虜囚頼義、脱獄するの事
その日、下野国衙の管理下にある土蔵の周辺は上を下への大騒ぎとなった。
「ばっ、莫迦な!?つい先ほどまでは中にいたのだぞ!」
「戯けたことを申すな!さがせっ、まだ蔵内に潜んでおるのやも知れぬ、中の物を全部引きずり出せ、絶対何処かに隠れているかしておるはずだ!!」
「誰かっ、屋根だ、屋根裏を探せ!あそこなら娘っ子一人隠れる隙間があってもおかしくない、急げ!」
などといった怒号喧騒が真夏の晴れた空に虚しく響き渡る。結局役人たちが総出でうず高く積み上げられた書物や書き付けを全て運び出したが、がらんどうになった蔵の中は虚ろな隙間風が吹くのみで、連中をあざ笑うかのように鼠がチチチっという鳴き声を立てるのみであった。蔵内の壁も天井も、少女一人が抜け出せるような穴どころか傷ひとつ付いていなかった。
あれだけ厳重に監禁されていた天陣和尚殺害の容疑者、源頼義は忽然と姿をくらましてしまったのだ。
事が発覚してからの下野国衙の役宅はまさに戦でも始まったかのような大騒ぎとなった。声高に責任を追及する者、見張りの役人を叱責する者、大声をあげて捜索隊の編成をする者、外へ出した膨大な書類や書物を律儀に中へ戻し入れる者、大混乱の様相を呈していながら、それでいてどこか妙に秩序立った機械的な動作でそれぞれの役割を誰かに命令された通りに動く彼らの姿を眺めている者がいる。
(なんともまあ、いかにもお役人さまって感じだなあ)
などとのんきに腕組みをしながらその人物・・・源頼義は彼らの喧騒に耳を傾けていた。
拘禁されていた書庫から脱獄したはずの頼義は、あろうことかその書庫の真正面にそびえる銀杏の大木に背を預けて、悠々とそこに立っていた。
隠れているわけではない。むしろ人目にその身を晒すかのように堂々と表だって直立している頼義の姿を、周囲にいる役人たちはなぜかまるで気がついていないようである。
「・・・これ、本当に見えていないのですか、彼らは?」
相変わらず役人たちの騒ぎに耳にしながら、頼義は何処かにいるであろう誐那鉢底法師に向かって語りかけた。
「見えとるさ。見えてはおるのじゃが、目に写ったその像を『源頼義』と認識しておらぬのじゃよ、連中は。奴らにとって今のお前さんはほれ、道端に落ちとる石ころやこの葉っぱのようなものなのじゃよ。見えておったってそれをいちいち小石だ葉っぱだなどと個別に意識したりはすまい。そういうことじゃ」
「はあ」
頼義はわかったようなわかっていないような曖昧な生返事をする。
「こんなことで簡単に人目をくらませるなんて、驚いたというか呆れたというか・・・」
「驚いたのはこっちの方じゃい。まさかお前さん、本当にやってのけるとは思わなんだぞ。長いこと生きたワシじゃがそれこそ人生史上最大のびっくりどっきり栗饅頭じゃわい」
「はあ、私も驚きです。ただ、なんとなくコツを知っていたというか・・・」
「ふーむ、さすがは源氏の血筋というか、恐るべきはお前さんのその資質よのう。お前さん真面目に修行すればあの安倍晴明すら超える大魔導士になったやも知れんぞい」
などと褒めているのかからかっているのか良くわからない賛辞を頼義に浴びせる誐那鉢底法師を尻目に、頼義はつい先刻まで自分が座していた牢獄がわりの土蔵の光景を思い浮かべた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「・・・第三の方法、ですか?」
「左様、邪視から身を守るでなく、破るでなく、それ以前に手を打つ方法じゃ」
暗闇の中で誐那鉢底法師の声が小さく響く。
「それは?」
「己を見えなくする事じゃ」
法師がドヤアっと偉そうに踏ん反り返っている気配が頼義にも感じられた。
「見えなく、というと身を隠すという事ですか?外套で顔を隠すとか」
「違う違う、そんな姑息な小細工を弄したところで邪視からは逃れられんよ」
「ではどういう意味で?」
「簡単な事じゃ。自分が見えているという情報を遮断するのじゃ」
真面目に法師の話に耳を傾けていた頼義は思わず膝を崩して呆れ顔になってしまう。言葉では確かにいたく簡単に聞こえるが、そんな事はできるはずもない。
「先ほども言うたであろう。邪視とは己が出しておる視覚情報を絡め取って影響を与える呪術じゃと。じゃからその情報を初めから与えねばいいのじゃ。な、簡単じゃろ?」
「そ、そうは言いましても光に当たれば体は光を反射します。その反射こそが『情報』なのでしょう?そんなもの、防ぎようがありません」
「できるんじゃなあ、それが。その証拠に・・・おっとそうじゃった、お前さんはハナから目が見えておらぬのか、それでは見せようがないのう。それじゃあ仕方がない。おーい、外の小役人!!」
突然誐那鉢底法師が外で見張りを続けている先ほどの役人に向かって大声をあげた。
「聞こえんのか小役人んー?そんなじゃからお前はバカじゃアホじゃと同僚に虚仮にされるのじゃぞ。そのように無能だからこんな牢番などと言うくだらない役目しか与えられないのじゃ、やーいバーカバーカ」
「ちょちょ、ちょっと法師さま・・・!」
頼義が慌てて法師の口を塞ごうと虚空をもがく。法師の口をふさぐ前に重い石扉が再び開き、先程の陰険な小役人が姿を現した。
「な・に・を・騒いでおるか小娘ーっ!!」
青筋を立てて役人が怒鳴るつける。怒声と同時に飛び散ったツバキが頭に降りかかって頼義は心底げんなりとした顔になる。
「さ、さ、先程から好き勝手申しよって・・・きき、貴様のような大悪党は決して重罰に処してくれよう!かあっ、かか、覚悟しておれえっ!!」
どうやら役人の耳には先ほどの悪口雑言は全て頼義の口から発したことになっているらしい。目の前にいる誐那鉢底法師の姿は役人の目にはかけらも写っていないのだ。
「ぐふっぐふふ、処断の時が楽しみだのう。あー楽しみだ楽しみだ」
流石に暴力を振るうことは禁じられているのか、それともその度胸がないだけなのかは知らぬが、悪口以上の事はせずに役人はまた石扉を閉ざす。三度真っ暗闇になった土蔵の中で
「なっ?」
と心底自慢げに誐那鉢底法師は踏ん反り返った。