中禅寺湖、朱に染まるの事
上野、下野両国の中禅寺湖の領有問題についての裁定は当然の事ながら中禅寺湖の湖畔で行われた。下野国側は国司の平維衡卿が故あって淡路国へ移郷の身となっているため、名代として下野権小掾平国周卿が調停の代表として上野国の代表である上野介淵名元藤卿をお迎えするという形式で進められた。
調停役である源頼信を間に挟み、双方の主張を聞きつつ互いの妥協点を模索し、程良い落としどころで両者の合意が得られるまで、話し合いは終わる事なく続けられた。初めは互いに強硬な姿勢を崩さなかった両代表であったが、頼信が粘り強く聞き役に徹し、双方の問題点に対して幾度となく対案を提示する事で一つまた一つと細かく取り決めがなされていった。
正午過ぎに始まった会談は、数度の休憩を挟みつつ日が暮れるまで続き、その長丁場に周囲の供回りや役人たちにも疲労の色が見え始めていた。頼義はその間もずっと父の後ろで座しながら会談の様子を聞き入っていた。普通の同じ年頃の子ならば飽いてあくびの一つも出そうな小難しい長話を、頼義は一言も聴き逃すまいとばかりに聞き続けている。
父の発言、提案、とりなし・・・その一つ一つが実に微に入り細に渡って行き届いており、双方どちらにも偏らず、なおかつ出しゃばる事なく、両者の話し合いを円滑に進められるようあくまでも裏方役として真摯な態度で会談を取り仕切る父の手腕を間近で見聞きし、その一端でも己が身のものにできるようにと、必死になって頼義は会談の様子を頭に叩き込んで行った。
(まったくお前は真面目さんだなあ。もっと気楽に行けよ気楽に)
そんなふうに軽口を叩く坂田金平の声が聞こえるようだ。頼義はふと、あの六尺を超える巨体で子供のように屈託無く笑う鬼狩りの剛勇の姿を思い浮かべて、少し胸の内がきゅっと息苦しくなるのを感じた。
頼義の一番の配下であり、「鬼狩り紅蓮隊」の勇者として常に彼女の側に付き従っていた坂田金平はもういない。彼女は金平と最後に交わした言葉を思い出し、再び胸が苦しくなる。
「悪路王」の出現に端を発して起こった陸奥国と常陸国の紛争が終結し、国内の復興作業もようやく目処が立って何とか無事に年を明かすことができた頃、坂田金平が唐突に暇乞いを申し出た。いつもは髷も結わずに伸び放題にしていた髪をきちんと結い上げ、正装をして頼義の前に現れた金平は
「故郷へ帰る。いつ戻るか分からねえからとりあえずお役御免って事にしてくれ」
そうぶっきらぼうに言い放った。
突然の申し出に頼義は一瞬言葉を失った。聞きたい事、言いたい事はいくらでもあったが、一つも言葉にすることができなかった。その間も金平はじっと頼義を見つめたままその姿勢を崩さない。とうとう頼義は一言も発することができずにただこくりと頷くことしかできなかった。
「じゃあな」
去り際までぶっきらぼうに金平は立ち去ろうとする。
「あ・・・」
辛うじて掠れた声を発して膝を浮かせた頼義に向かって、金平はその大きな手で彼女の頭をわしゃわしゃと撫でた。頼義は不思議と、ただそれだけの事で落ち着きを取り戻し、言葉を整理する余裕が生まれた。
「もう・・・。お腹が空いてもそこらへんの物を拾って食べちゃダメですよ」
「犬かよ俺は!?」
反射的に金平がツッコむ。そのいつもと変わらぬやりとりの後、二人は同時に笑い出した。
「へっ、その調子なら安心だな。まあしっかりやってけ。じゃあな」
最後までぞんざいな態度を崩さずに、坂田金平は頼義の元を去っていった。彼の気配が完全に消えるまでその後ろ姿を見送った頼義は、その時少し泣いただろうか。つい最近の事なのに頼義にもう何年も昔の事であるような気がした。
「・・・では、双方これにて依存はござるまいか」
父の言葉を耳にして頼義はハッと意識を会談の場に戻す。さすがの長丁場に少し集中を失っていたようだ。両国の代表とも互いに議論の限りを尽くしてどうやら円満に協定を結ぶ目算がついたようである。
当初上野国側が主張していた中禅寺湖の専有権については却下され、湖は下野国領とする事に変更は無かったが、今後は上野国にも利水権を認め、それまで下野国側が中禅寺湖の使用に際してかけていた関税や使用料などはこれを撤廃し、湖の環境保全などに関する事業は両国で分担して負担する事で、今後中禅寺は両国共有の財産として扱おうという事で合意を得たようだった。
長年に渡る問題に解決の兆しが見えた事で、両国の代表共にほっと安堵の顔を隠せなかった。係争の種でしかなかった湖の所有について、逆に共有の宝とする事で両国友好の架け橋にするという思いもよらぬ頼信の提案に初めは両人とも驚きを隠せなかったが、調停役である頼信の粘り強い説得によってどちらもその有効性と意義を認め始め、最後には「これしかない」という結論に至ったのを見て、頼義は改めて父頼信の政治手腕とその姿勢の崇高さに心を打たれた。
(国を治めるというのは、こういう事なのだ・・・)
頼義は改めて父に尊敬の眼差しを送る。治世とは単に上から下へ命を下すだけのものではない、人が人を支配する以上、統治する者はあくまでも領民もまた同じ「人」である事、その「人」への敬意を失ってはならない。頼義は父の背中が語るその教えを生涯忘れまいと胸に刻み込んだ。
無事に会談が終わり、後は朝廷へ提出する国解に調印をする段を残すのみとなった。長きに渡る議論の場から解放され、どちらの側の顔も緊張から解き放たれて穏やかな顔となり、それを見る調停役である父の顔にもようやく安堵の表情が見て取れた。
和やかな空気に使者の気も緩んだのだろう、つい足元がおぼつかなくなった上野介淵名卿が乗り上げた小石に足を取られ、隣にいた下野権大掾国周卿の佩いていた太刀にコツンと肘を当ててしまった。
「や、これは失礼をば」
淵名卿は笑顔で非礼を詫びた。返す平国周卿もまた笑顔で、
「いやいや、武士の魂たる太刀に手をかけるとは無礼千万」
と言って、笑顔のまま太刀を抜いて淵名卿を一刀のもとに斬り伏せた。