源頼義、隠行の術を会得するの事
「なっ?」と言われても頼義にはその絡繰はさっぱりわからない。ただ頼義は似たような光景をかつて一度だけ目にしたことがあった。
まだ「鬼狩り紅蓮隊」が京に屯所を構えて活動していた時分、頼義もまだ目が見えていた頃に鬼狩りの一員であった陰陽師の卜部季春が同僚の坂田金平をからかって追いかけ回された時に、庭に飛び出た季春が何やら真言を唱えるとその姿がたちまちのうちに消失し、相手を見失った金平を見えない場所から散々に小突きまわしていた、あの光景を思い出す。頼義は想像ではあるがあの時のあの季春の不可思議な術を連想していた。
「ほうほう、おそらくそれは摩利支天の隠行印じゃな。こう『オン マリシエイ ソワカ』と唱えて敵から身を隠す秘法じゃ。手法は違うが原理は同じよ。そうやって自分の『見られている』という情報を遮断して相手の認識を阻害するのがこの呪法のキモじゃな。では原理がわかったところで早速試してみるといい」
誐那鉢底法師は子供に算術を教える教師のように事も無げに言う。もちろん理屈を説明されたからといってハイそうですかと簡単に実行できるのなら苦労はしない。頼義には何をどうやればそうなるのか、その手掛かりすら掴めなかった。
「そりゃそうじゃわい、凡百の魔法修行者が鍛錬を重ねに重ねてようやく死の間際にその奥義の一端が垣間見えるかといったところじゃ。一朝一夕でかなうかよ」
この法師はアホなんじゃないかと一瞬頼義は真面目に考えてしまった。そんな悠長な事を言っていられる場合ではないだろうに。事は一刻を争っているのだ。
「チチチっ、そうじゃのう。お前さんの言う通りこの手段は恐ろしく気の長い話じゃ。じゃから現実的にはお前さんの手下を呼びつけ・・・なんじゃ、何やっとるんじゃい?」
初めから息抜きのための冗談のつもりだったのか、今提案した第三の手法をあっさりと撤回した法師は現実的な方策を練ろうと頼義に話しかけようとしたが、当の頼義は座を正し、息を整え、静かに瞑想を始める。
「おいおいおい、まさかやってみようとぬかすんかい。ほほ、こりゃ面白い。ダメで元々、一発でできたらワシが紫の法衣を進ぜよう。チチチっ」
「お静かに。今、自分の気配を探ってみます」
それだけ言って頼義はそれ以上微動だにせず、深く、静かに己の感覚を研ぎ澄ましていった。
音がする。匂いがする。空気の震えを感じる。頼義の全身に視覚以外のありとあらゆる情報が流れ込んでくるのを感じる。
土壁のヒンヤリとした肌触り。屋外を飛ぶ羽虫の羽の振動。自分の周囲を走り回る鼠の気配・・・。違う、自分の探し求めている「情報」はこれでは無い。頼義はさらに意識を集中する。
集中に集中を重ね、やがて自分という意識すら意識の外に放り出されるまでに頼義は自分の奥へ、より深き奥底へと潜るように、あるいは手繰り寄せるように情報を掴みとろうと感覚を研ぎ澄ましていく。
その感覚は唐突に訪れた。
まるで一歩離れた所から自分自身を眺めているかのような、大きな鏡の前に立って己を映し出しているような、初めて味わう不思議な感覚が頼義を包んでいた。
見えているわけでは無い。
聞こえているわけでは無い。
匂うわけでも無い。
触れているわけでも無い。
だが、頼義は確かに自分がそこにいるという確かな情報を掴んでいた。
(コレ・・・?コレのこと・・・なの?)
意識の外の、さらにもう一つ外側で誐那鉢底法師がなにやら小さく叫んでいるのがわかる。だが頼義はその喧騒にも耳を貸さず、無意識にその「情報」をヒョイっとつまみ上げるような仕草をしてみた。
その瞬間
ふつん。と音なき音が響いて「源頼義」はその存在を消した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
あの「感覚」を得て以来、頼義はこの「隠行の術」を自在に使えるようになった。なってしまった。
試みに土蔵の石扉を蹴りつけてもう一度あの無作法な見張り番を挑発してみる。案の定怒髪天を突かん勢いで怒鳴り込んできた小役人は、蔵の中が人っ子ひとりいないもぬけの殻になっていることに驚愕した。
始めのうちは隠れているものと思ったのか大声で呼びつけ、手にした槍を地面に叩きつけて脅しすかして驚いて飛び出てくるのを待ち構えていたが、その様子が無いと今度は槍の石突を向けて手当たり次第にそこら中の書類や木簡の束を叩き崩していく。
それでも頼義の姿が見当たらないとわかると、今度は大慌ててで石扉も閉めずに国衙の庁舎に向かって声を荒げながら駆け出して行った。
その間、頼義はというと、土蔵のど真ん中から一歩も動く事なくただ静かに役人の狂騒を眺めていた。
(見えて・・・無い?)
間違いなくできている、という自信とそれでもどこか半信半疑な不安がないまぜになった不思議な感覚の中にいた頼義も、役人の慌てぶりをみてようやく己のなし得たことを事実として受け入れることができた。
隣にいるであろう誐那鉢底法師の姿も役人の目には写っていないらしい。その法師もまたいとも簡単に秘術中の秘術とでもいうべき「隠行の術」をやってのけた頼義に驚愕の眼差しを送っていた。
「・・・何度も言うが、まさか本当にできるとは思わなんだわい。いやしかし軽口で言ったつもりであったのじゃが、案外無意識のうちにお前さんのその才能を見越して口が滑ったのやもしれぬの。いや世の中はわからんもんじゃて」
チチチっといつもの歯擦れのような笑い声の後、誐那鉢底法師が一転して真面目な声で頼義に問うた。
「お前さん、今初めてこの術を使うたわけでは無いな?お前さんは・・・いや、お前さんの奥にいるのは何者なんじゃ?」
その言葉には、法師が初めて見せる殺気がこもっていた。