源頼義、中禅寺湖に立つの事
周囲が騒然としている。
下野国の代表も、上野国から来た使者の一団も突然起こった事態に混乱し右往左往するばかりだった。そんな喧騒の中、常陸国国守代行である常陸介源頼信と、その一子である筑波郡司大領頼義の二人だけが微動だにせず目の前の光景を静かに見据えていた。その足元には、
無残に斬り殺された上野国使節団の長の死体が無造作に転がっていた。
親子は背後の騒がしさもよそに二人だけで会話を続けている。
「今のは何だ、頼義?」
父が「息子」に顔も向けずに語りかける。
「わかりませぬ。ですが通り一遍の刃傷沙汰とは思えぬ様子でした」
「息子」と言ったが、頼信の傍にいる人物は男性ではなかった。巫女が着る白衣に朱の袴を履いた、年の頃十六、七といったところの少女は目が見えぬのか、伏せた瞼を少ししかめながら周囲の気配を探るようにしてその端正な顔立ちで左右を見回した。
「父上、ここは一旦お引き取りを。この場は私が受け持ちまする」
「・・・いるか?」
「息子」に退出を促された頼信が一言だけ呟いた。
「いますな・・・鬼が」
そう言って頼義は抜きはなった七星剣を正眼に構えてその漂う殺気の跡を見えぬ目で追った。
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下野国中禅寺湖は、霊峰二荒山の麓にそびえる坂東有数の大きさを誇る淡水湖である。天応二年、というから二百二十年ほど昔に勝道上人と呼ばれる仏僧が二荒山を初めて登頂した際に発見されて以来、ここ下野国を象徴する霊場として多くの信仰の対象となっている。
この聖域に源頼信親子が招かれたのは、一通の訴状がきっかけだった。
中禅寺湖は上野国と下野国の国境近くにあり、湖に隣接する白根山と笄山(皇海山)でもってその境とされているのだが、その中禅寺湖の領有権を巡って両者は数百年に渡って互いに譲り合う事なく争いが続いていた。
元来両国は古来には「毛野国」と呼ばれる一つのクニであったのだが、律令制の施行に伴って「上毛野」「下毛野」という二つの地域に分けられ、それが現在の「上野国」「下野国」と呼ばれるに至った経緯がある。
その当時から中禅寺湖が両国どちらに帰属するかで諍いは絶えなかったらしい。水源の確保は内政の要である。当然ながら両国ともその主張は一歩も譲る事無く、現在に至るまで「水争い」は絶えることなく続いていた。
その係争の仲裁役として朝廷から指名を受けたのが常陸介源頼信であった。
頼信は常陸介になる前は上野介として赴任していたという経歴もあり、かつ先年起こった平忠常による坂東各地での紛争、それに続く「悪路王」と呼ばれる謎の巨人の出現とその撃退、陸奥国との小競り合いの収集など、近年活躍めざましいこの河内源氏の棟梁の実績と人望を見込んでの左大臣直々の頼みともなれば頼信もそれを断るわけにも行かず、かくして調停団を引き連れての下野参りという段になったのである。
頼信はその一行に娘の頼義も同行させることにした。頼義は女性の身ながら源氏の次代棟梁候補として男性同様に扱われ、自身もまた男性として公務に携わっている。当初は「女を、しかも目の見えぬ小娘が次期棟梁など」と奇異の目で見る向きも多かったが、彼女の実直な勤勉ぶりと、父に劣らぬ勇猛ぶりを過去に起こった種々の事件を通して目の当たりにした周囲の者たちは、次第に彼女の存在を自然と受け入れるようになっていた。
そんな頼義であるので、今回の参列に際しても誰も異を唱える者はいなかった。
のであるが、彼女の存在によって一つの問題が生じてしまった。
今回の調停の会談は中禅寺湖の湖畔で執り行う事は決まっていたのだが、頼信ら仲裁役の一団が当地に向かう際に二荒の男体山と呼ばれる大山の麓に伸びる長くうねった山道を登る必要があったのだが、その坂道を登るにあたり、下野国側から「待った」がかかったのである。その理由が女性である頼義の存在だった。
「いろは坂」の名で呼ばれる通り、いろは歌になぞらえられた四十八の曲がりくねった長い長い山道は、霊峰男体山と同じく「女人禁制」の地であったため、下野国側が彼女の入国を拒否したのだ。
現代の感覚で見れば女性蔑視も甚だしい悪しき慣習であるが、平安時代当時こうした聖域への女性の立ち入りを禁じる習わしは全国各地でごく普通に行われていたのだ。
下野国の役人としては当地で伝統的になされているごくごく普通の慣習を言い伝えただけの事であった。頼信もまたその事に関して色をなすこともなくごく普通に受け答えた。
当然、頼義ひとり踵を返して帰国する事になるかと思いきや、頼信は
「では我らも帰参いたしまする」
と事もなげに言い放ってそのまま本当に今来た道を戻り始めてしまったのだ。
これには下野国側の人間も慌てた。なんとか取りなそうと必死になって頼信を説得し始めた。頼信は娘の入山を拒否された事に怒っている、というわけでも別段無かったが、ただ「この者が入れぬというのであれば我らも入る必要なし」ととだけ言って役人たちの言葉に耳も貸さない。
意外なまでの頑なな頼信の態度にいよいよ役人たちは困り果ててしまう。自分たちは通常の業務を忠実に実行しただけなのに、それがために大事な会談の場を台無しにしかねない。これは大いに責任問題に発展しかねない。役人という人種はいつの時代も自分が責任を背負う事を極端に嫌う。
焦りに焦った彼らは苦肉の策として一計を案じた。
「普通の女人ならばお山に入ることも叶いませぬが、『神の御使』であるならばその限りではありますまい」
かくして、役人たちに頭を下げられながら頼義は麓の神社に連れてこられ、なんやかんやと勿体ぶった神事を執り行われた後再び父の元に戻った時には、なぜか彼女は巫女の衣装に着替えさせられ、その面にはご丁寧に神女の化粧として白粉に紅まで引かれていた。
「ほう、これは」
こちらに何の相談もなくよくわからないままに「巫女」へと着替えさせられた彼女の姿を見て、父である頼信は「娘」の滅多に見ない姿に細い目を一層細くしてまじまじと頼義を眺める。供の者たちも普段あまり意識していなかった頼義の女性らしい美しさを改めて目の当たりにして、ため息をつき頬を染めた。
「〜〜〜!!もう、父上も皆も、は、恥ずかしいからそんなにジロジロと見ないでくださいっ!」
らしくも無く頼義は耳まで真っ赤にして自らの裾で顔を隠した。
「もう、何でこんな事になってんのかな〜っ!!」
頼義の愚痴もよそに、そんなこんなでようやく会談の場である中禅寺湖まで辿り着いたわけなのであるが、まさか和平の会談の場であのような惨劇が起こる事になろうとは、さしもの頼義も予想していなかった。




