誐那鉢底法師、邪視について語るの事(その一)
「そもそも『視線』とはなんじゃらほい、と考えた事はないかね?源氏の子よ」
崖から落下した傷を手当てしている頼義を相手に誐那鉢底法師が禅問答のような抽象的な質問をしてくる。まだ影道仙たちの気配は感じられない。あの高さから落ちたのである、捜索してくれているにせよ、合流するには夜明けを待たねばなるまい。それまでは下手に山中を彷徨うよりはおとなしく一箇所にとどまって体力を温存しておいたほうがいいだろう。運が良ければ見つけてもらえるかもしれない。
それまではこの奇妙な御坊の話にあの「百目鬼」について知っていることを話してもらおうと願い出てみたのだが、どうも話が妙な方向にズレてしまっているように思える。
「人はよく言うわな、『視線を送る』だの『視線が痛い』だのと。まるで目玉から何やら光線でも発しているようなもの言いじゃ。ピピピピーっとな」
相変わらずちょこまかと動き回りながら法師は頼義に講義を始める。「百目鬼」が人に仇なす妖怪ではないという説明のはずが、どうやら随分と回りくどい長話になりそうな雰囲気である。
「確かに人は自分の目の届かない所から何者かに見られている、という感覚にとらわれる事がしばしばある。それは大半は単なる錯覚であるが、稀にそうでない場合もある。人間の目というものはな、自分が『見える』と自覚している範囲よりもわずかに広い視界を持っているのだそうじゃ」
「はあ」
「つまり自分の脳みそが『見えている』と判断している範囲と目玉が実際に見ている範囲には若干の広さの違いがある。そのズレた範囲にいるモノの存在は『視覚』として捉えてはいるんじゃが『見えて』はいないんじゃな。それが『気配』だの『視線』だのと呼ばれるものの正体よ」
法師の説明はわかるようで良くわからない。要するに自分が見えていると思っている範囲よりも広い範囲を目玉は見ている、という事だろうか。それが百目鬼とどう関係してくるのかはさらにわからない。
「まあ、そのような『視線』というものに対してヒトは他の感覚器官にはない神秘的な力を感じていたわけじゃな。それゆえ古来より『目』を題材としたまじないは多く作られてきたものじゃ。例えば埃及の『ウジャトの目』と呼ばれる魔除けの護符などはよく知られているわな」
よく知られていると言われても頼義は知らない。おそらくは大陸のはるか西方の国の名なのだろうが、彼女には聞いたこともない地名だった。
「ところがここに一つ謎がある。確かに多くの宗教画などで目から光を発しているような表現はよくなされるものであるがな、実際には目からは何も出んよ。そうじゃろう?」
それはそうである。「視線」とはあくまでも比喩表現であって、人間の目から光線が発射されるわけではない。
「ふふん。そもそもじゃな、『目』というものはあくまでも『視覚』という情報を受け取るための受け身の感覚器じゃ、それをあたかも能動的に何かを放射するように捉える事が間違いだとは思わんかいの?」
「はあ、仰る事の意味が良くわかりかねますが・・・」
「ニブいやっちゃのう。目玉というものはあくまでも受け手であって、目玉が能動的に光を発したり呪いを付与したりすることはない、という事じゃ。つまり見るだけで人を呪うという『邪眼』や『邪視』などといったモノはおしなべて存在しないということじゃな」
誐那鉢底法師の言葉を頼義が完全に理解したとは言い難い。しかし彼女は法師の話を聞きながら無意識に自分の目頭を指で押さえつけていた。
「では・・・『邪視』とは、いったい・・・」
頼義は思い出したくもない、己の呪われた過去を思い起こす。かつて自分が罪の自覚もなく己の身に備わった「邪視」の能力を振りまいていた忌まわしい記憶が脳裏に次々と浮かび上がっては消え、その度に頼義は自分がしてきた所業に鳥肌を立てた。
頼義の態度を訝しんだ法師が尋ねた。
「さて、なぜにそのような顔をするね?お前さんが失ったその『目』の事を気にしておるんかいの」
「!?」
心の内を見透かされたことに驚いて頼義は本能的に後ずさる。いや、そもそもなぜ・・・!?
「あーあー、お前さんのその『目』が何がしかの魔力を帯びていることぐらい、ワシのような生臭坊主でもわかるわい。わずーかに魔力の痕跡がうかがえるでな」
頼義は反射的に法師から顔を背けてしまった。法師の指摘した通り、彼女は「邪魅の瞳」という魔の力を宿す邪眼の持ち主だった。
彼女の「目」を見た世の男性はみな不可思議な力に魅了され、彼女の意のままに動く操り人形と化してしまうのだ。
その力を知らぬ幼き日の頼義は、無意識のうちにその力を駆使して周囲の男性を従え、我儘し放題の幼年期を過ごしていた。今でもあの頃の自分を思い返すと羞恥と自責の念に歯噛みするような思いがこみ上げてくる。
「ふむふむ、生まれつきのものであったか。それで後難を恐れた術者にでも封じられてしもうたのか。可哀想に、お前さんだって望んで手にした力というわけでもあるまいにのう」
「いえ、これは・・・」
一瞬声を詰まらせて頼義が答える。
「自分で潰しました」
「なんと!?」
頼義の告白に誐那鉢底法師は心底驚いたようである。
「それはそれはなんとも・・・自らその力を『否』として滅するとは、いやいや生半にできることではあるまい。流石は武門の棟梁たる源氏の子、と言ったところか。これはお前さんに対する態度も少し改めねばのう」
そう言って誐那鉢底法師は頼義の周りをちょこちょこと回っているような気配である。口ではそう言っているものの、ちっとも態度が改まったようなそぶりはない。
「そうかそうか。お前さんは『邪視』については他人事ではないというわけなのじゃな。それではお前さんが自分を知るためにも、『百目鬼』のあの『目』について知らねばなるまいのう」
そう言って法師はせわしなく動かしていた足を止め、再び長い話に戻った。