手に首を折って前のめりになった経範だったが、ダメージを受けている様子は微塵も見られなかった。満月の加護である不死身の肉体はまだ健在のようだ。
「何をやっているのですか経範!こ、こんなによその方々をまた景気良く殴り飛ばして回って・・・!ああもう、お前の頭の中は脳味噌の代わりに豆味噌でも入ってんのかバカーっ!!!」
気を失った綾を肩担ぎにした頼義が、手にした薪ざっぽで再び経範の頭をパコーンと叩く。やっぱり経範は平然としている。
「おお、主人ではござらぬか!勝手に獄を破るとは軽率でしたな。しかしお喜びあれ、この経範、主人をお救いするため今馳せ参じましたぞ!!」
「この状況でよくそんなことが言えますねこのバカは!!!あとでその口ひん剥いてやる。とにかく、ここは一時避難しますよ、かくなってはもはや下野にも居れますまい、いったん常陸まで退いて状況を・・・え、あれ?経範、お前の隣にいるのは・・・?」
怒りに任せて一気呵成にまくし立てた頼義だったが、経範が手を引いて連れている僧侶の姿が目にとまり、ようやく冷静さを取り戻し、その僧侶の様子を伺う。すると彼女は再び動揺の声をあげた。
「え、ええっ!?」
「どうも、その、ははは・・・」
隣にいた証言者の僧侶・・・女人堂看守の天陣和尚はバツが悪そうに苦笑いを浮かべていた。